離れようとして、離れられなくて
朝の空気は、驚くほど澄んでいた。
昨夜のことが夢だったのではないかと思うほど、王宮はいつも通りの静けさを取り戻している。
廊下を歩く足音、遠くから聞こえる侍女たちの声。
何も変わっていない。
――いいえ。
変わったのは、私だ。
エリナは胸元を押さえ、深く息を吐いた。
あの夜、どうして街へ出てしまったのか。
どうして、あの路地まで足が向いたのか。
考えないようにしても、答えは浮かんでくる。
(……会いたかった、なんて)
すぐに首を振る。
違う。
そんな言葉で片づけてはいけない。
理由も分からない相手に、惹かれるなんて。
妃候補として、してはいけないことだ。
エリナは、外套を取り出した。
昨夜、肩に掛けられた布地。
まだ、かすかに体温が残っている気がして、指先が止まる。
(……返そう)
それが、正しい。
これ以上、関わらないためにも。
そう決めて、丁寧に畳もうとした瞬間――
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
なぜだろう。
ただの布切れのはずなのに。
外套を膝の上に置き、しばらく動けずにいた。
エリナは、ゆっくりと外套を撫でた。
指に触れる布地は上質で、王宮のものとはどこか違う。
街の埃の匂いと、ほのかな香りが混じっている。
(……どこの人なんだろう。少なくとも、私の知らない世界の)
考えないようにしていた問いが、また胸に浮かぶ。
身なりも言葉遣いも、どこか不思議だった。
乱暴でもなく、親切すぎるわけでもない。
ただ、必要なことだけを静かにする――そんな距離感。
(名前も、知らないのに)
それなのに、こうして思い出してしまう自分が、情けなかった。
エリナは外套を畳み、机の引き出しにしまった。
見えない場所に押し込むように。
――返すのは、もう少し気持ちが落ち着いてからでいい。
――これでいい。
そう言い聞かせながら、鍵をかける指先が、わずかに震えた。
その日の仕事は、驚くほど順調だった。
薬草の仕分け、献立の確認、侍女との打ち合わせ。
一つ一つに集中しようとすればするほど、
逆に、頭の隅に「声」が残る。
(余計なことをするな)
誰に向けられた言葉だったのか。
思い出そうとすると、胸がざわつく。
昼を過ぎても、気持ちは落ち着かなかった。
中庭を通りかかったとき、ふと足が止まる。
城門の向こうに、王都の屋根が見えた。
昨夜と同じ風が、頬を撫でる。
(……行かない)
エリナは、心の中で強く言い聞かせた。
もう夜は出ない。
あの場所にも近づかない。
そう決めたはずなのに、
気づけば、何度も門の方を振り返っている自分がいる。
部屋に戻り、窓を閉める。
外の気配を遮断するように、しっかりと。
それでも、完全には消えなかった。
夜になると、眠れなかった。
寝台に横になっても、瞼の裏に浮かぶのは暗い路地と、影に立つ男の姿。
暗がりのせいか、顔ははっきりとは思い出せなかった。
でも、声だけははっきり覚えている。
(……危ない)
そう思うのに、嫌ではなかった。
それが、いちばん怖かった。
エリナは、引き出しの奥を思い浮かべながら、そっと目を閉じた。
――離れよう。
本当に。
心の中で何度も繰り返す。
まだ、何も始まっていない。
なら、終わらせるのは簡単なはずだ。
なのに。
眠りに落ちる直前、
なぜか確信に近いものが胸をよぎった。
(……きっと、もう)
自分が思っているほど、
簡単には終わらないのだと。




