似合ってる
舞踏会の夜、王宮は光に満ちていた。
高い天井から吊るされた燭台。
磨き上げられた床に反射する、幾重もの色。
音楽と笑い声が混ざり合い、華やかな空気が満ちている。
エリナは胸の奥を押さえ、そっと息を吐いた。
鏡に映る自分は、いつもより少しだけ違って見える。
淡い色のドレスは、不思議なほど身体に馴染んでいた。
(……着てしまった)
迷いはあった。
それでも、結局このドレスを選んだのは自分だ。
会場に一歩踏み出した瞬間、視線が集まる。
「……あのドレス」
「初めて見るわね」
囁き声が背中をなぞる。
エリナは小さく微笑み、言葉を受け流した。
音楽が変わる。
ダンスが始まり、人々が輪を描く。
エリナは、思わず視線を巡らせた。
理由は分からない。
ただ、無意識に、誰かを探しているような気がして。
そのときだった。
――視線を感じた。
強く、はっきりと。
どこからか、一直線に。
エリナは思わず足を止める。
ゆっくりと、視線の先を探した。
会場の端。
柱の影。
そこに、仮面をつけた男が立っていた。
姿勢は崩さず、周囲に溶け込むように。
けれど、その視線だけが、確かにこちらを捉えている。
胸が、どくりと鳴った。
(……違う)
理由はない。
ただ、そう思った。
顔は見えない。
声も聞こえない。
それなのに、視線を外せなかった。
音楽が流れ、ダンスの輪が動く。
人の流れに押され、エリナは視線を切らざるを得なくなった。
数曲が終わる。
気づけば、仮面の男の姿は見えなくなっていた。
(一緒に……踊らないの?)
そう思ってしまった自分に、エリナは慌てて首を振った。
(違う。何を期待しているの)
そう思おうとしたのに、胸の奥が、ひくりと痛む。
(……気のせい)
そう思おうとした、その瞬間。
――視線を外そうとした、そのとき。
すぐ近くで、足音が止まった。
距離は、ほんの数歩。
近づいてこないのに、空気だけが変わる。
甘い香りと、かすかな体温。
誰かが、すぐそばに立っている。
エリナは、思わず指先を握りしめた。
仮面越しに向けられる視線は、静かで、
けれど、逃げ場を探るように執拗だった。
見られている。
そう思った瞬間、背中がひくりと震える。
(……何も、言わないの?)
振り向けば、きっと目が合ってしまう。
そう思うと、息をするのも怖かった。
ほんの数秒。
けれど、やけに長く感じる沈黙。
その間ずっと、
自分がどんな顔をしているのかさえ分からない。
ふっと、気配が離れた。
残ったのは、熱のような感覚だけだった。
背後を、空気が通り過ぎた。
ほんの一瞬。
すれ違う距離。
そのとき、低い声が落ちる。
「……似合ってる」
それだけ。
振り返ったときには、もう誰もいなかった。
心臓が、痛いほど跳ねる。
(……今の)
間違いない。
聞き覚えのある声。
あの夜。
路地裏で。
エリナは、その場に立ち尽くした。
音楽も、笑い声も、遠くに感じる。
仮面の男は、もう見当たらない。
それなのに、見られている感覚だけが残っていた。
まるで――
最初から、ここに来ると分かっていたかのように。
エリナは知らない。
あのドレスが、
この舞踏会で“見つけやすい色”だったことを。
そして。
この夜が、
彼女の心を静かに揺さぶるだけで終わらないことを。




