俺以外を考えるな、と思ってしまった夜
王宮の上階。
人払いの済んだ静かな執務室で、男は書類に目を通していた。
……いや、正確には、文字を追っているだけだった。
内容は、頭に入ってこない。
(今日も、随分と忙しそうだったな)
ふと浮かぶのは、昼間に見かけた一つの背中。
廊下を足早に進む姿。
人の視線を避けるように、まっすぐ前だけを見ていた。
必要以上に、きちんとした歩き方。
(……分かりやすい)
男は、心の中でそう呟く。
頑張っている。
余計なことを考えないように、必死に。
――だからこそ。
空回っているのが、よく分かる。
書類を机に置き、椅子にもたれかかる。
長い息をひとつ吐いた。
(王子に選ばれなかった)
(仮面の男にも選ばれなかった)
……きっと、今はそんなところだろう。
舞踏会のあとから、
彼女の動きは、はっきり変わった。
仕事を増やし、
人との距離を保ち、
余計な感情を、押し込めている。
(真面目すぎるんだよ)
だから、壊れやすい。
男は、指先で机を軽く叩いた。
舞踏会で、わざと他の女と踊った。
あの視線が、こちらを追っていたのも知っている。
――期待して、
――否定して、
――勝手に落ち込む。
その一連の流れが、
あまりにも思惑通りで。
(ちゃんと、空回ってるな)
口元に、薄く笑みが浮かぶ。
特別じゃないと思わせる。
意味なんてなかったと、思い込ませる。
それだけで、人はここまで追い詰められる。
(……だから、面白い)
――そう思った、はずだった。
なのに。
脳裏に浮かぶのは、
俯いた横顔。
噂話を聞いたときの、
一瞬だけ、動きが止まった足。
それを見た瞬間、
胸の奥に、ちくりとしたものが走った。
(……余計な反応だ)
男は、眉をわずかに寄せる。
苛立ち。
それに近い、不快感。
予定通りだ。
こちらの手のひらの上で、綺麗に転がっている。
それなのに。
(……やりすぎたか?)
一瞬だけ、そんな考えがよぎる。
すぐに、打ち消した。
甘やかす必要はない。
今は、まだ。
距離を取ろうとすればするほど、
意識は戻ってくる。
その段階に、ちょうど入っただけだ。
男は、机の引き出しを開けた。
中には、同じ筆跡で書かれた紙が何枚か入っている。
短い言葉。
説明のない指示。
(無理をするな)
たった一行で、
あれだけ迷わせることができる。
(……捨てられなかったな)
それも、ちゃんと知っている。
怒って、
苛立って、
それでも捨てられない。
そこまで来れば、もう十分だ。
男は、紙を元の場所に戻し、引き出しを閉めた。
(次は……そうだな)
頑張れば報われると、思わせて。
それでも、手が届かない位置に立つ。
そうやって、
自分の方を見ずにはいられなくする。
執務室の窓から、夜の王都を見下ろす。
灯りの向こうに、
あの小さな影があるのを、知っている。
(逃げるなよ)
追わせたいわけじゃない。
縋らせたいわけでもない。
――ただ。
自分の存在を、
否定できなくなるところまで。
男は、ゆっくりと目を細めた。
(……ちゃんと、壊れてきてる)
その事実に、
満足しながら。
――それなのに。
(……まだ、足りない)
ふと、そんな考えが浮かんだことに、
男自身が一瞬だけ戸惑った。
もっと迷えばいい。
もっと苦しめばいい。
そう思っていたはずなのに。
最近は、
「どこまで落ちるか」ではなく、
「どこまで自分を求めるか」を考えている。
(俺を探せ)
(俺を思い出せ)
(俺以外を、考えるな)
そんな言葉が、喉元までせり上がってくる。
男は、ゆっくりと息を吐いた。
(……面倒だな)
欲が、ひとつ増えた。
ただ壊すだけでは、
もう、満足できなくなりつつあることを――




