会えなかった、それだけなのに
その少し後。
王宮の執務室で、男は書類に目を通していた。
静かな室内に、紙を繰る音だけが落ちる。
控えめな足音が近づき、扉の外から従者の声がした。
「殿下。
先ほど、薬の在庫について簡単な報告がありました」
「……誰だ」
問い返した声は、自分でもわかるほど低かった。
「妃候補の一人、エリナ様です。
本書類は、後ほど改めてお持ちすると」
その名を聞いた瞬間、男の指が止まる。
(……来た?)
本来、侍女に任せているはずの仕事だ。
わざわざ本人が執務室まで来る理由はない。
(……確かめに来たのか)
馬車の事故。
あの一瞬、腕に伝わった体温。
そう考えてから、男は小さく息を吐いた。
執務室の扉の向こうに立つ彼女の姿を、思わず想像してしまう。
書類を抱え、少しだけ躊躇いながら立っていたのか。
それとも、何事もない顔で、淡々と用件を告げたのか。
(どちらにせよ)
今、顔を合わせるのは得策じゃない。
あの距離で、あの香りを感じた直後だ。
視線一つ、声の調子一つで――
自分のほうが、余計な反応をしてしまう。
男は、無意識に指先に力を込めていた。
感情を揺らすつもりはなかった。
少なくとも、ここでは。
(……まだだ)
自分に言い聞かせるように、心の中でそう繰り返す。
「分かった」
短く答え、視線を再び書類に落とした。
――今、会うわけにはいかない。
ここで顔を合わせれば、
自分の反応まで見透かされる気がした。
⸻
一方。
執務室を離れた回廊で、エリナは書類を胸に抱えながら歩いていた。
(……後ほど、改めて)
自分で口にした言葉を、何度も思い返す。
本当は、その場で渡してもよかった。
書類は揃っていたし、理由もあった。
それなのに。
(……確かめたかった、のかな)
執務室に残っていた、淡く落ち着いた香り。
あの夜、路地裏で感じたものと――よく似ていた。
胸の奥が、かすかに疼く。
(違う)
妃候補として、余計な期待をしてはいけない。
自分に言い聞かせるように、歩調を早めた。
それでも。
次に執務室を訪れるとき、
平気な顔ができるだろうか――
そんな不安が、ふと胸をよぎる。
考えてしまった時点で、
もう平気ではないのだと、薄々気づいていた。
⸻
執務室に戻った男は、閉じた書類を机に置き、椅子の背にもたれた。
(偶然か)
そう思おうとして、思い切れない。
距離を取ろうとしていたはずの女が、
自分のいる場所へ、わざわざ足を運んだ。
(……妙だな)
知らないうちに、
互いの間に張られていた線が、少しだけ揺らいでいる。
男は、無意識のうちに指先を組んだ。
――次に来るとき。
自分は、平静を保てるだろうか。
そんな疑問が浮かんだこと自体、
すでに想定外だった。
男はそれ以上考えるのをやめ、
書類を取り上げて視線を戻す。
今は、まだ。
確かめるには、少し早い。




