91話 血の残り香
「逃げたい?」
最初は、ただの問いだと思った。
この屋敷から。
この劇から。
この呪いから。
そういう意味だと。
そうじゃない。
ここまで来て、ようやく分かる。
あれは確認だ。
この絶望を理解したのか。
彼女が辿り着いた結末を、受け入れたのか。
劇の中で死ぬことを、望めるほどに。
そこまで堕ちたのか。
そう聞いている。
……この呪いが、分かってきてしまった。
共感者が欲しいのだ。
アリスは自殺を止めない。
彼女は死ぬ時になってそれを望んだから。
花嫁の死は劇が完全に崩壊するほどのイレギュラーだ。
それなのに、僕は考える時間が与えられている。
呪いは彼女の絶望を理解するまで続く。
もし………劇中での死を望めば、共感したのなら、アリスは満足する。
迎え入れた花嫁の死には興味が無い。
ただ──
純粋に、少女らしく。
寂しがっているだけだ。
……ここまで理解できてしまう時点で。
もう、かなり深くまで侵されている。
アリスは変わらず虚ろな表情で見つめてくる。
……自殺しなければ。
劇はまた始まる。
そして、僕はあの子供部屋に戻される。
残された道は、二つしかない。
自殺して、哀れな花嫁として現世に戻るか。
それとも。
花婿に弄ばれた花嫁の呪いに、取り込まれるか。
喉の奥が、ひどく軋んだ。
……………嫌だ。
右手で胸の千切れかかったリボンを握り締める。
あの部屋に戻るなんて、吐き気がしてくる。
僕が耐えられるわけが無い。
壊れる。僕が私で居られなくなる。
でも───
「生き延びてね。」
───死ぬことも選べない。
かけられた言葉が僅かに理性を呼び起こす。
止まった時間が、やけに長く感じる。
アリスはただ、腕に抱かれたまま僕を見上げる。
選択を待っている。
言葉が、出ない。
喉が乾いている。
心臓の音だけがやけに大きい。
「逃げたい?」
頭の奥で、あの言葉がもう一度響く。
アリスは、何も言わない。
ただ、待っている。
……僕は。
「──アリス。」
声が、ひどく掠れていた。
「僕は」
一度、息を吸う。
「一緒に逃げたい。」
声が落ちる。
しばらく、何も起きない。
アリスはただ、僕を見上げている。
虚ろな瞳のまま。
そして。
「──そう。」
それだけ言うと、アリスはゆっくりと視線を落とした。
膝の上の僕へ。
上から、覗き込む。
冷たい膝に頭が乗っている。
細い指が、また額にかかった髪を整えた。
その指が離れるのを待ってから、ベッドから起き上がる。
彼女の虚ろな目は感情を見せてくれない。
起き上がった時の目線は高く、部屋は酷く狭く感じた。
アリスの傍からは離れず、顔だけ動かし窓の外を見る。
そこにはまだ落ちていない紅い日が見えた。
アリスの服装はふんわりとしたフリルドレスに戻っている。
飾られたリボンは可愛らしい少女に似合っている。
今は、呪いの花嫁ではない。
「…………周りの人たちはどうなったの?」
最初の言葉は、感謝でも慰めでもなかった。
そんな言葉は必要ないと思った。
あの時、そんなものは求めていなかった。
「──返して欲しいの?」
「………うん。」
心に浮かんだ言葉は、彼女への叱責でもなかった。
他人を呪いぐらい、当然だと思った。
「ねぇ、」
「………なに?」
僕はベッドに跪き、またアリスの手を取った。
温もりは感じない。
この夜は終わらない。
……彼女だけが、ここに残される。
「人形はね、大切にしなきゃいけないよ?」
掌の中の小さな手を強く握る。
少しでも。
アリスの表情が和らぐように。
だが、少女はその手を払い退ける。
代わりに、細い腕を大きく広げた。
僕は、人形を強く抱いたまま目を開けた。
腕の中には、紅いドレスの少女。
荒れたギルドの中には、香の匂いは何処にもない。
そこらで流れた血の匂いぐらいしか感じなかった。
床には、冒険者達が倒れ込んでいる。
最初にギアラさんが起き上がった。
その身体からは光が発していた。
彼女を守る太陽神の加護だろう。
「…あ~……何があったんですか?」
寝起きの彼女はまだ判断が追いついていないようだ。
アリスの呪いの前では加護すら意味をなしていない。
「………ギアラさんは大丈夫ですか?他の皆さんは?」
ギアラさんはう~~と唸りながら、近くの二人の脈を図る。
彼女の光は手に集中し、二人の状態を鑑定している。
そして、ちらりと僕の手の中を見た。
「……後遺症はありません。見せられた夢はあまり覚えてもいません。ですけど、最悪な気分ですよ。その人形──フレイさんはもちろん、この世の誰が持っても安全は保障できません。」
ギアラさんは大体を察したようだ。
アリスも記憶も消そうとはしてくれたらしい。
「……報告は止めて下さい。アリスは僕が────伏せろ!」
ギアラさんの肩に飛び掛かり、床へ押し倒した。
刹那、真上から振り下ろされた鉄塊がギルドの壁を抉った。
衝撃も、風切り音も、余計な破壊痕も無く、”抉った”。
「フレイッ!それに触れるなぁッ!」
ギルドマスターの声の方に、壁を切り裂いて飛び出す。
そこに居たのは四人。
ギルドマスター、シア、イザベラは肩を揺らし、消耗している。
中でもギルドマスターの負傷は深い。
左腕はねじ切られて血を垂らしていた。
僕の剣を軽く弾いた丸盾は凹んでいる。
というより、拳大の何かがめり込んだようだ。
「アリスは負けたのかぁ?せっかく同時攻撃だってのによぉ!」
今しがた着地したのは少年。
裸足にみすぼらしい服装、顔には大きな傷跡。
そして、獲物を振り回していた。
削りだしたような鉄塊は鎖に繋がれている。
両鎖分銅。
「ギアラァ!起きたんなら全員を退かせ!」
「うるせぇ!死にぞこないが!」
鎖は回転したまま軌道を変え、ギルドマスターへと襲い掛かる。
「マスター!」
僅かなうめきと共にギリギリで回避する。
あの筋肉の塊が、受けるではなく避けている。
「……フレイ!こいつはギルドに登録されている……!」
にやにや笑う少年を僕を加えた四人が囲う。
それでも鎖の動きも止められない。
「………A級として……な。」




