計算通りのはずだった
夜の王宮は、昼間とは別の顔を見せる。
灯りを落とした回廊。
遠くで鳴る時計の音。
男は、書斎の椅子に深く腰掛け、片手でグラスを傾けていた。
赤い液体が、ゆっくりと揺れる。
「……ちゃんと、効いてるな」
舞踏会のあと。
あの女――エリナの様子は、すぐに報告が上がってきた。
顔色が悪い。
食事の量が減った。
仕事に集中しているようで、どこか上の空。
どれも、想定通りだ。
(特別じゃないと思わせて、距離を取らせる)
(それでも頭から離れなくする)
何度も使ってきたやり方。
失敗したことはない。
今回も、そうなるはずだった。
男は、口元を緩める。
(……ああ、いい顔をしてた)
手紙を受け取ったときの反応。
捨てようとして、捨てられなかったと聞いた。
想像するだけで、喉が鳴る。
(苛立って、迷って、それでも手放せない)
ああいう瞬間が、たまらなく楽しい。
グラスを置き、指先で机を軽く叩く。
――なのに。
ふと、胸の奥に引っかかるものがあった。
(……妙だな)
報告の中に、ひとつだけ、気に入らない言葉が混じっていた。
『廊下で、第二王子と話していたそうです』
それだけのことだ。
他愛のない会話だったと、続けて聞いている。
(守る気か? あいつ)
男は、舌打ちしそうになるのを堪えた。
守られる必要なんてない。
あれは、自分の暇つぶしだ。
他の誰かが関わる理由は、ない。
(……余計なことをするな)
そう思った瞬間、
自分の中に生まれた感情に、わずかに眉をひそめた。
苛立ち。
――いや。
それは、いつも感じているものとは、少し違う。
(気に入らないだけだ)
そう、ただそれだけ。
他人の手が入るのが、気に入らない。
自分が作った“流れ”を、乱されるのが嫌なだけだ。
そう言い聞かせる。
グラスに残ったワインを、一気に飲み干した。
(選ばれなかったと思わせて、落とす)
それが、今回の筋書きだ。
なのに。
もし――
あの女が、本当に離れようとしたら?
一瞬、そんな考えが浮かび、
男は眉を寄せた。
(……ないな)
捨てられない。
もう、捨てられないところまで来ている。
そうでなければ、
あの手紙を引き出しにしまったりしない。
男は、椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
夜の王都が、静かに広がっていた。
(楽しんでいるはずだ)
事実、楽しい。
反応は、思った以上に素直だ。
――それなのに。
胸の奥に残る、ほんのわずかな違和感。
それは、これまで感じたことのない種類のものだった。
(奪われるはずがない)
あの女は、まだ何も知らない。
自分の正体も、意図も、すべて。
それなのに。
もし――
自分の知らないところで、
誰かの言葉に救われてしまったら。
誰かの存在で、
この夜のざわめきを忘れてしまったら。
そんな想像が、頭をよぎった瞬間、
男は無意識にグラスを強く握りしめていた。
(……くだらない)
馬鹿げている。
所詮は、暇つぶしだ。
感情を挟む必要なんて、ない。
それでも。
「第二王子」という名前が、
不意に胸の内で音を立てた。
(あいつは、違う)
自分のように、
壊す前提で触れる男ではない。
守るだの、慰めるだの、
そういう無駄なことを、平気でやる。
だから――
余計だ。
男は、静かに息を吐いた。
(面倒になる前に)
これ以上、踏み込ませる気はない。
エリナが向ける視線も、
迷いも、期待も。
全部、自分の方だけを向いていればいい。
そうでなければ、
この遊びは、面白くなくなる。
男は、それに名前をつけることを避けた。
(まあ、いい)
今は、まだ。
壊れる手前で、足掻いているくらいが一番いい。
男は、薄く笑う。
(もう少しだ)
自分から目を逸らせなくなった、その先で。
そのときこそ――
本当に、面白くなる。




