Pr. "前提条件"
第三次世界大戦に於いて、日本国航空自衛隊が装備するF-15Jは多数が空に散った。
無論、それに見合うだけの戦果は挙げていたが(そうでなくては困る)、殊に近代化改修が行われていない初期型の損耗は著しいものがあった。
幾ら日本国航空自衛隊のパイロットが腕利き揃いだとは言っても、彼我の電子装備の優劣は覆し難いものがあった、ということである。
開戦当時、日本国航空自衛隊が装備するF-15Jは二〇〇機(※F-15DJを含む)を数えたが、終戦時には百五十二機まで減っていた。
純軍事的表現で言えば、「潰滅」と言っても差し支えないと言えるだろう。
ところで奇妙なことに、戦中から戦後になって、墜落したF-15Jの残骸の数をOSINTによって数え上げていくと、被撃墜機の数は七十四機にまで膨れ上がる。
その中の幾つかは重複していると仮定しても、公称喪失数四十八機に対して、二十六もの差があるのは、端的に言って異常である。
戦中、日本国はアメリカ合衆国から、F-15に関する各種弾薬・消耗品の供与は受けているものの、完成品そのものの供与は受けていないことになっていたし、モハーヴェ砂漠でモスボールされていたものや、アメリカ合衆国を始めとするF-15ユーザーが装備している機体にも増減は見られなかったことから、「日本国は密かに員数外のF-15Jを多数、製造していたのではないか」という疑惑が持ち上がった。
無論、日本国、そしてその後裔であるムリーヤ国は、頑としてその疑惑を認めなかったし、その後、第四次世界大戦によりアメリカ合衆国が割れたことで、話は有耶無耶のままに闇へ葬り去られ、今日にまで至っている。
では実際問題、「員数外のF-15Jは実在していたのか?」と言えば、「実在していた」と言うのが正解になる。
尤も、それをF-15Jと定義するか、F-15Jの形式番号を冠する全くの別物であったと定義するかは、また別の話ではあったが。
話はやや遡って戦前、日本国がコロナ禍の最初の夏を乗り越えてから東京オリンピックを終えるまでの間、実は日本国はロシアからの侵攻の危機に晒されていた。
ロシアは割と本気の本気で対日侵攻計画を策定していたが、部隊移動が実行される寸前のところで、
「ロシアが日本国へ侵攻した場合、アメリカ合衆国は即座に参戦する」
と言う米国からの強い警告により、その実施は断念された。
日本国は危ういところで戦争を回避していたが、ロシアが本気の本気で南下を図ろうとしたことは、日本国に強い危機感を抱かせた。
そしてそれは、閉じられていた筈のF-15J生産ラインを密かに動かし、「予備部品」を一個飛行隊(二〇機)分、密かに用意する、と言う行為(無論、非合法である)に結実した。
その際に生産された「予備部品」は、実際に組み上げると以下の様なスペックになる。
・三菱F-15J(2681)
・乗員:2名
・全長:19.44メートル
・全幅:13.1メートル
・全高:5.63メートル
・最大離陸重量:30トン
・動力:F-110-IHI-129×2
・レーダー:J/APG-2
・固定武装:JM61A1 20ミリ機関砲×1(装弾数940発)
・外部兵装搭載位置:17
要するに「F-15JのフレームにF-2のレーダーとエンジンを載せ、輸入したコンフォーマル・フュエル・タンクを常時装備にしたもの」と言い換えた方が、読者の皆様には理解しやすいかもしれない。
その他、アナログだった計器表示の多くがF-2ライクな液晶画面に置き換えられ、操縦桿もF-2と同じサイドスティック方式に改められているなど、概して基本的にはF-2と同じ操作性を確保して「乗り換え易さ」に配慮している辺り、日本国が本機をどのように運用するつもりだったかが分かろうと言うものである。
辛うじて、フライトコンピュータはオリジナルのF-15Jのものをそのまま使用していたが、日本国独自の国産兵器の数々を運用するため多数の読み替え装置が積載されており、その為に機内燃料タンクが削減されコンフォーマル・フュエル・タンクで補っている所に、本機または日本国の防衛産業の限界が見て取れる。
(注釈:F-15Eは原型機から60%以上フレームを再設計しているが、本機のフレームは小改良はあるものの、F-15Jそのものである)
密かに製造された「予備部品」は、F-2を運用する日本国航空自衛隊百里基地へ密かに運び込まれ、同地で既存のF-15Jと同じ機体番号の塗装を施されて組み上げられた。
共食い整備が常習化し稼働率が低下していたF-2の運用を密かに外れたパイロットは、順次本機へと機種転換を行なっており、為に西暦二〇二二年二月二四日に始まるロシアによるウクライナ侵略に対し、三月五日未明の日本国参戦同時飽和奇襲攻撃に際して、日本国は迅速に本機を戦力化して戦争に投入した、と言うのが事の真相である。
本機はその兵装搭載量と足の長さから、開戦当初は専ら極東地域のロシア軍基地を強襲攻撃するのに用いられたが、日本国が攻勢限界に達し、ロシアも極東地域を言ってしまえば「損切り」してしまうと、ウクライナへ転戦し激しい空爆作戦に投じられた。
その頃になるとアメリカ合衆国も、明らかに書類上にない員数外のF-15Jが活動していることに気付いており、日本国からアメリカ合衆国に支払われた「武器弾薬費」には、本機のライセンス料金が含まれていた、とするのが通説である。
本機は第七次ハルキウの戦いに於いて、在空時間の長さ、武器搭載量の多さからロシア軍機に高脅威目標として集中して狙われ、その多くが散華したものと思われる。
「思われる」と表現を曖昧にしたのは、その多くが既存のF-15Jと機体番号を同じくした塗装を施されており、また戦後、残存するF-15Jの多くがコンフォーマル・フュエル・タンクを常時装着する様になり、識別が困難な為である。
しかも、「員数外の兵器」を製造するという前科を作った為、その後も本機は製造され既存機を順次置き換えていったとする都市伝説は根強く残ったが、真相は未だに闇の中である。