3.おっぱいは体重に入りますか
優しく背中を撫でていると、ほのかもだんだん落ち着きを取り戻してきたようで、ゆっくりと詳細を語り始めてくれた。
彼女の話はこうだ。朝の集会に行ったきりなかなか帰ってこないおばさん(つまりほのかの母さん)のかわりに、隣の家まで回覧板をまわしに行ったところ、まず、この世のものとは思えない異様な音が聞こえてきたらしい。
もぐもぐ、バキバキ、ムシャムシャーーごくん。
ほのかの表情を見ただけで、その時の断末魔がどれほど凄まじいものだったのか、想像に容易い。実の母だ、娘のほのかは助けようと必死で間に入るも、その場に居合わせた別のご近所さんに全力で止められた。
結局どうすることもできず、隣人に食い散らかされたおばさんは、それこそ比喩なんかではなく、恐ろしい鬼に変貌してしまったと言う。
「私のっ、家族も、友達も、町内会のおじさんも、おばさんも、みんなみんな、食べられ、て……鬼になっちゃったの…………っ!」
ほのかは恐怖のあまり泣いていた。というより、己の無力さに泣いていた。
俺はぼーっと広い家を見回す。そういえば父さんも母さんも、よっぽど早く家を出たのか、当然のように不在だった。
両親ももれなく鬼になってしまったのだろうか、答えは出くわすまで分からない。
ーーまあいいや、最悪ほのかさえ居ればいい。
思わずふっと笑ってしまう。この、ある意味デスゲーム的な状況に、自分でも引くほど冷めていた。まあ、考えても分からないことは考えないに尽きるのだから、仕方ないといえば仕方のないことだった。
「まこちゃん、どうしよう……私、どうしたら……」
いよいよ泣くのにも疲れて、弱々しく俺に縋ることしかできなくなったほのかが、なんというか、たまらなく愛おしかった。ぶっちゃけ俺としてはもうこのままでもいいんだけど……それだとほのかが可哀想だしなあ、うん。
「ね、ほのか。落ち着いてよく聞いて」
湿ったまつ毛を、ほのかがゆっくり動かした。諭すように、肩に手を置く。
「鬼に"変わった"ってことはさ、実体があるだけまだ死んでないってことなんじゃないの?」
「ーーあっ、」と、ほのかが大きな目をさらに大きく見開いた。
とはいえ、"バキバキ"された段階で骨が残ってるかどうかは、俺にはちょっと保証できそうにないけど。
「要はあれだよ、諦めたらそこでーー」
泣き腫らした目でずびずび鼻水をすすりつつも、
「う、うぐっ、ひっ……しあいっ、終了、だよねっ……!」
最後にはちゃんと、にかっと太陽のような笑顔が返ってきた。
夢の中で俺は、鬼たちから逃げ切ってみせろと言われた。鬼ごっこでもするつもりなら、なるべく体力は温存しておきたい。
ほのかが、シャッとカーテンを閉めた。
「もう、あんなに近くに……」
外にはすでに、鬼たちが獲物を求めて彷徨いはじめていた。
俺はうーむと考える。とりま勝てばいいってことなんだろうか。それなら、遮蔽物があるところに行くべきか。
「……と、いうわけで一旦学校に寄るから」
俺の出した答えはこうだ。鬼たちをいい感じに撒きつつ、夢で見た鬼(おそらく首謀者)の居場所を探る。我ながら、けっして悪くない作戦だとは思う。
がちゃっ
かすかに、ノブの回る音を聞いた。
ため息を吐きたいのもやまやまだった。まさかこんなところで、普段の防犯意識の低さの弊害が出るとは……。
ギシギシ床は踏まれている。それは如実に、俺たちへと近づいてくる。
「裏口から逃げよう」
たじろぐほのかの手を引いて、勢いよく家を飛び出した。
*
ものの5分走ったところで、ほのかが大きく体をぐらつかせた。「……? ほのか。」聞けば、みるみる顔を真っ青にし、消えかけの声で、腰が抜けたのだと言った。俺はひとり納得する。たしかに、ほのかは昔から絶望的に運動音痴だった。
後ろのほうから、複数の気配を感じる。ほのかはカタカタ震えながら置いていくよう懇願しているが、俺は構わずーー
「わう、まこちゃ……ふぇっ⁈」
ほのかをひょいっとお姫様抱っこして、颯爽と赤信号を切り抜けていった。
「お、おろして! 重いから、わたし……! まこちゃんの腕が折れちゃうよ!」
「はあ、この期に及んでつまんない冗談?」
毎日いかに楽に登校できるかを検証してきたおかげで、幸い、俺の運動神経は良かった。
(つーか)
重い、だって? どこが。ほのかはむしろ羽のように軽く、ちゃんと食べているのか本気で心配になってくるレベルだった。
しかしあれだよな、おっぱいのぶんの重さって、案外ないもんなんだな。悟られないよう、半目で思う。