彼方の夢
赤ん坊の鳴き声が小さな家に響いている。
まだ息の乱れる母親は、感動の涙を溢しながら初めて我が子を抱いた。願いを込めて小さな額に祝福のキスを贈ると、父親もそれに倣いその小さな手に口付けた。
若い夫婦は笑い合って新しい家族の誕生を神に感謝し、喜びを噛み締めている。
名前を決めなくては。
男の子だから強く逞しい名前が良い。
夫婦は生まれたばかりの息子の顔を見つめ、これから家族三人で送る幸せな日々に思いを馳せた。
しかし。
非情にもそんな思いは一瞬で砕かれた。
無垢な我が子が初めて世界を目にしたとき、幸せは絶望へと反転し夫婦は半狂乱になって泣き叫んだ。
子どもの瞳は、紫色だった。
人には決して持ち得ない色と、そこに宿るおぞましい光。母親はそれでも大事に愛しい子を抱き締めていたが、無情にも父親によって引き剥がされた。
「どうして……」
父親はぼやける眼で我が子を見つめながら、誰ともなく問いかける。
「どうして、こんな……」
ぐっと瞼を閉じると、赤ん坊を抱えたまま家を飛び出した。背中から妻が悲痛な叫びで夫を呼び止めるが、立ち止まるわけにはいかなかった。
紫の瞳は“鵺”の証。
生まれながらに強大な魔力を身に秘めた、恐るべきもの。
全身に魔力を宿し、特にその血液は世界をも思うがままにできるとまで云われていた。
人の身にはあまりに大き過ぎるその力は秩序を狂わせる。
かつて“鵺の血”を巡って争いが起こり、国が滅んだことも歴史として語り継がれているほどだった。
しかし鵺はその存在だけでは脅威にはならず、瞳の色と身に秘めた魔力を除けば人と変わらなかった。
それでも鵺の持つ力を知る者は、誰ひとり彼らを人として見ることはない。その身を魔具として使用することによって恐るべき力を発揮する、災いを招く恐怖の対象か、若しくは貴重な原材料だった。
そんな存在として生を受けてしまったこの子が見つかれば、魔に魅せられた者に狙われ、人からは恐れられ蔑まれる。例え隠し育てたとしても、幸せに暮らせるはずはなかった。
おそらく先人も同じ思いを持っていたのだろう。いつからか必然的に決められた掟があった。
それは、鵺が生まれ落ちた瞬間に殺さねばならないというもの。守るために殺すのが正義。
鵺は、この世に決してあってはいけないものだった。
とめどなく涙を流しながら山道へ駆け込むと、正義を貫くべく崖を目指してひたすら駆けた。
「どうしてこの子が鵺なんだ!」
過去にも鵺が誕生した記録は残っており、その都度生まれてすぐに親や身近な者によって葬られてきた。しかし、実際に鵺が生まれたという事実を見た者は、もうこの世にいないだろう。鵺が生まれるということはそれほどまでに稀であり、もはや伝説といっても良いほどだった。
そんな限りなく低い可能性の中、この夫婦の初めての子が鵺として生を受けてしまった。
子どもの頃、学校で習ったまるでおとぎ話のような鵺にまつわる悲劇が、次々に鮮明に思い出される。まさか我が子が鵺として生を受け、自らが葬らねばならないなど思いもしなかった。
こんな悲劇を誰が想像できただろう。
つい先ほどまで幸せの絶頂で愛しさを噛み締めていたはずが、今では例えようのない絶望の縁に立っている。嗚咽は叫びとなり止まらない。
それでも、一歩一歩足を進めた。
もう少し登れば谷底も霞んで見えない深い深い断崖に着く。そこから落ちれば、翼のない生きものには助かる術は何も無い。
誰かに見つかる前に、そこへこの子を落とさなければならなかった。
鵺は命が尽きるとその身の魔力も失われる。
死んではじめて人となれる哀れな息子。
父親は木の枝や葉で身体中傷付きながらも、護るようにしっかりと赤ん坊を抱え込み、足場の悪い山道を登る。木々の間を抜け、ゴロゴロとした岩場をなんとか越えると、遂に目的の場所へ辿り着いた。
声も涙ももう出ない。体中の水分を全て失ってしまったようだ。
全身を痛みと痺れが包み、酷い吐き気もするが不思議と全く気にならなかった。
そっと胸に抱いた子を恐る恐る覗いてみた。
それはきっと、我が子を目にできる最後の機会だったのだがなぜか渇ききったはずの涙がまた溢れてきて、ちゃんと目に焼き付けることはできなかった。
記憶にすら残せないのか。
深くなってゆく絶望を断ち切るように岩場の縁まで慎重に進み、両手を崖へ向かってゆっくりと伸ばした。
この手を離せば、まっすぐに谷底へ吸い込まれていくだろう。世界の為に、そしてこの子の為にもやらなければならない。
妻にはきっとできない。本当に慈愛に満ちた強いひとだから、どんなことをしても守り抜こうとするはずだ。
だったらこれは自分の使命なのだ。
生まれたばかりの我が子は心もとない手の先であるにも拘わらず、泣くこともなくおとなしくしている。
「ごめん、ごめんな。ごめん……」
謝罪の言葉だけが口から零れた。
繰り返される短い言葉にどれだけの意味が込められているのか、無垢な息子は理解できないだろう。
「ごめん、ごめん」
それでも謝り続けていた父親は、指先に入れていた力を少しずつ抜いていく。
「……さよなら」
最後に別れの言葉を囁くと、手をひらいて我が子を手放した。子どもは谷底へ落ちる、筈だった。
しかし不思議なことに、息子は父親の胸へ飛び込んでくる。再び腕の中へ戻った子を抱き締めようとしたが、身体がうまく動かない。
そしてすぐに理解した。
手を離す直前、息子が飛び込んできたのではなく自分が後ろへ倒れたのだ 。背中に感じる激痛に意識が遠退いた。
最後の力を振り絞ってなんとか子どもを胸に包み込み、固い地面に仰向けに倒れた。
その様子を一人の男が傍らで見下ろしていた。
背後からナイフで心臓を一突きした。もう息はないだろう。
息絶え、倒れている父親の腕を爪先で軽く蹴り上げ、腕がぱたりと地に落ちると胸の上で微かに動く赤子が見えた。
男はしゃがみ込み、その赤子の瞼を多少乱暴に開ける。
「やはり鵺か」
口元に笑みを浮かべ、淡々と言葉を漏らした男だったが、その表情には隠しきれない興奮が見て取れた。
まさか、仕事を求めての移動中に鵺に遭遇するとは思いもよらない。
しかも、鵺は次の仕え先にと一番に考えていた主の最も求めていた獲物だ。
手土産に丁度良い。
鵺は魔術師でもないただの殺し屋である自分の手には余る。
第一、子どもの鵺は魔力もまだ弱い。おとなになるまで何年もかけて育てるなど、考えただけでイライラする。
それであれば、高額で売りさばくか利用するに限る。
今は一時の大金よりも安定した仕事が欲しい。
この鵺を持って主の元へ行ってみよう。
男は黄色い歯を剥き出して笑うと、鵺を脇に抱えて立ち上がった。
鵺は乱暴に扱われながらも、まるで己の運命を受け入れているかのように泣くことはなかった。




