ドラマの登場人物にはなれない
満開の桜が青空に映えている。視界は優しい色に染まっていた。
近所の公園に、一人来ていた寿々江はベンチに座り、花見を楽しんでいた。
(天気も良いし、今日来れて本当に良かった)
真っ白な髪を揺らす風も、穏やかで心地よい。道行く人も笑顔を浮かべている。平和を絵に描いたような光景だ。
だが。
(騒がしい人が多いわね)
若い男女は、服装は派手で髪も明るく染めており、時折甲高い声で笑ったり、叫んだりしていたりと、実に騒々しい。
風情も慎みもない、日本の将来が心配だと、寿々江は顔をしかめて、顔を逸らす。
ふと、道の端に一人の女性を見かけた。
二十歳前後だろうか、化粧気のない顔に、生まれたままの黒い髪。服装も淡い水色のワンピース。
とはいえ、野暮ったい感じはなく、顔立ちは整っているおかげで、清楚な印象がある。
総じて言えば、大人しそうで可愛らしい女性だった。
(ああいう子もいるのにね。ちょっと声をかけてみようかしら)
なにせ、一人で来ていて退屈なのだ。目の前に『こういう子が孫だったらいいのに』という女性がいるのだ。話しかけない手はない。
「ねえ、桜を見に来たの?」
桜並木を眺めて歩いている女性は笑顔で振り返りは…しなかった。
怪訝そうな表情を貼り付け、髪の毛に隠れていたイヤホンを外した。
「なんですか?」
寿々江の予想とは違う返しだったものの、イヤホンで声が聞こえなかったのだろう、そう思い、もう一度同じことを繰り返す。
「桜を見に来たの?」
「…はあ」
どうにも、寿々江の望んでいた反応ではない。彼女の思い描いていた反応は、にこやかに反応を返してくれて、和やかな会話が始まることだった。
いや、こんなに優しそうで、話しかけやすい雰囲気の女性だ。もっと話しかけてみよう、ともう一度話しかけてみる。
「とても綺麗よね。ここの公園、昔はもっと寂しい景色だったんだけど、桜の木も大きくなって、こんなに綺麗になったのよ」
その後も、延々と公園や花について話す。笑顔は浮かべないものの、表情が硬い子なのだろうと、一人合点して、寿々江は調子よく喋る。そして、今ここにいない家族のことも喋ろうとしてーーー
「あの、どちら様ですか?どこかで会ったことがあります?」
怪訝を通り越して、不審者を見る眼差しで、女性は寿々江を見ていた。
「え」
しどろもどろになって答えられない寿々江を冷ややかな目で見据え…女性は鬱陶しさを滲ませた声で言い捨てる。
「用事がないのなら、もう行きます」
「ちょっ、あなた失礼じゃ」
聞く気はないと言わんばかりに、女性は耳にイヤホンを突っ込む。
そのまま足早に立ち去った。周囲の人々は、桜に夢中で一連のやり取りに興味もないようだった。
「こんなことがあったのよ!どう思う!?」
一週間後、月の終わり頃に顔を見せに来る不肖の孫に、寿々江はプリプリと愚痴を言っていた。
「まったく信じられない。あんだけ大人しそうなのに、話を聞いてくれそうなのに、相槌もろくに打たないのよ。仕舞いには、『どこかで会ったことがありますか』ですって!!馬鹿にするにも程があるわ!」
孫の翔一は、なにも言わずに携帯を見ている。
この孫はいつだって、寿々江を小馬鹿にしている。息子が亡くなってしばらくしてから、ちょくちょく寿々江の家を訪ねて来てはいるが、どうにも真心が足りない。
こんな孫でも結婚出来ているのだが、この孫と結婚しただけであって、その嫁と子どももろくに顔を見せにこない。
とはいえ、目の前に誰かいるかいないかで、口を開く張り合いはあるというもので、寿々江は花見で会った女性に対する文句を垂れ流し続ける。
「まったく!せっかく人が話しかけているっていうのに!ああいうのがいるから日本の社会はどんどん寂しくなるんだわ!人と人との繋がりが大事だっていうのに。いつか誰からも相手にされなくなるわよ、あんな子!」
チラリと翔一が寿々江を見遣るが、どうにもその眼差しが、件の女性と同じ温度ーーー冷ややかなものに思えてしまう。
誰も彼もが自分を馬鹿にしている気がする。
自分はこんなに可哀想なのに。頼りになる夫と息子に先立たれ、誰よりも尽くすべき唯一の孫は、寿々江を軽んじている。
少しでも人と話したくて、声をかけた相手には素気無い態度を取られる。
「本当、とんだ期待外れだわ。いい話し相手になってくれると思ったのに。案外、男を騙すのはああいうタイプ…」
「なあ、なんで初対面のしかも通りすがりの相手に、話し相手になってくれるだろうって期待が出来るんだ?」
携帯から視線を外し、翔一は真っ直ぐに寿々江を見据えていた。
聞かれた内容が理解出来ない寿々江は、黙り込んだ。普段なら、どんな形であれ反応が返ってきたことに、自身でも気づかない喜びを覚えているはずなのに。
「聞いてた限りじゃ、その子、無視するなり最初の内でさっさと立ち去る選択肢もあったのに、一通り話を聞いてくれてたんだろ。もしかしたら、なにか用事…落とし物とか、気分が悪くなったかもしれないと思っていた可能性だってあるだろ。あんたの話は無駄に長いから、どうせ立ち去るまで十分は余裕で超えてたんだろ。赤の他人が無駄話に付き合ってくれるにしては、破格の時間じゃないか」
この孫は、息子の嫁が許可なく勝手に出て行ってからというもの、一度も寿々江を祖母として呼んだことはなく、息子がいくら注意して殴っても絶対に呼ばなかった。
『おばあちゃん』と呼んでくれたのは、何歳までだったか。気づけば寿々江と父である息子を『あんた』とか『そこの人』としか言わなくなった。
「よ、用事がないと声をかけちゃいけないの?そんなの…」
「そんなの、寂しい?それはあんたの物差しだろ。音楽聴きながら、綺麗な景色を見たいっていうのはその子だけの時間だろ。それに、他にも人は沢山いたんだろ。なんでその子に声をかけたんだ」
「そ、そんなの…髪も染めてないし、一番大人しそうで、仲良く話してくれそうだから…」
「それ、単なる思い込みだろ。髪の毛染めない、イコール品行方正じゃない。毛染めが肌に合わないからしていない奴もいれば、単に興味がないって奴もいるからな」
流れるような翔一の言葉は、事実を述べているといった風だ。
ちなみに、翔一も髪を染めていない。黒い髪は清潔だし、シャツもしっかりアイロンがかけられていて、シワひとつない。
翔一も、髪の色に興味がないタイプなだけで、特に思いやり溢れる人間ではない。
「都合よく相手を見るなよ、想像していた反応が返ってこないだけでキレるなよ。さっきからあんたが怒っている内容、相手が自分の思い通りにならなかったから不愉快だって言っているようなもんだ。赤の他人があんたの思い込みに付き合う義理は欠片もない」
寿々江は泣きそうになった。この孫は本当に思いやりがない。
やはり、あの不出来な嫁の子であり、選んだ嫁も髪を染めた派手な女なだけはある。
今となっては手遅れだが、少しでも矯正しないと。
「あのね、優しそうに見えて、話しかけやすいっていうのはね、本当に大事なことなの。それも一つの才能なのよ。そう見える人たちはね、その雰囲気を活かして…」
「ようは扱いやすく見てるんだろ。そう見られている相手が、一人残らず人助けが好きなわけないだろ。『コイツなら声をかけてもいいだろう』『話しかけて時間を取らしても、迷惑をかけてもいいだろう』…そういうのが透けて見えてるんだよ」
蔑みきった眼差しと声、そして死に切らない害虫を見る目だった。
なぜ孫は自分をいたぶるのだろう、周囲は『出来た孫だ』と言うが、誰もこの本性を知らないからだ。
一人残された祖母の面倒を見ることなんて人間として当たり前のことなのに、町内会長は、寿々江が愚痴を言うたび『様子を見に来てもらえるだけでもありがたいと思わないと、罰が当たるよ』と噛んで含めるように言う。
翔一という孫は、本当に人間が小さい。物心ついてから反抗的で、嫁としての心得を日々説いていた母親が出ていってからというもの、いつまでもそのことを恨みに思っている。
いわゆるマザコンという奴なのか。
父親の葬儀にも出なかった。連絡を取っても、『財産なんて一欠片もいらない。連絡するな』としか言われなかった。
近所の住人に悩み相談をし続けていたら、二十年ぶりに顔を見せたわけだが、勝手に結婚していて、品なく笑う女を妻にしていた。
夫と息子には先立たれ、孫はどこまでも冷たい。
大きい家は古くなった。新築当時は自慢だったが、年老いた自分の手には余り、廊下を歩くたびに軋んだ音が、誰もいない家に一層大きく響く。孫に『この家に住んでもいいわよ』と言えば、鼻で笑われた。
(どうしてこうなったんだろう)
自分の老後は、もっと穏やかで、美しいものだった筈だ。
なのに、現実はこんなに惨めだ。
ブツブツと汚れた食卓に向かってしゃべり続けている寿々江に一瞥もくれずに、翔一は居間を出る。
(足腰には問題ないくせに、ろくに掃除もしないからな)
かつて、この家で母親は奴隷だった。食卓に染み一つあろうものなら、罵倒され、時にはリモコンや灰皿など硬いものも投げつけられていた。
父は、母親と結婚したのではなく、自分の両親の喜ぶ“道具”を手に入れた感覚だったのだろう。
家に尽くして、子どもを産む大人しい従順な『お嫁さん』。
いつだって祖母の意見しか聞かなかった。
その母親の外見は、まさしく大人しそうなものだった。垂れがちな大きな瞳は、優しそうな大型犬を思い出させる。自分が話すことよりも、人の話を聞いてくれるような人で、翔一は母が大好きだった。
だが、誰にだって限界はある。
否定され、蔑ろにされる日々に、母の心はすり減っていった。中学生になる前のあの日、「ちょっと出かけてくるね」と翔一の頭を一つ撫ぜて…帰って来なかった。
翔一は「うん、行ってらっしゃい。ゆっくりでいいよ」と返事をした。この頃には、糞親父と鬼姑が母親を虐め遊んでいることを理解しており、翔一は母を守りたかった。
母が怒鳴られるたびに、「糞ババア、死にやがれ!」とコーラをかけていたのだが、その後余計に母がいびられた。子どもっぽい仕返しではなにも解決しない、そう学んだ。
母が突き回される要素を減らすために、勉学に励んだ。いい大学に行って、いい仕事について、この家から一緒に出よう、そう思っていたのに。
母が使うことを禁止されている車がガレージにない時点で、おかしいと思うべきだったのに。
母は、遠い空き地で練炭自殺をしていた。
葬式で、恥さらしだと喚き立てる祖母と、車を台無しにされたことに怒っている父を惨殺する方法を百通りほど考えた。
母方の実家は、まったくあてにならなかった。
世間体の為だけに、行き遅れは恥ずかしい、引き取ってくれるなら誰でもいいと、半ば強制的に父との結婚を決められた。
それでいて母が助けを求めているときは、我慢しろの一点張りで、葬式で魂が抜けたようになっている母方の祖父母は、頼りにするだけバカを見ると結論づけた。
自殺と断定される要因になった遺書には、『翔一、ごめんなさい』としか書かれていなかった。誰かを責めたり、呪うような言葉は書かれていなかった。
少しでも恨み言があれば、絶対に父と祖母を殺していたというのに。
とはいえ、同じ家で暮らしていたら、いつか殺してしまうかもしれない。
今まで以上に勉強に励んだ。今思えば、一種の現実逃避だったわけだが、推薦を貰い、全寮制の名門高校に入れたのは幸いだった。
ひたすら、勉強に励み、誰も寄せ付けなかった。
灰色の高校生活の幕開けだったが、その高校生活で、妻に出会えた。車を運転しながら、翔一は当時のことを思い出す。
「翔一君、いつも一人だけど、寂しくないの?」
休み時間の教室。
ぱっちりと大きな瞳に、読書を遮られた翔一の不満顔がはっきりと映っている。
「別に寂しくないけど」
寂しいか、と聞かれれば、是か否かで答えるべきであり、翔一としては嘘偽りない気持ちを誠実に返答をしたつもりだ。
なのに、質問した女子生徒は納得してないような、どこか不満そうな顔をしていた。
その後も何かにつけて翔一に話しかけるようになった。
「一人ぼっちのあなたの友だちになりたいの!だって寂しそうだもん」
堂々と宣う姿に頭痛を覚えた。
小中高と学校生活を送っていると、どこかで会うのではないだろうか。正義感と使命感が異常に強いお節介な人間に。
教師か生徒のどちらかであるそれは、翔一の場合、同じクラスの女子生徒だった。
ふんわりした髪をピンで留め、いつでも笑顔を絶やさない。誰にでも分け隔てなく、教室の片隅にいる人間にも積極的に声をかけていた。
翔一も漏れなく、その対象に入っていた。無駄に敵を作る気はなかったので、当たり障りのない返答をしていた。
正義感に燃える目をしたその女子生徒はひたすらに鬱陶しく、深く関わり合いたくない。
「ねえ、翔一君っていつもどこでお弁当食べてるの?」
「食堂」
「ふうん。今度一緒に教室で食べない?」
「悪いけど、食堂の方が図書室に近いから。俺、図書委員だし」
「じゃあ、私が食堂に行くね」
「ありがたいけど、混んでるから大変だと思う」
差し伸ばされている手を跳ね除けている罪悪感は、多少はあった。
あったが、この女子生徒に関わり合いになりたくなかった。寂しくない、そう返した時の不満そうな表情を思い返すと、やはり親しくなりたくない。
(はっきり言えば、俺はあの女が大嫌いなんだ。っていうかこれだけ避けられているんなら、いい加減に諦めろよ)
昼休み、教室移動と隙あれば関わろうとしてくる。
女子寮と男子寮が逆方向でなければ、帰寮時もついて来ようとしていたかもしれない。
それでも、支障は起こる。
角が立つような拒み方はしていなかったはずだが、翔一は同学年の男子生徒から睨みつけられるようになっていた。
翔一の好みにはまったく掠っていなかったのだが、その女子生徒は校内でも指折りの美少女で信奉者も多い。
なのでーーーー廊下を歩いていて、急に空き教室に引き摺り込まれ、正義感を拳に乗せた相手に絡まれる。
「お前、一体何様なんだよ」
何様でもない、そう答える前に殴りつけられ、引き戸に叩きつけられる。
殴ってきたのは空手部の生徒だ。素人かつ無抵抗の相手を容赦なく殴りつける相手を、冷めた目で睨むと、腹に膝蹴りを入れられる。
「がっ…は…」
「これに懲りたら、もう織瀬に関わるな」
そういえば、あの女子生徒は織瀬という苗字だったな、とぼんやり思いながらしゃがみ込む。その程度の興味しかない相手に付き纏うもなにもない。
追い打ちが来ることを覚悟したが、溜飲が下がったらしく鼻息荒く教室を出て行った。
ふらつきながら、保健室に向かうと元凶が近づいて来た。
「翔一君!?どうしたの、気分悪いの!?」
返事をする気にもなれず、そのまま通り過ぎようとしたら、袖口を掴まれた。
「意地張ってる場合じゃないよ、人を頼って。ね?」
改めて、ジッと女子生徒ーーー織瀬の顔を見ると、どこか楽しそうに見える。
その様子を見て、なぜ自分がこの女をここまで嫌悪するか分かった。
(頭の中で、自分の物語を描いている。しかも、反吐が出そうな青春物語だ)
差し伸べた手は握り返され、話しかければ応えてくれて、友情が育まれる。きっと主人公は自分なのだろう。
いくら尽くしても、何一つ報われなかった母を見ていただけに、一層癇に障った。
力を込めて手を振り払うと、「え」と声を漏らした。転ぶ程の力でもないし、無視してそのまま保健室に向かう。
保健室の先生には、理由を聞かれ…正直に答えた。翔一は自分に非がないことをよく知っている。
いくつかの事実確認が行われ、校内の監視カメラに引き摺り込まれる翔一の姿、殴られる様子が映る。悪ふざけではないのは、翔一の腹の痣が物語っていた。
当然、強制退部になったらしい。
3日後、翔一は校舎裏に呼び出された。
予想通り、元空手部以外にも、織瀬の取り巻きの男共が揃っている。全員で5人。バットなど武器になるものは無いのは、不幸中の幸いか。
鞄をさっさと置いて、何の用だと睨みつける。
(骨の数本は覚悟するか)
まずは、やはりというべきか顔を殴られた。その後、背中を蹴られて倒れ込む。
痛みに目が霞みそうになる中で、罵倒が聞こえてくる。言い返すのも億劫で、内心で文句を垂らす。
「織瀬さんに声をかけてもらっているのに、蔑ろにしやがって」
(うざいだけなんだよ、あの女)
「勉強ばっかりで、俺らのことを見下してるんだろ」
(お前ら程、他人に興味がないだけだ)
「ちっとはやり返したらどうだ」
(せめて一対一の状況で言えよ)
「のこのこ来るなんて馬鹿じゃねえのか」
(ああ、自分でもそう思う)
「卑怯な手で、空手部から追い出しやがって」
(自業自得だろ)
痛みは感じるが、恐怖はなかった。
母が亡くなってから4年。父からは事あるごとに殴られてきた。
母親似の翔一は一見大人しそうに見えるが、実際にはとてつもなく頑固だ。報復に怯えて空手部男のことを黙る、なんてことはしないし、面倒くささに負けて織瀬と仲良くする、という選択肢も取らない。
むしろ、一度でも流されたら、それこそややこしい『前例』を作ってしまう。
一方、男共は5人かかりで殴れば泣いて謝るだろう、そして空手部男からの被害も撤回するだろうと踏んでいた翔一が、まるで根をあげないことに戸惑いを覚えていた。
呻き声を時折上げているので、痛みはあるはずだが、一番折りたい心は全く折れていないことを感じていた。
亀のように蹲る姿勢で殴られ、蹴られるのは屈辱的なはずなのに。
「なんで、どうして翔一君にひどいことするの!?」
割り込んで来た声に、男達は一斉に声の方を見る。
暴力を振るっていた男共は、悪戯が見つかった子どものように狼狽え。
翔一は白けた眼差しで織瀬を見るが…次の瞬間、絶句することになる。
「翔一君は可哀想なんだよ!お母さんが自殺しちゃったんだから!」
時間が止まったかのようだった。
暗い校舎の合間から見える白い雲も停止しているようで、殴っていた男共も愕然とした顔をした。
翔一は痛みに顔を顰めながら体を起こす。
「どこで、それを聞いた?」
表情を完全に消した翔一をどう思ったのか、織瀬は目を潤ませながら言う。
「翔一君、すっごく頑なで、肩肘張っているのが可哀想で…調べたの。お母さん、車で練炭自殺したんだよね。すごく可哀想。お父さんとおばあちゃんともギスギスしてて…。でもね、まだ遅くないよ。残った家族でいがみ合うなんて悲しいよ。ね?」
目の前の女が何語を喋っているのか分からない。
他人の家庭の事情を勝手に調べて、それを暴露したことをどうして誇らしげにしているのか。
周りにいる男共は、今更申し訳なさそうな顔をして、よりにもよって手を差し伸ばしてきた。どうやら頭の中身も、この女に近いらしい。
馬鹿な女には、馬鹿な男しか寄らない。
同じ空気を吸うのも嫌で、鞄だけを掴み翔一は駆け出した。
そのまま無断で外に出て…電車を出鱈目に乗り継いだ。そこでも知らない婆さんに馴れ馴れしく道を聞かれた。
駅の構内だった。辺鄙な場所の駅で、外を見れば山が近くに見える。
当然、駅の構内は空いていて、目の前に退屈そうな駅員がいるのに何故翔一に話しかけるのか。
駅員に聞いたらいいだろ、と言えば「冷たい、ひどい!」と喚き、肩を掴んでくる。
(なんで、母さんも俺も、こんな風に軽んじられるんだ)
迫力がない外見も理解している。
凶暴な衝動は、実行した後のことを考えて、結局行動出来ないことを見抜かれているのだろうか。
乾いた気持ちでそう思ったところだった。
「ちょっと、おばあちゃん。あなたが悪いでしょ。駅のことなら、駅員さんに聞けばいいのに、横着し過ぎ。ほら、手を離して」
制服に爪立ててくる皺だらけの手を離したのは、指先が宝石みたいに彩られた手だった。
バッサバッサと長い付け睫に怯えたのか、婆さんは離れていった。
「災難だったねー、聞き方も無遠慮だったし」
「…俺も悪いと思ってるんだろ」
他校の女子だろう。着崩した制服と茶色に染めた髪に、勉強漬けの日々を送ってきた翔一が関わってこなかったタイプだった。
助けてくれた相手に、我ながら最低の返しだと、今でも思う。
「なんで?遠目に見てたけど、君、無視はしてなかったし。駅員さんも暇そうにしてたんだから、駅員さんに聞くのは普通でしょ。愛想はなかったかもだけど、赤の他人に振りまいてたらキリないし」
気分を害した様子もなく、不思議そうにする様子に毒気を抜かれた。
「ていうか、君…なんか、ボロボロ?」
「え?…そういえば、5人かかりで殴られたな」
怒りの余り、痛みを忘れていた。
外の景色もすっかり暗くなっている。時間も経って、殴られたところも腫れているだろう。
「そういえばじゃないって!顔!痣だらけだし!けろっとしてるから痣メイクだと思ったって!」
(どんなメイクだ)
内心で突っ込むが、その他校の女子は「ちょいと待ってて!」と駆け出し…保冷剤とタオルを持ってきた。
「いつも持ち歩いてるのか」
大真面目に聞いたら、何故だか笑われた。
「違うって。駅員さんに出して貰ったの。はい、冷やして」
タオルに包んだ保冷剤を当てると思いの外気持ち良かった。ああ、自分は確かに怪我をしていたのだな、とぼんやり思う。
すると、その女子はウンウンと頷いた。
「あー、やっぱり痛かったんだねー」
「え?」
気づけば、翔一の頬を涙が伝っていた。
女子の前で泣くなんて恥ずかしい、ちっぽけなプライドがそんなことを喚いたが、無遠慮に過去を暴かれた翔一の心の悲鳴の方が大きかった。
歯を食い縛り、声も無く泣き続ける翔一になにも言わず、その子は隣で座っていてくれた。
ようやく泣き止んだ時、外はすっかり暗くなっていた。
「ごめん」
女の子をこんな時間まで付き合わせてしまったことに、罪悪感を覚えて謝る。
「ごめんって、なにが?」
「いや、長いこと…。すっかり暗くなったし、帰り、大丈夫なのか?」
「あー大丈夫大丈夫。駅前からバス乗ってくし、家はバス停の目と鼻の先だからさ。あ、電車来たよ」
見ると、スピードを緩めた電車がゆっくりとホームに着こうとしていた。
(もっとゆっくりでいいのに)
何故かそう思ってしまう。だが、これ以上ここに居たって不審に思われるだけだろう。離れることを名残惜しく思う自分に戸惑いながら、電車に向かう。
なにか言わないと、と慌てて口から出たのは。
「ありがとう」
無難な言葉しか出てこない。
(そうじゃない、いや、お礼は大事だが。もっとこう…!)
「どういたしましてー。あ、私、矢上理歩!」
やがみりほ、というのが彼女の名前だと理解するのに、数瞬かかった。
「お、俺は月谷翔一!…また来ていい…か…」
言った途端、自分を殴りつけたくなった。名前を教えて貰ったからと言って、馴れ馴れしすぎる。
怪訝な表情をされることに、備えようとした翔一に、なんの屈託もなさそうな笑顔が向けられた。
「いいよー、あ、私いつもこの時間帯だから!」
快諾されたことを呑み込めないないまま、電車のドアは閉まる。
窓ガラスに、翔一のポカンとした顔が半透明に映っていた。
それから、翔一と理歩のささやかな交流が始まった。
週に一度の外出日に会いに行きーーー最初は出会った郊外の駅だったが、そのうちに他の場所で会うようにもなった。
図書館だったり、ショッピングセンターだったり、映画館だったりとかだ。
「それにしても翔一の人に道を聞かれる率は高いねー」
「通りすがりに聞くより、ちょっと店に入って店員に聞く方が確実なのにな」
「あっはっはっ。それ、そのまんま言ったら聞いたおばさん、ポカンとしてたねー。優しそうな男の子に見えて、わりと辛口だからね」
理歩の隣は、息がしやすかった。翔一自身、冷たいと思う性格を責めることはなかった。一度、「俺の性格を悪いとは思わないのか」と聞いたら、「別にー」とあっさり返された。
「だってさ、翔一は困ってる人や具合が悪そうな人がいたら、自分の方から声かけてるじゃん。私、人が倒れててもなにもしない人、見たことあるし、下手すれば動画だけ撮ってる輩もいるからね。個人的には翔一の方が断然マトモ。それに翔一に道とか聞いて来る人で、今のところ切羽詰まった感じの人いないし。これだけで性格の善し悪しなんて言えないでしょ」
「そ、そうか」
「むしろ、翔一の一番の問題点は無謀なとこだって。あの5人がかりで殴られた時、鞄にボイスレコーダー入れてたって聞いたけど、本当に取り返しのつかないことになってた可能性もあんだよ。ただの暴力じゃない、もっとエゲツないことされてた可能性もあるし」
あの日、理歩と別れて学校に戻り、ボイスレコーダーを教師に渡した。怪我の様子を見た担任に、「クラスを替えて欲しい」と直訴した。
教師は黙って頷いてくれた。母の自殺が暴露された下りでは、嫌悪感を露わにしてくれたことから見て、感性は信用できると思った。
そして、翔一のクラスは変わり、5人組は停学処分となった。
残念なことに、織瀬は厳重注意のみとなった。お節介が過ぎただけで、実際に男達を焚きつけてもいないかららしい。
一応反省文もついていたが、反省点がずれた内容だった。力不足で誰も助けられなかったということが延々と書かれており、教師の注意も何一つ呑み下せていないようだ。
新しいクラスでは、静かに過ごせた。
急にクラスが変わったことに興味を持って話しかけてくる奴もいた。
「あー、織瀬ちゃんね。俺はダチとつるんでいるから、声かけられたことないわ。っていうか、高校生にもなって、まだ『そんなのってよくない!』って言う女子いるんだな。そろそろクラスでボッチの奴見かけても、当たり触らずの対応がいいって学ぶ年齢だろうに」
下手に隠すと、妙な誤解を生みそうなので「ボッチの俺を憐む織瀬と、取り巻き共と揉めた」と言えば、さくっと納得された。
坂口というその男子とは、それからちょくちょく話すようになる。
織瀬はそれからも、廊下ですれ違うたびに声をかけてこようとしたが、金輪際関わり合いになりたくないので、早歩きで通り過ぎたり、回れ右をするようになった。
図書室に突撃されたこともあったが、司書教諭が喚く織瀬を追い払ってくれた。ちなみに、取り巻き共は織瀬と距離を置いているらしい。
停学処分を受けたことがある、それが内申書に書かれることは理解しているようで、織瀬と関われば二度目がある危険性に気づいたらしい。
だが、織瀬の執念も理歩と会ったことで終わった。
休日に理歩と出掛ける時に、織瀬に見つかった。
出掛けたい場所の関係で、翔一の通う学校最寄りの駅で待ち合わせたのだが、面倒くさいのに絡まれた。
理歩と出かけられることに浮かれていて、織瀬との遭遇を考慮していなかったことが悔やまれる。
「ちょっと…翔一君、その子は…?」
「彼女だけど、なに?」
この頃には、翔一と理歩の関係は友だちから恋人同士に変わっていた。
彼女、という言葉に織瀬は目を見開き、唇はわなわなと震えている。
(別にこれは嫉妬じゃないんだろうな)
織瀬という女子は、別に翔一に恋をしているわけではない。彼女がこだわっているのは。
「俺、別に不幸じゃないから。あんたの頭の中のドラマの登場人物にしないでくれ」
織瀬の顔が強張ったのは、『不幸じゃない』なのか『頭の中のドラマ』どちらに反応してのことなのか。両方かもしれないが、翔一にとってはどちらでもいい。
理歩はなんとも言えない顔をしていた。翔一から織瀬という女子の面倒臭さを聞いていたが、実際に本人を前にすると、どういう顔をすればよいか分からないようだ。
理歩と手を繋ぎ、改札口からホームに向かうと、織瀬の声が追いかけてくる。
「逃げるの!?翔一君、そうやってずっと逃げるの!?分かり合おうともせずに楽な道に行っても、成長出来ないんだよ!」
振り返る必要もないから、相手にはしないが大声で自分の名前を呼ぶのはやめてほしい。
周囲の客もコソコソと「痴話喧嘩?」「修羅場?」と怖気立つようなことを囁いている。太陽が西から昇っても、織瀬とだけは付き合いたくないのだ。本当にやめてほしい。
流石にそれ以上は追いかけては来ずーーー理歩と電車に乗る。
静かに揺れる車内で、理歩は呟く。
「なんだか、聞いたことがあるような言葉しか言わない子だったね」
「青春ドラマの見過ぎだ」
賢明な理歩は、それ以上織瀬関係のことはなにも言わず、その日は互いにデートを楽しんだ。
後日、織瀬が「翔一君が派手な女の子に騙されていた」と彼女のクラスで喚いていたようだが、そのクラスのボス女子に「あんた、ストーカーみたいで気持ち悪いよ」と即撃沈されていたと、坂口が教えてくれた。
(あの後の高校生活は、平和だったな)
翔一は理歩と交流を深めつつ、勉強に専念出来た。
ちなみに、織瀬はその後はすっかり静かになったらしい。らしい、というのは織瀬は翔一を見かけるなり逃げるようになったからだ。それに、織瀬のお節介にげんなりしていたのは翔一だけではなかったようで、手懐けていたつもりの女子のグループからも跳ね除けられたらしい。
虐めまではいかないにせよ、肩身は狭くなったようだ。もっとも、翔一にはなんの関係もないが。
今、車のミラーに映る翔一の顔は、すっかり大人のものになっていた。理歩と結婚して一児の父となったのだから、多少は大人びないと格好がつかない。
(早く理歩と美智香の顔が見たい)
あの祖母の顔を見た後は、特にそう思う。
父親が死んだ時は無視していたが、祖母がその後問題行動を起こすようになったと聞いた。
通学する小学生に声をかけまくり、自作のお菓子を食べさせようとしたり、近所の公園の井戸端会議に強引に割り込んだりと。
井戸端会議で、嫌がる子どもにお菓子を与えるなと注意されれば、注意した家にゴミを投げ込むようになった。
何度か警察沙汰にもなり、翔一の耳にも祖母の醜聞が届いた。
顔も見たくなかったが、世間様に迷惑をかけているのなら、監視しないわけにもいかない。理歩と一緒に仕方なく、実家に行った。その頃はまだ美智香は産まれていなかったが、あの祖母にひ孫の顔を拝ませる気はない。
実際、あの祖母は理歩に会うなり、「なんなのその髪は。今すぐこの家から出てって。挨拶に来るのなら染め直して来なさい」と開口一番宣った。
翔一が無言で理歩を車の助手席に乗せ、車のエンジンをかけたところで、祖母が運転席の窓をバンバンと叩いてきた。
「妻に不快なことを言うのなら帰る」
「ちょっと!帰るのはその人だけで…」
「知らん。発進したいから離れろ」
冷たくあしらう翔一と喚きながら車のドアに取りすがる寿々江で堂々巡りとなったのだが、理歩が「私、車で待っとくからさ。とりあえず二人で話しといでよ」と言ったことで妥協となった。
一旦家に戻り、翔一が定期的に実家を訪ねることになった。近所に迷惑をかけていない状況が維持出来ていれば、金銭的援助もすることを合わせて取り決めた。
寿々江は最後までぶつくさ言っており、帰り際に理歩に「長男を産むのよ」と捨て台詞を吐いた。
理歩が「アッハッハ、初めて見た。ホントにそんなこと言う人、いるんだねー」と笑ってくれなければ、祖母を車で引き摺り回していたかもしれない。もっとも、祖母は理歩の珍獣を見たと言わんばかりの反応に顔を真っ赤にして震えていたが。
自宅に到着し、玄関を開けると理歩が美智香を抱いて立っていた。
「お疲れ様」
「ただいま」
そのまま翔一は二人を抱きしめた。
あの祖母に会った後だと、二人が尚恋しい。
翔一は現在、幸せである。
母の遺骨は引き取ることも出来、理歩と美智香がいる。仕事も順調だ。
だから、月に一度、憎い祖母の顔を見ることくらい我慢しなければ罰が当たる。
幼い娘は、キャッキャと笑いながら、翔一に手を伸ばす。自分の元にこんな天使が舞い降りるとは、夢にも思わなかった。血の繋がった祖母に冷淡な翔一には過ぎた幸せだ。
だからこそ。
「美智香は父さんに似るなよ」
そう言って柔らかなほっぺを突くと、美智香を抱いた理歩が不思議そうな顔をする。
翔一にとって、理歩の不思議そうな顔は、笑顔よりも魅力的だ。
「なんで?私は翔一の人の話を聞いてくれるとこ好きなのに。素っ気無いとこもあるけど、無視だけはしないでしょ。まあ、あまりにも馬鹿げたことを言う相手はスルーしてるけど」
ーーー俺は、お母さんの話を聞いてくれるところが好きだよ。
幼い頃の自分の声が蘇る。
もしかしたら、あの遺書の言葉は話を聞けなくなることを謝ってくれていたのだろうか。仏壇と墓で手を合わせる時、翔一はいつも謝っていただけだった。
(今度から、ごめん以外の言葉も言おう)
理歩から美智香を受け取り、小さく暖かい体を抱いて翔一はそう思った。