妃候補のはずなのに、心が揺れてしまう
朝日が差し込む部屋で、エリナは鏡の前に立った。
今朝の自分は、ほんの少しだけ顔色が違う気がする。
(…あの人のこと、まだ考えてるなんて)
路地裏で偶然出会った青年。
乱暴で無愛想だったのに、なぜか放っておけず、
気づけばあの腕に触れたあたたかさまで思い出してしまう。
(ダメだ…私は妃候補。こんな気持ち、持っちゃいけないのに)
首を振って気を取り直し、部屋を出る。
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廊下に出た途端、ひそひそ声が耳に入った。
「聞いた? エリナ様、昨夜どこかへ出ていたらしいわよ」
「妃候補の自覚が足りないって噂よ。夜に外をうろつくなんて」
足が一瞬止まった。
(え……なんで?ただ薬草を取りに行っただけなのに)
誰にも見られた覚えはない。
なのに、どうして噂になっているのだろう。
エリナは俯いたままその場を通り過ぎた。
胸のざわつきは噂のせいだけではない。
青年の顔が、また脳裏に浮かんだせいだ。
(あの声…どこか、懐かしかったような…)
初めて出会ったはずなのに、不思議に胸が痛む。
思い出すたび、自分でも説明できない感情が膨らんでいく。
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昼下がり、エリナはひとり中庭のベンチに座った。
冬の光は弱く、風の音だけが静かに響く。
(妃候補なのに…知らない男性のことで心が揺れるなんて。
どうして私は、あんな人を思い出してしまうんだろう)
ふと、どこかから視線を感じた気がして振り返る。
しかし誰もいない。
ただ、城壁の上に立つ黒い影には気づかなかった。
――バルディンだ。
腕を組み、心底つまらなそうに城下を見下ろしながら、
その目だけが、中庭にいるエリナの姿を追っていた。
(…昨夜の女。まだ顔色がいいじゃねぇか)
口の端がわずかに釣りあがる。
(まあいい。焦る必要はねぇ。ゆっくり追い詰めりゃいい)
その気配がエリナの背中をひやりと撫でたが、
彼女はただ風が冷たいだけだと思った。
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夜、部屋でぼんやりしていると、侍女が訪ねてきた。
「エリナ様。明日の朝、妃候補の皆さまに“通達”があるそうです」
「通達……?」
「『昨夜、不適切な行動があった候補者がいる』とのことです」
エリナの心臓が大きく跳ねた。
(まさか……私?)
侍女が去ったあと、エリナは胸元を押さえた。
(どうしよう……何も悪いことはしていないのに)
不安で眠れない。
青年の、あの冷たいようで優しいような声がまた頭をよぎる。
――彼がきっかけで、私の生活は少しずつ狂い始めている。
それに、エリナはまだ気づいていなかった。
“昨夜の不適切行動”という通達を出したのが、
まさにあの青年=バルディン本人であることに。




