第一話 クズハラと善行教徒
神は、無実の人間を求めている。
命を傷つけなければ、その手を汚さなければ、人は救われる。
そう、パパ様たちが仰っていた。
パパ様たちの言いつけを守っていれば幸せになれる。この世界は、そう決まっているものだと思っていた。
私のいる国、デッケル・シュドナウは「完全善行教」の教えを第一に生活し、国の運営をしている。国民の中から選ばれた大人であるパパ様たちは、国の運営を仕切る国の支配者であり、完全善行教の教えを説く、司教様である。
デッケル・シュドナウでは国益やどんな物より、完全善行教の掟を優先する。
その完全善行教の掟は――
ひとつ、常に清浄無垢であること。
ひとつ、人を傷つけてはならない。
ひとつ、人を殺してはならない。
ひとつ、他人を守るために人を傷つけ殺してはならない。
ひとつ、己を守るために人を傷つけ殺してはならない。
ひとつ、人間に限らず全ての生物を殺傷してはならない。
神の御前に相応しき清純な人間であれ。
蚊には、その腕を差し出し血を与え、毒虫には巣作りのための家を分けてやる。それが、この国の信条である。
掟を破れば、パパ様たちから厳しい罰を食らう。その人たちは、それっきり姿を見せなくなる。どうなったのかは、誰も知らない。
私たちにとって掟は命よりも大事なものだった。
生まれたときからこの掟に囲まれて育ったから、疑問に思ったことはない。
デッケル・シュドナウは、大きく二つの区域に分けられている。私達が住んでいるエリアAは、完全善行教が有する中心塔の周りを円状に広がっている。国の中枢機関が設けられていて、明るく発展した地区である。
エリアAの子どもたちは十八歳の誕生日に、ある審査を受ける。その中で何人かが選ばれ、完全善行教の中心塔へと呼び出される。選ばれた子たちが何をしているのかはわからないが、選ばれることは名誉あることらしい。
私は今年、十八歳になり審査を受けた。しかし、中心塔に呼び出されることはなかった。選ばれることはなかったのである。父や母に悲しまれるかと思ったが全くそんな様子はなく、二人は私を励ましてくれた。
エリアAの外はエリアBとなっている。そこは通称、「無法地帯」と呼ばれる場所である。Aと違って、ここには完全善行教の掟が施行されていない。そして法律や決まりも何もない。
つまりは、人を殺せる区域、ということである。
エリアAとエリアBの間には、高く厚い市壁が円状に伸びている。市壁の前にさらに鉄格子の巨大な門があり、絶対にエリアBの人間が入ってこないように、またエリアAの人間がエリアBに行かないようにされていた。
ときおり私は、エリアAとBの境界線、巨大な鉄門と市壁を眺めて思うのである。「この外の世界は、どうなってるんだろう」かと。
大人いわく、「エリアBは、この世の地獄」らしい。エリアAにいれば少なくとも殺されることはない。パパ様たちの言いつけを守ってさえいれば、幸せに暮らせる。
そう言って、大人たちは私を連れ戻すのだった。
* * *
ある夏の夜、少女はいつものように大人に見つからないように、デッケル・シュドナウのエリアを分ける境界線に向かった。
十八歳の彼女、クズハラは赤い目を持っていた。他の見た目は普通なのだが、彼女は変わった髪型をしている。
全体は青緑のアクアミント色のショートボブヘアだが、両方の横髪がベージュで、全体の髪より長いベージュの後髪の束を低い位置で一つ結びにしている。
目立つような見た目だが、境界線近くは城門のそばの街頭と月明かりしか、暗闇を照らす光がない。少しでも明かりの届かないところに行けば、暗闇にのまれて見えなくなってしまう。
城門で監視をしている門番に見つからないように、クズハラは建物の影に隠れて詰め所に近づいていく。
しかし、何者かが背後から彼女の首に注射器のようなものを突き立てた。
「っ!? だ、誰っ」
クズハラは首の痛みに驚き、眉を寄せて慌てて後ろを振り返る。後ろには二人の人物がいたが双方、全身黒服で黒いフードを被っていて暗夜ではハッキリと姿を捉えることができない。
そのうち一人がクズハラに手を伸ばしてきて、彼女は慌ててその場から走り逃げた。
「おい、待て!」
「チッ、面倒なことしやがって」
クズハラの逃げる後方で男の苛立った声が聞こえた。しかし彼らは無理に追うようなことはせず、その場を動かないまま彼女の背を見送っていた。
「はあ、はあ、はあ……」
しばらく走り続け、クズハラは一度足を止め膝に手をつく。荒い息を吐き、激動する心臓を無理矢理おさえようとする。
まだ息が整いきっていないが、先ほどの二人の男に恐怖心を駆られ、顔を上げて再び走り始めた。
しかし、かすかな女性の声と、何か鈍い音が聞こえてすぐに足を止めた。
周りを確認するが、暗くてよく見えない。音や声はわずかに聞こえる。クズハラは視界を放棄し、周囲に耳をすませた。
「――――!」
「っ、あっちか」
再び音を耳にすると、先ほどの暗闇の二人は忘れて音のした方に向かった。
クズハラが音を追って着いたのは近くの裏路地だった。暗く冷たいコンクリートの地面には、一人の少女が倒れていた。その周りを何人かの男が囲んでいる。
暗がりの中、目を凝らす。地面に倒れている金髪の少女を見て、クズハラは目を見開いた。
「遥ちゃん! あっ」
彼女は大きく声を上げてしまった。
遥というのは路地裏に倒れている少女の名前である。
遥はクズハラの知り合いであり、彼女と同じ十八歳である。今日の昼間、彼女の誕生日会をやったばかりだった。
「クズハラ、ちゃん……」
「何だ? この小娘の知り合いか?」
遥はクズハラに驚くが、彼女を見つめる灰色の目は虚ろだった。
周りの男たちもクズハラの大声に驚いたが、乱入者が子供とわかると警戒心を緩めた。
「っ! 遥ちゃんに何してるの! その子を離して!」
クズハラは男たちに少し怯えながらも、彼らのうち一人に掴みかかり妨害する。
「くそっ、邪魔だなこいつ!」
「離し……っ!」
掴みかかられた男は鬱陶しそうにクズハラを振りほどこうとする。彼女はそれに反抗して何とか男にしがみついていた。
しかしクズハラは突然、心臓に激しい痛みを感じ、掴む力が緩くなってしまう。そして男に払われるがままに地面に叩きつけられた。
心臓の痛みは弱まることはなく、むしろだんだんと強くなっていき、クズハラは地面にうずくまったまま苦しそうに顔を歪める。
「お、おい。こいつに何かしたのか」
「し、知らねーよ」
振り払ったにしろ軽いものだったため、突然クズハラが苦しそうにうずくまるのを見て男たちは焦った様子で互いに顔を見合わせた。
クズハラの痛みは消えず、うまく呼吸できなくなり、冷や汗が出始める。
視界が霞んでいく。音もこもり、男たちの言っている言葉をところどころしか聞き取れなくなってしまった。
動きにくくなった体で、クズハラは拳をゆっくりと握りしめる。
――ああ神よ……。
――崇高なる御神に誓って。私はこの命を、汚れなき純粋な魂として、この地に埋めましょう。神の御前に相応しき無垢な魂を捧げましょう。
――崇高なる神よ。あの子は、私の大切な友達なのです……。
――せめて彼女の命は、お救いください……。
一滴の涙が、彼女の目から零れ落ちる。その雫が地面に沈んだ瞬間、クズハラの目から光がなくなった。
クズハラの動きが止み、荒い息遣いも聞こえなくなる。男たちは彼女が死んだと思い、少しするとクズハラから興味をなくして遥の方へ向いた。
「ひっ」
大人の男数人に囲まれ、遥は小さな悲鳴を上げる。一人の男が一歩、遥へ近づく。
突如、死んだと思われたクズハラが手の力で体を起こし、男の一人に足払いをかけて倒した。
「っ!?」
「な、何だ!?」
クズハラは、しゃがんだ状態から立ち上がり、その赤い目に男たちを写す。しかし、その目は死人のように虚ろだった。
「てめえ! 邪魔すんじゃねえ!」
一人の男がナイフを持ってクズハラに襲いかかる。しかし彼女は男の攻撃を避け、腹部に肘打ちを入れた。
ただの少女の肘打ちかと思いきや、強い衝撃が男の腹部を襲い、大きな音を鳴らして骨を破壊する。
「かはっ!」
思わぬ激痛に襲われ、男はナイフを落とし、腹に手を当てて地面に倒れ込んだ。
まるで何かに操られているような彼女の動きに、遥は目を見開く。今までクズハラのこんな様子など、見たことがなかったからである。
もう一人の男がクズハラにナイフを振るおうとする。
クズハラはさっきの男が落としたナイフの柄を踏んで上へ飛ばし、それを手に持つ。
男の股下をくぐり抜けて攻撃を避け、そのままナイフで股間を引き裂いた。
「ぎあああ!!」
股間を裂かれ、強烈な痛みで男は大きな悲鳴を上げ、地面に倒れる。股間を押さえながら断続的に悲痛な声を漏らしていた。
クズハラは血の滴るナイフを持ち、振り返って悲鳴を上げる男の心臓を突き刺した。
男は息を止め、続いていた悲鳴は消え、静かな闇夜が戻ってきた。
ちょうど暗い裏路地に月明かりが差し込むところにクズハラは立っており、赤い血に濡れた彼女だけが鮮明に見える。
「あ、れ……私いったい……こ、これどうなって」
クズハラの目に光が戻る。
彼女は先ほどまで意識がなかったのか、不思議そうに辺りを見回した。
地面にうずくまったままの男や血塗れの男を見て、一瞬息が止まる。そして彼女は、自分の手が赤に塗れていることに気づいて呆然とする。
しばらくクズハラは何も考えられなかったが、目の前のことから逃げるように遥に視線を向けた。彼女に怪我はなくクズハラは、ほっとした様子で彼女に近づいた。
「遥! 遥っ、無事で良かった!」
遥へ手を差し伸べる。
しかし、伸ばされた手は何にも触れられることなく、ただ静かに風に撫ぜられた。
「汚らわしい! 近づくな!」
「えっ……」
遥とクズハラは、かなり仲のいい友人だった。そのためクズハラは遥からそんな罵倒を投げつけられるとは思っていず、驚愕する。
しかし驚きよりも、悲しみの方が強くクズハラを支配していた。なぜなら、遥の目が、恐怖で満たされているのが分かったからである。
恐怖の目で見られ、クズハラは固まってしまった。
デッケル・シュドナウでは、人を傷つけることを避けるのが優先事項である。たとえ自分を守るためでも、他人を守るためでも、人を傷つけることは決して許されない。
それが神の意思だと、司教たち、パパ様たちは国民に教え込んでいた。
それに対して、クズハラの今の行動は全ての国民にとってあり得ないものだった。人を傷つけるどころか、殺してしまっている。
そんな彼女に遥は、瞳を揺らして言葉を吐き捨てる。
「こ、この、残虐魔! 地獄に落ちろ」
揺れた灰色の目は、恐怖の中に敵意を混ぜ、憎しみや怒りを含んでクズハラを睨む。
遥は立ち上がり、走ってその場から逃げていった。
「っ……待っ!」
クズハラは彼女を呼び追いかけようとするが、再び心臓を激痛が襲う。顔をしかめて胸元を握りしめ、壁に手をついた。
「げほっ……」
吐き気がして口元に手をやると、咳と同時に血が出てきた。しかしその血は、鮮やかな青色だった。
指の隙間から青い血が垂れていく。クズハラは血の青を見て目を見開き、その場に膝をついた。
「あ……」
咳で傷んだ喉から声を出そうとするが、うまく声が出ない。声どころか音すら、いや、息すら出なくなってしまっていた。
呼吸ができなくなり、地面に倒れ込む。
水から出された魚のように、わずかに動く体でもがき、口の開閉を繰り返す。
――神よ。私がいけなかったのでしょうか。神にとってこれは、不正解なのでしょうか。
再び視界がぼやける。
月明かりがスポットライトのように彼女を照らすが、助けるものは誰一人としていない。
パパ様の教えを思い出し、自分の行動が間違いだったのかと自問する。
――やはり、人を傷つけた人間は救われない運命なのでしょうか。
ただでさえ、ぼやけた視界が涙で滲んでいく。
頬に落ちた雫は、冷たい風に晒されて冷感を与えてくる。冷感があるということは、まだ生きているということだと、わずかに希望を与えてくる。
まぶたが閉じていく中、クズハラはその少しの希望にすがりつく。
まだ生きている。
――ああ、誰か、誰か、お助けください。
――どうか、どうか……パパ様……。
彼女の意識は途切れる、痛みも、苦しみも、冷たさも感じなくなってしまった。
* * *
冷めたい感覚が体に染み込んでくる。クズハラが目を開けると、そこは街の路地だった。眩しい太陽が地を照らしている。
――え?
「私……生きてる?」
眩しい視界のもと聞こえたのは、男の声だった。