境界
ロミオとジュリエットの話を男は鼻で笑った。
身分の差などなんだというのだ、と。
地球半周分の遠距離恋愛の苦労譚を男は冷ややかに聞き流した。
飛行機に乗れば会えるんだろう、と。
自分と彼女との距離に比べれば、
世界中の悲恋など、幸せな恋の部類に入ると
男は本気で思っていた。
男が愛しているのは絵の中の少女だった。
マイナーな漫画雑誌に連載されている
アニメにもならないマイナーな漫画のヒロイン。
その漫画雑誌を読んでいても、彼女のフルネームを言える者はまずいない。
彼女の存在を知ったとき、同僚たちは口々に男をからかった。
偏屈で口数が少ない男に話しかける口実になればよかったのだ。
男は大真面目な顔で少女との出会いを語り
その愛らしい容姿や性格を褒め称えた。
最初はからかっていた同僚たちだったが
男が本気であるとわかると、大抵気まずそうに黙り込み話題を出さなくなった。
何人かは自分もこういうキャラクターが好きで…と話題を振った。
またある者はその恋心に共感して見せ、自らの恋愛話を語ったりもした。
男はその一切を聞き流した。
機会を繰る手を休めもせずにせせら笑った。
その程度の思いなど。
その程度の障害など、と。
男は自分と少女を隔てる永遠の壁に酔っていた。
そして今は誰も男に話しかけることはない。
軽口にも応えず、周りを見下す男の態度は同僚の反感を買ったのだ。
しかしそんなことは男にとってどうでもよかった。
あの少女と自分の果てしない距離。
どうしてこんな悲しい運命になってしまったのか。
周りのくだらない人間より、
あの少女こそがこの世に実在するべきなのに。
いや、それとも自分がこのくだらない世界より
少女と同じ世界に居るべきなのか。
誰とも話さず、黙々と機械を繰り
何もない自宅へ帰る。
彼女がいる漫画だけが雑然とした部屋に綺麗に並ぶ。
機械油がこびりついた手でページをめくる。
漫画の中で少女はのびのびと笑い、時には思春期らしく思い悩み
果敢に新しいことに挑戦し、全身で青春を生きていた。
ああ…この子だけは永遠だ。
この恋は永遠なんだ。
もうすぐ漫画雑誌の発売日だ。
また少女の新しい姿を見ることができる。
男はニヤつきながら本を抱いて眠った。
ある日。
男は通勤途中の本屋で新しく発売された漫画雑誌を買い
始業前の休憩室で彼女の姿を求めて雑誌を開いた。
なにかがおかしい。
ストーリーは強引に急展開で進み
ぶつ切りで終わった。
涙を浮かべ、手を振る少女のイラストの下には
「ご愛読ありがとうございました」の文字。
青ざめている男の手元を同僚が覗き込んだ。
なんだ、お前が好きなの打ち切られちまったのか。
これじゃ彼女にもう会えないな。
笑いと憐れみの混じった声。
こんな、はずは。
だってこの恋は永遠なんだ。
永遠が終わるはずはない。
彼女の世界が終わるなら
どうしてこの世界は終わらないんだ。
小さく震える男に
また別の同僚が缶コーヒーを片手に声をかけた。
大変だな。次元を超えた恋は。
この漫画の中に、お前、入っちまえばいいのにな。
そうだこれは次元を超えた恋なんだ。
震える指でそっと荒い紙のページをなぞる。
1ミリもないこの彼女の世界。
どうして、どうして自分はこっちの世界に入れないのか。
自分と彼女を隔てる境界線はこんなに薄いのに。
どうして踏み越えることが出来ないんだ。
彼女との恋。
永遠の世界。
ああどうして涙を浮かべて手なんか振るんだ。
別れの挨拶なのか。そんな馬鹿な。
彼女は運命の恋人なんだ。
別れなど存在するもんか。
どうしてどうしてどうして。
どうすればどうすればなんとかしてなんとかして。
ページをなぞる指に力が入る。
紙はよれ、彼女の笑顔は醜く皺が寄った。
この薄い境界線さえ。
男は立ち上がると、音も無く休憩室を出ていった。
同僚たちは雑談に夢中で、誰一人気づかない。
男が赤いラインの入った鍵を持っていったことにも。
赤いラインの入った鍵。
それは工場で一番大きなプレス機を動かすものだった。
巨大な鉄のかたまりを薄く押しつぶす強靭なプレス機。
始業まではまだあと5分。
何かが作動したような音が聞こえたが
きっと気のせいだろう。
缶コーヒーを飲み干した男の同僚は
空き缶をひねり潰すと屑入れに放り込んだ。
薄っぺらい音がした。
別サイトのコミュニティ内で書いていたものです。