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誰かに救ってほしくて

 廊下を歩くたび、視線が絡みつく。


 誰かが立ち止まる気配。

 誰かが、わざと声量を落とす気配。


「……妃候補のくせに」

「夜に、男と歩いていたらしいわ」


 はっきりと言われるわけではない。

 それでも、誰のことを指しているのか分からないほど、エリナは鈍くなかった。


 背筋を伸ばし、足を止めずに歩く。

 振り返らない。言い返さない。


 ――大丈夫。

 何もしていない。

 後ろめたいことなんて、ない。


 そう心の中で繰り返しながらも、胸の奥がじわじわと痛んでいく。


 部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。

 吐き出した息が、思った以上に長い。


 椅子に腰掛け、手袋を外す。

 指先が、わずかに冷えているのに気づいた。


 ほどなくして、控えめなノック音が響いた。


「……エリナ様」


 ルシアンの声だった。


 扉を開けた瞬間、その表情を見ただけで、何を言われるのか察してしまう。

 期待していたわけではないのに、胸が小さく沈んだ。


「兄上には……話しました」


 ルシアンは視線を伏せ、言葉を選ぶように続ける。


「ですが……これ以上は、僕の立場では……」


 最後まで聞かなくても、意味は分かる。

 王宮では、力のある者の意向がすべてだ。


「……ありがとうございます」


 エリナはそう答えた。

 本心だった。


 守ろうとしてくれた人がいる。

 それだけで、救われるはずだった。


 それなのに、胸の奥は空っぽのままだ。


 ルシアンが去ったあと、部屋には静寂が戻る。

 灯りを落とし、寝台に腰を下ろしても、眠気は訪れなかった。


 目を閉じるたび、思い出してしまう。


 低い声。

 静かで、抑えたような言い方。


(余計なことをするな)


 誰の声なのか、分からない。

 いつ、どこで聞いたのかも、はっきりしない。


 それなのに、その声だけが、耳の奥に残って離れなかった。


 不意に、あの夜の路地裏が脳裏に浮かぶ。

 湿った石畳の匂い。

 酒と夜風が混じった空気。


 名前も知らない相手。

 もう二度と会わないはずの人。


(……会いたい)


 そう思ってしまった瞬間、エリナは息を詰めた。


 いけない。

 そんなはずはない。


 妃候補なのに。

 名前も知らない相手なのに。


 自分を責める言葉は、いくらでも浮かぶ。

 けれど、それでも胸の奥のざわめきは消えなかった。


 立ち上がり、窓辺に近づく。

 王都の灯りが、遠く瞬いている。


 ただ見ているだけのはずなのに、身体がそわそわと落ち着かない。


 気づけば、外套を手に取っていた。


 鏡に映る自分を見て、ほんの一瞬、迷う。


 ――やめよう。

 戻ろう。


 そう思ったはずなのに、足は止まらなかった。


 城の外へ続く扉を抜け、夜の空気に身をさらす。

 ひんやりとした風が、頬を撫でる。


 理由はない。

 行き先も、決めていない。


 ただ――

 あの夜と同じ匂いのする方へ、歩き出していた。


 エリナはまだ知らない。


 それが「逃げ」ではなく、

 自分から踏み込んでしまった一歩だということを。

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