第1章4話
酒場での結束から、準備日を挟んで2日後の夜明と共に討伐隊は出発することになった。
まだ薄暗い空の下、屋敷を出たところでノーマンはグレイスに改まった様子で切り出した。
「お嬢様、よろしいですか。2つ、約束をしてください」
ノーマンは昔から、なかなかの心配性だ。今回も危険な任務だからとグレイスが付き添いを断ろうとしたが、ノーマンは同行を頑なに譲らなかった。
執事とはそういうものなのだろうし、こんな令嬢に仕えるのは大変だと思うが、グレイスもノーマンに遠慮して生きるのは窮屈だ。
お願いの1つや2つくらいは聞こうとグレイスが向き直ると、ノーマンが指を立てる。
「1つ、怪我をせず無事に帰ること。もちろん、お嬢様の身は命に代えても私が守りますが。お嬢様に何かあったら、旦那様に合わせる顔がありません」
「わかった。かすり傷ひとつつけずに帰宅する」
「それから、もう1つ。外では、ご令嬢としての立ち振る舞いを忘れないこと。最近のお嬢様は公爵家の令嬢という立場をお忘れになる時があります。どんな時も、淑女としての“品性”を胸にととどめておいてください」
「わかった。“品性”ね」
「はい。いつも心に“品性”です」
「心がけるようにするわ」
品性など酒のつまみにもならないと思いつつも、このままではガンナーたちとの待ち合わせに遅れそうなので、グレイスは納得したふりをした。
こうして空が白み始めた頃、ガンナーたち4人と合流して王都を出発し、目的の町まで馬を走らせた。
半日ほどかけてエアルトに辿り着き、ワイルドボアが出没する地点へ向かう前に一度休憩を挟むことにした。
すでに日も高く昇っていて、空腹を満たすために近くの飲食店に入る。
グレイスもノーマンもエアルトの町は初めてだ。何度か来たことがあるというガンナーたちが適当に頼むと言うので、注文は任せることにした。
まもなくして、飲み物が運ばれてきた。テーブルに置かれたジョッキを見て、グレイスは目を丸くする。
「なにその黒い飲み物……!?」
透明なはずのジョッキは、中の黒い液体のせいでその先が見通せない。一瞬、コーヒーかと思ったが、
アルコールの香りが鼻に届いた。
「なんだ知らないのか。これだから、お嬢様はよ」
ジークが呆れたように言う横で、ジョッキをみんなに配りながらシェルが答える。
「黒ビールですよ。焦がした麦芽を使っているから、こういう色になるそうです」
「え、これもビールなの?」
確かに白い泡がのっているところは同じだけれど、ビールは黄金色と決まっているとばかり思っていた。
オルトはビールを前にして我慢できなくなったのか、すでに飲み始めている。
「おい、オルト。さすがに行儀悪ぃぞ」
ジークが嗜める間にも、オルトのジョッキは空になっていた。
「…………うまい」
ジョッキをテーブルにどんと置きながら、オルトが言う。無口なオルトから出る「うまい」は信頼が高く、グレイスの黒ビールへの期待値は上がっていく。
黒ビール、果たしてどんな味がするのだろう。
呆然とジョッキを見つめていると、ガンナーが鼻を鳴らす。
「飲みたくなきゃ水でも飲んでろ」
とんでもない。これまでと違うビールを体験できる絶好の機会なのに逃すものか。グレイスはジョッキに手を伸ばしながら、慌てて言い繕う。
「いえ。せっかくだし、いただくわ。今わたしたちは同じパーティーの仲間、一心同体だもの。同じものを飲むのが礼儀だわ」
すると、隣にいたノーマンも渋々といった様子でジョッキを引き寄せた。礼儀と言われてしまうと、真面目なノーマンは断りづらいのだろう。
「お嬢様がそう言うのでしたら……私も」
軽くジョッキを当てて乾杯したところで、それぞれが黒ビールを飲み始める。
グレイスも緊張を感じながら、グラスに口をつけた。
漆黒の見た目はいい意味で裏切られ、舌の上に流れ込んできた黒ビールはコクがあって濃厚だった。香りも香ばしく、甘さと苦さのバランスが絶妙で、気がついた時にはジョッキの中が空になっていた。
余韻に浸るグレイスの横で、ノーマンのジョッキは驚くほど減っていない。
「……うう、これは……苦いですね」
眉をしかめるノーマンに、グレイスは最初にビールを飲んだ時の自分を重ねる。これは、誰もが通る道なのかもしれない。いつかノーマンにもビールのおいしさに目覚めてほしいものだ。
けれど、今すぐにこの場でとはいかないだろう。
「仕方ないわね、ノーマン……」
ここは代わりに飲んであげるのがいい。そう思い、ノーマンのジョッキに手を伸ばしかけたそのとき、シェルが口を挟んだ。
「そういえば、グレイスさんってビールを飲み慣れていますよね?」
ぎくりとして、グレイスは慌てて手を引っ込めた。
「え、そんなことないわ」
「でも、最初から美味しそうに飲んでいましたよね。飲んだことない人って、だいたいノーマンさんみたいな反応だと思うんですけど」
「それは……淑女たる者、苦いと思っても顔には出すべきではないから。日頃の心がけのおかげよ」
「なるほど、ご令嬢もいろいろ大変なんですね」
とってつけたような言い訳だが、シェルはそこまで深く考えていないようで軽く受け流す。そうしている間に、ノーマンの分のビールはオルトの手に渡ってしまった。
そのとき、店の奥から店主らしき男が現れ、グレイスたちの席にやってきた。
「あんたたち、ワイルドボア討伐に来てくれたそうだね。これ、サービスだ」
店主は運んできた皿をテーブルの上にのせる。大ぶりの平たい皿の上には、様々な種類のウィンナーが盛り付けられていた。
「ありがとうな、旦那」
ガンナーが代表して、店主に礼を言う。
「いやいや、お礼を言うのはこちらのほうだ。なんせ、誰も手がつけられない状況でね。この町は貿易で成り立っているようなものだから、あの道が使えないと本当に困るんだよ」
最初は明るく返していた店主も、話すうちに表情が暗くなっていった。
「こっちが倒す気でも、肝心のワイルドボアが都合よく出てくるのかだが」
ガンナーの懸念は、グレイスも考えていたことだ。棲み家はわからないので、倒すにはまずあちらから出てきてもらう必要がある。
ガンナーたちが真剣に話す傍らで、ジークたちは一斉に皿に群がり始めた。グレイスも自分の皿にとって、いただくことにする。
ウィンナーはボイルされているようで、かじった瞬間にバジルの香りが口いっぱいに広がった。
こぼれそうになる頬に手を当てながら、グレイスはハッと思い至る。これは、ビールと一緒に食べたらさらにおいしくなるはずだ。これこそが、まさしくビールに合うおつまみではないか。
見れば、他のみんなはすでにおかわりを注文していたようで、ビールを片手にウィンナーを頬張っている。
「あ、あの……わたしも、さっきのを……」
もう1杯くださいと言うため差し伸ばした手を、ノーマンがさっと掴んで止める。
「お嬢様。“品性”ですよ」
囁きながら、ノーマンが冷たい目で見つめてくる。
「約束はお忘れでないですよね?」
「で、でも……」
諦めきれないグレイスに、再度ノーマンが「品性」と圧をかけてくる。主従の関係なんてあったものではない。
けれど、こういうときのノーマンには逆らわないほうがいいと、長い付き合いの中で知っている。グレイスは仕方なく、ビールの代わりにアイスティーを頼んだ。
しょんぼりと肩を落としながら、グレイスはウィンナーをかじる。
「このウィンナー、本当においしいですね」
ビールと一緒に食べられないのが心底残念だが、単体でも十分に美味しい。
グレイスの素直な感想に、店主が嬉しそうに微笑む。
「この町の名産のバジルを使っているんだ」
「へえ、そうなんですね」
なんとなく相槌を打ちながら、ふとワイルドボアの被害報告書で読んだ内容が頭を過る。襲われるのは荷馬車ばかりで、何か共通点があるのだろうかと思い、道中で他のみんなにも話していたことだった。
「もしかしてこのバジル、隣国にも輸出していますか?」
勢い込んで聞くグレイスに、店主は少し驚きながらも答える。
「え? ああ、しているよ。輸出品の中でも主要品目だからね」
「じゃあ、ワイルドボアに襲われた荷馬車にもこのバジルが?」
「ああ、そのはずだよ。他にも塩や雑貨品ものせていたけれど」
グレイスが考え込んでいると、ガンナーが間に入る。
「バジルがどうかしたのか?」
「ワイルドボアは、バジルの香りに誘われているのかもしれない」
「香りに? なるほど……だから、荷馬車だけが襲われていたのか」
ガンナーもすぐに察しがついたようで、頷いている。
すると、ウィンナーを食べながらも話はちゃんと聞いていたのか、ジークも会話に加わった。
「ワイルドボアって、香辛料とか強い香りがするものが苦手じゃねえのか? どっかの地域では、野生動物を避けるためにわざわざ持ち歩いてるくらいだろ」
ジークの言う通り、そういった類の話はよく耳にする。けれど、例外もある。
「大型の獣や凶暴化したモンスターの中には、逆にそれが刺激になって襲ってくるものもいるのよ」
グレイスが文献で読んだ内容を思い返しながら言うと、ガンナーが同意する。
「ああ。俺も別の地域でそんな話を聞いたことがある。まあ、見当違いってこともあるかもしれないし、他に理由があるのかもしれねえ。どのみちワイルドボアをおびき寄せるには……」
グレイスはガンナーと視線を交わす。どうやら2人が考えていることは同じようだ。
「荷馬車で行ったほうがよさそうね」
遅めの昼食を食べ終えると、店主を通じて借りた荷馬車に乗り替えて再出発した。条件を揃えるため、荷馬車にのせているものもほぼ通常の輸出で運ぶものと同じだ。
町を離れるにつれ、道は平原に入った。さらに先を進んでいくと、こんもりとした森が見えてくる。
森の中をしばらく走ったところで、一度馬車を停めた。
「荷馬車が襲われるのは、いつもこの森の中のようだけど……」
言いながら、グレイスは辺りを見渡すが、聞こえるのは鳥のさえずりだけで静かだ。
「なんだよ。香りが足りねぇのか?」
荷台に座っていたジークが、麻袋からバジルを掴んで取り出し、外にまき散らす。
しかし、何かがやって来る気配はなく、葉擦れだけが虚しく耳に届く。
馬の手綱を引いていたシェルが息を吐き、荷台を振り返る。
「仕方ないですね。もう奥に少し進んでみますか?」
「待て」
ガンナーが人差し指を口に当てるので、みんなして耳を澄ませる。
すると、木々のざわめきの中に、うっすらと地鳴りのような音が混じり始めた。それはどんどん大きくなっていき、凄まじいスピードでこちらに近づいてきているのがわかる。
「あ、あっち……」
青ざめた顔でオルトが、荷台の後方を指さす。
全員が一斉に同じ方向を振り返った。視線の先では、木々が左右に割れるようにして倒れていく。
その中心を走っているのは、巨大なワイルドボアだった。
遠くに見えていたはずのワイルドボアが、ものすごい勢いでこちらに迫ってくる。
荷馬車の馬がいななきながら前に走り出したので、荷台が大きく揺れた。シェルが慌てて手綱を握り、落ち着くように声をかける。
ワイルドボアは方向転換がでいないのか、馬車の傍を駆け抜けていき、太い樹木にズドンと真正面から突っ込んだ。
木はメリメリと音を立てながら傾き、やがて幹が完全に折れてしまった。
誰からともなく、全員が剣を手に地面に降り立った。
敵意を感じ取ったのか、ワイルドボアは荒い鼻息を吐き出し、怒りを宿した目でこちらを睨みつけている。
普通のモンスターとはレベルが違う。
圧倒的な脅威を前に、ジークたちの戦意が一瞬にして挫けていく。
「おいおい、こんなにでけぇなんて聞いてないぞ」
ジークの声はかすかに震えている。
確かに、仕入れた情報から推測していた体格よりも、目の前のワイルドボアは遥かに大きい。ガンナーですら焦燥を浮かべているあたり、ここまでの巨大なワイルドボアはかなり珍しいのだろう。
「さすがに勝てる気がしない」
オルトが思わず弱音を零す。
シェルはなんとか冷静さを保って、ガンナーに判断を仰いだ。
「ガンナーさん、勝算が薄すぎます」
「……っ、ここは一旦引くぞ」
ガンナーは、無謀な戦いで仲間を負傷させるべきだはないと判断したようだ。悔しそうに歯ぎしりをしながらも、指示を出す。
そんな中、グレイスだけが一歩前に出た。
グレイスはまっすぐにワイルドボアを見据え、構えた剣を下ろす気配がない。
「お嬢様……おやめください!」
グレイスがワイルドボアに挑むつもりだと察し、ノーマンが声を上げる。
「止めないで、ノーマン。ここで逃したら、きっとわたしは一生後悔する」
グレイスの目には、ワイルドボアはおつまみに見えていた。
本によれば、ワイルドボアの肉はビールとの相性が抜群だという。そんな最高のおつまみを今逃したら、この先の人生で二度とありつけないかもしれない。
グレイスは、どうしても体験してみたかった。
「必ず仕留めるわ……最高のマリアージュのために!」
グレイスの宣言に首を捻るガンナーたちに、すかさずノーマンが適当な説明を挟む。
「おそらく、安定した貿易による国と国の調和のことを言っているんだと思います」
「な、なるほど。そこまでして国のために……」
ガンナーたちは感心と圧倒が入り混じった顔をしている。彼らの目には、グレイスが国や民のためワイルドボアに立ち向かう、勇猛果敢な剣士に映っていた。
そのとき、ワイルドボアが後ろ足で地面を掻いた。こちらに突進してくる合図のようだった。
「お嬢様、お願いです。約束を思い出してください」
「ノーマン、ごめんなさい」
次の瞬間、ワイルドボアがグレイス目掛けて駆け出した。
グレイスに、ノーマンが叫ぶ。
「品性……!!!」
「品性など捨てゆく!」
グレイスはノーマンの言葉を振り切って、ワイルドボアに向かって走り出す。
両者はどんどん距離を詰め、ぶつかり合う寸前。
グレイスは滑り込むように体を屈めて、ワイルドボアの体の下に潜り込んだ。スライディングしながら剣を振るい、ワイルドボアの片足を斬りつける。
疾走していたワイルドボアの足並みが乱れ、地面に突っ伏すようにして止まった。しかし、まだ戦おうとしているようで、傷ついた足で起き上がろうとしている。
息を呑んで見守っていたガンナーが我に返り、決意を固めるように剣を握り直す。そして、雄叫びを上げた。
「グレイスに続けぇぇぇ!」
「うおおぉぉぉ!」
ガンナーを先頭に他の3人も剣を持ち直し、一斉にワイルドボアへ攻撃を開始した。