行くのをやめた、その理由
一度は、行くのをやめた。
それでいいと、自分に言い聞かせたはずだった。
王宮の回廊は、午後の柔らかな光に包まれていた。
エリナは、胸に書類を抱えたまま、静かに歩いていた。
本来なら、執務室へ向かうはずだった足は、いつの間にか速度を落としている。
(……本当に、行っていいの?)
薬草の在庫報告。
それは、ただの仕事だ。
妃候補として、何もおかしなことではない。
そう分かっているのに、扉の前に立つ自分を想像するだけで、胸の奥がざわついた。
(……今、会ったら)
あの香りを思い出してしまう。
あの夜と、馬車の事故の日と、同じ距離。
それ以上、近づいてしまったら――
自分の中で、何かが決定的になってしまいそうで。
エリナは、小さく息を吐いた。
(後で、侍女に頼もう)
そう決めた瞬間だった。
前方から、静かな気配が近づいてくる。
数人の侍女に囲まれた、一人の女性。
淡い色のドレス。
控えめでありながら、自然と視線を引き寄せる佇まい。
すれ違いざま、侍女のひとりが小さく囁いた。
「王女殿下でいらっしゃいます」
エリナの胸が、わずかに跳ねた。
(……王女)
足を止めることなく、静かに頭を下げる。
王女は穏やかな微笑みを浮かべていた。
ただ、その歩みの中に――
一瞬だけ、わずかな“間”があった。
(……?)
気のせいかもしれない。
けれど、エリナは視線を落とした。
ドレスの裾。
ほんの少し、不自然な体重のかかり方。
(……足)
確信には至らない。
ただ、長く歩かないようにしているようにも見えた。
王女は、ふと立ち止まり、エリナに視線を向けた。
「あなたが、エリナさん?」
柔らかな声だった。
「はい。エリナと申します」
「噂は聞いています。薬草や食事のことに詳しいと」
思いがけない言葉に、胸が小さく揺れる。
「いえ……まだまだ勉強中です」
控えめに答えると、王女は楽しそうに微笑んだ。
「そう? とても助かっていると聞いたわ」
その仕草は、あまりにも自然で。
王宮にいることが、当たり前の人の所作だった。
(……親しいんだ)
王子と。
長い時間を共有してきた相手なのだと、否応なく伝わってくる。
王女は短く会話を終えると、侍女に促されるように歩き出した。
その背中を見送りながら、エリナは小さく息を吐いた。
(……王子様には、婚約者がいた)
知識としては、知っていたはずだ。
けれど、こうして目の前にすると、重みが違う。
自分は妃候補のひとり。
同じ場所に立っているつもりでいただけ。
本当に並び立つ相手は――
最初から、決まっていたのかもしれない。
エリナは、胸元で指をそっと握りしめた。
(私は……私にできることをするだけ)
選ばれるかどうかは、分からない。
それでも、立ち止まる理由にはならない。
書類を抱え直し、回廊を進む。
執務室の方向から、そっと視線を逸らしながら。
その背後で――
彼女が来るはずだと、静かに待っている視線があることを。
エリナは、まだ知らなかった。




