前を向こうとした朝、視線に気づかずに
朝の王宮は、澄んだ空気に包まれていた。
中庭に差し込む光はやわらかく、噴水の水音が静かに響いている。
舞踏会の余韻が残っているはずなのに、今日は不思議なほど穏やかだった。
エリナは、外套を腕にかけながら、深く息を吸う。
(……大丈夫)
そう、心の中で繰り返す。
舞踏会から数日が経った。
王子に選ばれなかったことも、
仮面の男性が他の女性と踊っていたことも、
もう、事実として受け入れなければならない。
(それだけのこと)
自分は妃候補だ。
誰か一人に期待して、落ち込む方がおかしい。
そう分かっているのに――
胸の奥に残る重さは、まだ消えなかった。
仕事に集中すれば、少しは紛れる。
そう思って、エリナは今日の予定を思い返す。
厨房用の薬草が足りない。
街に出て、少し補充してくるだけだ。
ただ、それだけ。
城門へ向かう途中、廊下で人の気配を感じた。
「エリナ様」
振り返ると、第二王子――ルシアンが立っていた。
柔らかな表情はいつも通りだが、どこか慎重そうにも見える。
「街へ行かれるのですか?」
「はい。少し、薬草を」
そう答えると、ルシアンは小さく頷いた。
「無理はなさらないでください。
……最近、少しお疲れのように見えます」
一瞬、言葉に詰まる。
隠しているつもりだった。
でも、気づかれていたのかもしれない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
エリナは微笑んだ。
「せっかく妃候補としてここにいられるのですから。
私にできることは、ちゃんとやりたいんです」
それは、誰に向けた言葉だったのだろう。
ルシアンか、自分自身か。
ルシアンはそれ以上何も言わず、静かに視線を和らげた。
「……そうですか。では、いってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
見送られる背中に、エリナは一度だけ頭を下げ、城門をくぐった。
⸻
王都は、いつもと変わらない賑わいだった。
屋台の呼び声。
石畳を行き交う人々。
この場所だけが、時間を止めずに動いているように見える。
薬草店をいくつか回り、籠が少し重くなる。
(……よし)
これで十分だろう。
帰ろうと歩き出した、そのとき。
理由もなく、背中がざわついた。
誰かに見られているような、
でも振り返るのが怖いような感覚。
(……考えすぎ)
エリナは首を振る。
(……頑張らなきゃ)
エリナは、ぎゅっと籠の持ち手を握り直した。
舞踏会で選ばれなかったからといって、
すべてが終わったわけじゃない。
妃候補である以上、
王子に見てもらう機会は、まだある。
仕事に向き合って、
信頼を積み重ねて、
それでも駄目だったなら――そのとき考えればいい。
(弱気になるのは、まだ早い)
自分にそう言い聞かせる。
それなのに。
胸の奥に、わずかに残る影が、どうしても消えなかった。
もし、このまま――
どれだけ努力しても、
王子に見向きもされなかったら?
もし、自分は最初から、
「選ばれない側」だったのだとしたら?
(……だめ)
エリナは、かぶりを振る。
考えすぎだ。
今は、前を見るだけでいい。
そうやって、
不安ごと、胸の奥に押し込めるようにして、
再び歩き出した。
最近、気持ちが弱っているだけだ。
仮面の男のことを、引きずりすぎている。
(忘れなきゃ)
忘れようとすると、胸が痛む。
それでも、前を向かなければ。
エリナは、歩調を少しだけ速めた。
その背中を、
遠くから静かに追う影があることを――
彼女は、まだ知らない。




