捨てられないと、分かっている
その頃。
王宮の一角、静かな部屋で、
男はワイングラスを指先で転がしていた。
「……無理をするな、か」
呟いた声は、どこか楽しげだった。
紙切れ一枚。
たった一行。
それだけで、
あの女の胸がどれほど乱れるか――
もう、分かっている。
(捨てるか?
それとも、捨てられないか)
答えは、最初から決まっている。
――ああいう女は、
優しさを拒めない。
拒めないからこそ、
拒まれたときに、
深く、静かに傷つく。
それを、
自分でも気づかないまま。
(……だから、面白い)
怒るだろう。
苛立つだろう。
自分勝手だと、理不尽だと、思うだろう。
それでも。
(……捨てられない)
男は、口元だけで笑った。
舞踏会で他の女と踊ったのも、
わざとだ。
特別じゃないと思わせて、
距離を取らせて、
それでも頭から離れなくする。
(選ばれなかったと思わせるのが、一番効く)
ああいう女は、
自分を責め始めた瞬間から、
もう終わりだ。
誰のものでもないと思わせて、
でも、誰よりも強く意識させる。
それだけでいい。
グラスの中で、赤い液体が揺れる。
(その手紙を捨てられなかった時点で)
もう、
俺の勝ちだ。
夕方、エリナが部屋に戻ると、一通の小さな封が机の上に置かれていた。
差出人はない。
中身も、たった一行だけ。
『無理をするな』
それだけ。
指先が、微かに震える。
エリナは、紙をぐしゃりと握りしめた。
「……こんなの」
捨てようとした。
本当に。
けれど。
もし、これが
ただの気まぐれだったら。
もし、
誰にでも送っている言葉だったら。
そう考えた瞬間、
胸の奥が、ひどく苦しくなった。
(……違う)
理由は分からない。
でも――
“そうであってほしくない”と、
願っている自分がいた。
ゴミ箱の前で、
指が止まる。
――捨てられない。
エリナは、震える手で手紙を伸ばし、
引き出しの奥へ押し込んだ。
(……誰)
問いかけても、答えは浮かばない。
それなのに、
胸の奥で、妙な納得が広がっていく。
追いかけてはいけない。
確かめてもいけない。
これは、ただの気遣い。
それ以上の意味は、ない。
(……そうでしょう?)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
夜になっても、眠れなかった。
寝台に横になり、目を閉じても、
昨夜の舞踏会の光景が浮かぶ。
仮面の奥の視線。
すれ違いざまに落とされた、あの一言。
(似合ってる)
たったそれだけなのに、
忘れようとするほど、はっきり思い出してしまう。
(……私は、何を期待しているの)
自分でも分からない。
分からないからこそ、怖かった。
エリナは、静かに身を起こす。
窓を開けると、夜風が頬を撫でた。
遠くに、王都の灯りが見える。
昨夜と同じ景色。
でも、もう行かない。
(……行かない)
そう決めたはずなのに。
胸の奥で、
小さく、でも確かに何かが囁いた。
――それでも、また会いたい。
その声を、エリナは必死に押し殺した。
まだ、触れられてもいない。
なのに。
気づかぬうちに、
心だけが、少しずつ近づいてしまっていることを――
エリナは、まだ認めたくなかった。




