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残り香だけが、答えを知っている

 昼下がりの王宮は、音を吸い込んだように静かだった。


 エリナは胸元に書類を抱え、長い回廊を進んでいく。

 薬の在庫報告。いつもなら侍女に任せる内容だが、今日はたまたま執務室の近くを通る予定があった。


(すぐ渡して、戻ろう)


 そう思っていた。

 ――扉の前に立つ、その瞬間までは。


 ふと、足が止まる。


(……)


 空気に、微かに混じる気配。

 甘さを含んだ、けれど軽くはない香りが、そっと鼻先を掠めた。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


(……また)


 あの夜。

 路地裏で、怪我の手当てをしていたとき。


 体温に溶けるような、

 近すぎる距離で感じた、甘さを含んだ香り。


 思い出そうとしたわけではない。

 けれど、身体が先に覚えてしまっている。


(気のせい……)


 そう言い聞かせようとしたのに、

 扉の向こうから漂ってくる空気は、あまりにも“近い”。


 エリナは、そっと息を整え、扉を叩いた。


「失礼いたします」


 返事はない。


 一瞬だけ迷ってから、静かに扉を開ける。


 執務室の中は、整いすぎるほど整っていて、

 ――人の姿はなかった。


(……いない?)


 けれど、机の上には閉じられていない書類。

 グラスには飲み干されていない水。

 椅子も、完全には戻されていない。


 つい先ほどまで、誰かがここにいた痕跡。


 そこへ、廊下から足音が近づく。


「エリナ様?」


 執務室付きの侍従が、穏やかに声をかけてくる。


「殿下にご用件でしょうか」


「はい。薬の在庫報告を……」


 答えると、侍従は少しだけ困ったように微笑んだ。


「殿下でしたら、つい今しがた席を外されました。

 すぐ戻られるとは思いますが……お預かりしましょうか?」


(……つい、今しがた)


 その言葉が、胸の奥に落ちる。


 エリナは、小さく首を振った。


「いえ。後ほど、改めてお渡しします」


 書類を抱え直し、執務室を後にする。


 扉が閉まる直前。

 もう一度だけ、あの香りが鼻を掠めた。


 ほのかに甘く、

 なぜか胸の奥をざわつかせる匂い。


(……同じ、だ)


 心が、静かに揺れる。


 あの夜の人。

 路地裏で、低い声で何気ない言葉を投げ、

 手当てをされる間、近すぎる距離にいた人。


 そして――

 この国の、王子。


(……本当は)


 もし、同じ人だったら。


 そんな考えが浮かんだ瞬間、

 エリナは慌てて首を振った。


 ――だめ。


 期待してはいけない。

 妃候補なのだから、冷静でいなければ。


 そう思ったはずなのに、

 胸の奥が、ちくりと痛む。


(……どうして)


 答えは、分かっている。

 分かっているからこそ、確かめてはいけない。


 エリナは足早に回廊を進む。


 背後で、誰かがこちらを見ていたとしても――

 気づかないふりをして。


 執務室を離れても、胸のざわめきは消えなかった。


 香り。

 ほんの一瞬、確かに感じた、あの余韻。


(……気のせい、だよね)


 そう思おうとするほど、

 記憶は、なぜか鮮明になる。


 あの夜。

 路地裏で、傷に触れないよう慎重に布を当てた頬。

 低く、落ち着いた声。

 触れていないのに、近すぎた距離。


 そして――

 今日、執務室の扉の前で感じた、同じ空気。


 胸の奥が、静かに痛む。


(……同じ人、なんて)


 考えるだけで、息が詰まりそうになる。


 エリナは、ぎゅっと拳を握った。


 まだ、何も確かめていない。

 ただ、似ていただけかもしれない。


 それなのに。


 心の奥で、

 小さな灯りが、消えずに揺れている。


 消そうとすればするほど、

 なぜか――強く意識してしまうことに。


 エリナは、まだ気づいていなかった。

 その香りが、

 “忘れさせてくれないためのもの”だということに。

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