89話 花嫁は逃げられない
胃の奥から、粘つくような嫌悪感がこみ上げた。
恐怖心ではない。それは消えている。
僕を覗き込む顔は、塗り潰されたように認識できない。
だが、その下卑た目線が降り注いでいるのが分かる。
それがどうしようもなく気持ち悪かった。
花婿は、存在しない左腕を掴もうとしていた。
その隙に、僕は左腕の断面を脇腹に叩きつける。
ベッドから飛び降り、距離を取ることが出来た。
………僕だってかなり鍛えられている。
力の入りにくい体勢とはいえ、骨にヒビが入る威力であったはずだ。
花婿は何事もなく起き上がり、その役割を遂行する。
つまりは、僕に飛び掛かって来た。
正面からの単純な飛び掛かり。
見切るのは簡単だったが、ドレスが足を絡ませギリギリの回避になってしまった。
飾られていた花を、その花瓶を掴み、脳天に振り下ろす。
散らばった水は花婿の血だまりの様に広がり、人形を濡らす。
だが、花婿は意に介していない。
………生きてはいない。役割を与えられただけの人形であるらしい。
向かってくる花婿を蹴り飛ばし、赤ドレスのビスクドールを拾った。
これ以上この場所に居たくはない。
その一心で扉まで駆けた。
だが、鍵は開けられない。
鍵を花婿が持っているとか、そういう次元ではない。
鍵穴は最初からなかったように、埋められていた。
廊下の窓から射す光はだんだん弱まり、夜が深まっているのが分かった。
花婿が向かって来ている。時間は無い。
人形を左腕で何とか挟み込み、
卓上に置かれていた香炉を掴む。
真鍮製のそれは、小さいがずしりと重かった。
扉が開かないなら、蝶番を破壊すればいい!
鈍器代わりにそれを上部の蝶番へ叩きつける。
金属が歪む音とともに、扉が前へ倒れた。
真っ直ぐ続く廊下を僕は駆け出した。
花婿の身体能力は大したものではない。
距離は直ぐに広げられた。
だが、恐らく押し倒されれば、僕は終わりだ。
花婿に――花嫁は、力で押し負けたのだろう。
彼女の過去を体験しているなら、僕は力で押し負ける。
そういう呪いだ。常識が通用するとは思えない。
絵画は相変わらず見分けがつかない。
通過した枚数を数えているが、無駄だろう。
見渡す先の、さらに奥まで廊下は続いている。
バタン!
数枚、前の絵画が落ちた。
一直線の廊下を走る僕は当然その横を走り去ろうとした。
絵画の下。
床とのわずかな隙間から、手が這い出してくる。
小奇麗な袖は花婿のものだ。
背後で僕を追う花婿と同一。
しかし別個体。
その時、人形の服がひとりでに裂けた。
過去、この時間には裂かれていたのか?
花嫁は花婿に囚われた。
呪われた劇の中で、花婿の役割は僕を捕まえる事。
少女の経験した過去は変えられない。
そういう呪いだ。
数も、個体も、問題ではない。
花嫁は花婿に捕まる。
それが、この劇の結末なのか?
僕は向かってくる手と、今浮かんだ最悪の仮定を振り切った。
着付けをされた、あの部屋だ。
今は武器がいる……!
魔力が何故か練られない。
今の僕は無力な花嫁。
花婿と対峙するには剣が、火薬が必要!
無限に続く廊下。
増殖し、追い続ける花嫁。
有限なのは僕の体力。
数十分は逃げ切れるはずだ。
だが、この屋敷で通じる保証は無い。
その悪寒は、直ぐに現実となった。
足元で布が擦れる音がした。
フリルが床を引きずっている。
走るたびに、布はさらに増えていく。
長さも、明らかに伸びている。
それらは僕の足に絡みつく。
バランスを崩し、僕は横転する。
それだけではない。
着付けの時、何気なく嵌めてしまった指輪。
それが、ゆっくりと縮んでいた。
薬指は滑らかな金属曲線に締め付けられる。
──このままでは、指が飛ぶ……!
焦りと共に、息が荒くなっていることにも気付いた。
胸が苦しい。
肺が、うまく膨らまない。
僕は――花嫁。
走り続けることなど、できない……。
イレギュラーは、強制的に修正される。
………だが、このまま役割を演じることは出来ない!
修正されるということは、イレギュラーは劇にとって不都合!
己を鼓舞し、花嫁らしくない行動をすることにした。
人形を確かに抱えたまま、髪を引き千切る。
さらに靴を脱ぎ、花婿へ向かって投げつける。
ついでに床へ唾を吐き捨てた。
花嫁がするはずのない振る舞い。
即座に場面は切り替えられる。
あの着付け室だ!
花嫁は、美しい赤いドレスを破かれる。
その事実に修正されるなら――
僕は再び侍女に飾られるはずだ。
「腕を挙げてください。」
気が付くと、後ろ開きのフリルドレスは脱がされていた。
奥の衣装棚から、
まったく同じ血の赤を塗り付けたドレスが取り出された。
木のくしで解かされると、千切った髪の毛は再生されていく。
別の侍女は僕の手の中の髪には意を解さず、爪を整え始めた。
僅かに息をついた。
衣装室では花婿は出てこない。
少しの間は安泰だろう。
座らせられている間に辺りを見渡す。
持ち込んだ物を預けた籠が目当てだ。
せわしなく動く侍女たち。
化粧台。香水の小瓶。小さなハサミ。レース。手袋。
そして大きな姿見。
………前言撤回だ。安泰なんてものは無い。
姿見に映った姿は花嫁そのものだった。
明らかに僕の姿ではない。
コルセットは再度締め直されていた。
なぜなら、緩んでいたからだ。
僕の身体が縮み、少女に近づいていた。
履かされた靴も、小さいものに取り換えられている。
化粧も先ほどより血色よく………幼い顔立ちに合うように整えられる。
そもそも、紅い太陽は沈んでいる。
人形は服がはだけたまま、足元に置かれている。
時間が戻ったわけでは無い。
常に悪化し、劇は終末に近づいている。
「ねぇ、」
もう一度鏡を見ると、世界はまた固まった。
侍女の手は止まり、舞う化粧の粉まで静止する。
花嫁の目は虚ろに揺れていた。
また着せられようとしている紅いドレスは、破き捨てられている。
「逃げたい?」
侍女は僕の肩に手を当てる。
鏡の中には、花嫁しか居ない。
「お返しします。」
周囲は歪み、壁紙が貼り替わる。
絨毯は盛り上がり、触り心地の良いベッドに置き換わっていく。
香水の匂いは、香炉と生けられた花の匂いに変質していた。
「クソッ!」
高くなった声で精一杯、花嫁を遠ざけようと強い言葉を放つ。
人形を何とか抱え、開かずの扉が生成される前に駆け出せた。
その時、右腕を掴まれた。
花婿はこの扉から入って来る。
抱えていた人形は再び投げ捨てられる。
小さく乾いた音がした。
僕はベッドに力づくで寝かされる。
男は僕の腕を抑え、服を脱がせようとしていた。
飾られたリボンも千切られ、力任せに服を掴む。
腕が細い。
力が入らない。抵抗は出来ない。
もがいた拍子に、床の人形が視界に入る。
赤いフリル。
乱されたドレス。
僕と同じ姿だった。
心に絶望が黒く滲み始めたことに気が付く。
この呪いは――
花嫁が絶望するまで終わらない。




