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扉の向こうにいた人

 王宮の回廊は、昼下がりの光に満ちていた。


 白い石床に差し込む陽光。

 高い天井に反射する、やわらかな音。


 エリナは、胸に書類を抱えながら、足を止めていた。


 ――勇気を出して、執務室へ行こう。


 そう決めていたはずなのに、

 目の前の扉から聞こえてきた声が、その決意を止めた。


「……相変わらずね」


 穏やかで、どこか親しみのある声。


 続いて、低く笑う声が重なる。


「今さら、何を言う」


 ――王子。


 はっきりと分かる、その声に、

 エリナは思わず息を詰めた。


 扉の向こうにいるのは、

 王子と、もう一人。


「妃候補たちのことよ。

 あまり、からかいすぎないで」


 たしなめるようでいて、

 責める調子ではない。


 むしろ――

 よく知っている相手に向ける声だった。


「心配してるのか?」


「……違うわ」


 即座に返される否定。


 けれど、その沈黙が、

 言葉以上に多くを語っている気がした。


「婚約者なんだから、

 嫉妬する必要はないだろう」


 軽く、冗談めかした口調。


 その一言が、

 胸の奥に、静かに落ちる。


(……婚約者)


 耳にしただけなのに、

 心臓が、ひくりと鳴った。


「嫉妬じゃないわ。

 ただ……あなたは昔から、やり方が過激なの」


 王女の声は、変わらず穏やかだった。


 怒りも、動揺もない。

 長い時間を共にしてきた人にしか出せない、距離感。


「分かっている。

 お前のことは、誰よりも」


 その言葉に、

 エリナの指先が、わずかに震えた。


 ――この二人は、近い。

 理由は分からない。

 けれど、声だけで、そう感じてしまうほどに。


 エリナは、無意識に一歩、後ずさった。


 胸の奥が、静かに冷えていく。


 さっきまであったはずの熱が、嘘のように引いていった。


(……王子様には、婚約者がいたんだ)


 その事実が、遅れて胸に落ちてくる。

 知らなかったわけじゃない。

 けれど、本当の意味で分かっていなかった。


 自分が入り込める隙間など、最初からなかったのだと――

 今さら、はっきり分かってしまった。


 エリナは、書類を胸に抱き直す。


(……今日は、やめよう)


 勇気を出す理由が、音を立てて崩れていくのを感じながら、

 静かに踵を返した。


 王子の隣にいるのは、

 最初から、こういう人なのだ。


 自分とは違う。

 揺れない人。

 迷わない人。


 王女の声には、

 不安も、怯えもなかった。


 ただ、長年そこにあった関係の重みだけがある。


(……私が、入り込める場所じゃない)


 妃候補として選ばれた立場でも、

 同じ場所に立っているつもりでも。


 本当に並ぶ相手は、

 もう決まっているのかもしれない。


 エリナは、そっと書類を抱き直した。


 ――今は、行かない。


 扉を叩く勇気は、

 静かに胸の奥へしまい込む。


 この場で会えば、

 きっと、自分の顔に出てしまうから。


 踵を返し、回廊を歩き出す。


 一歩、また一歩と、

 距離を取るように。


 背後で、扉が開く音がした。


 けれど、振り返らなかった。


 エリナはまだ知らない。


 王子が、

 その直後に――

 なぜか、妙な胸騒ぎを覚えていたことを。


 そして、

 「近すぎる存在」が、

 彼にとっては決して“欲しい愛”ではないことを。

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