お別れ
翌朝もフライパンを叩く音で目をさまし、家畜小屋の掃除をしていると、ティナがやってきた。
今日は学校がお休みの日だが、こんなに早い時間に来るのは珍しかった。
私は手を止めて、ぺこりと頭を下げる。
ティナはいつもと違って、笑顔で私の前に立った。
「今日はね、村にサーカスがくるのよ」
今まで見たことのない嬉しそうな顔で話すティナに、私も嬉しくなった。
ティナは、綺麗な新しい洋服を着ていた。
長く伸ばした赤みがかったブロンドの髪や、よく動く濃い茶色の瞳は、とっても素敵だと思う。
薄い服の上からでも骨の形がわかってしまう私とは違い、赤い頬やふっくらした身体はとても柔らかそう。
歳も身長も変わらないのに、私とは全然違う。
たまに笑顔を見せてくれたときには笑窪ができて、とても可愛らしかった。
しかし、ティナはすぐにいつもの不機嫌な表情になってしまった。
「何笑ってるの?あんた、自分も観に行けると思ってるの?」
そんなことは思ってもみなかった。
首を左右へ振って違うと伝える。
ティナは焦げ茶色の目を細めて私を睨んでから、また口の端を上げて笑った。
「ふん。あんたなんか、お父さまが連れて行くわけないじゃない。お父さまとお母さまと私の三人で行くの」
私はちゃんとわかっていると、今度は首を縦に振って伝える。
せっかくティナが笑ってくれているのに、怒らせたくなかった。
「わかってればいいわ。あんたはもちろん、留守番よ」
私がまたこくこく頷いて返事をすると、ティナは満足げな笑みを浮かべたままお屋敷へと帰っていった。
私はまたひとりになって、家畜小屋の掃除をしながら空をぼんやりと眺めた。
サーカスというものを見たことはないが、以前にティナがサーカスの絵本を見せに来てくれたことがあったのを思い出した。
叔父さんが、ティナへのおみやげに買ってきたその絵本には、火を吹く男や大きな玉に乗る獣の絵が描かれていて、思わず声を出してしまいそうになるほど驚いた。
ティナは食い入るようにその絵を見ていた私に怒って、すぐに本を持ってお屋敷へ帰ってしまったけれど、あの絵は今でも覚えている。
まるで夢のような絵だった。
家畜小屋で食事をしていると、お屋敷から三人が出掛けていくのが見えた。
ティナだけでなく、叔父さんと叔母さんも楽しそうな様子に私も笑顔になる。
ティナが帰ってきたら、サーカスの話を聞かせてくれるだろうか。
普段は無い楽しみができて、今日はいつもよりも一日が長く感じた。
菜園の仕事を終わらせて、川で手足を洗い家畜小屋へ帰ると、叔父さんたちが知らない男の人と帰ってきたのが見えた。
私は他の人に見られてはいけないと言いつけられている。急いで小屋へ駆け込んで、身を隠した。
お客さんが帰るまでは念のために隠れていようと決めて、ぺらぺらの布団をかぶって息を潜めていると、そんな思いとは反対に叔父さんがさっきの男の人と一緒に家畜小屋の方へ歩いてきた。
私はどうしていいのかわからずに、そのまま汚いベッドに丸まっていた。
二人はそのまま家畜小屋へ入ると、私の前で立ち止まった。
叔父さんは、うずくまる私に久しぶりに声を掛けた。
「出てこい」
言われてすぐにベッドから飛び出した。
叔父さんと男の人の前に立って、頭を下げて挨拶をする。
本当に姿を見せてもいいのだろうかと叔父さんの顔を覗くが、叔父さんはこちらを見ていなかった。
「本当によろしいのですか?ほら、見てくださいこの髪の色。悪魔の子ですよ」
不安そうな、でもどこか安心したような複雑な表情で叔父さんは男の人の顔をうかがっている。
隣に立つ男の人は、叔父さんと同じくらいの歳に見えたけれど、もっと華やかで明るい印象を受けた。
「うん、これは珍しい!ぜひお願いしたい!」
男の人は私を見て頷くと、叔父さんに右手を差し出した。
叔父さんはその顔に穏やかな笑みを浮かべて、その右手を握った。
「よろしくお願いします」
叔父さんはそう言うと、私には一瞥もくれずにお屋敷へ帰っていった。
残された私はどうしていいのかわからずに、同じく残された男の人を見た。
「はじめまして。僕は今日この村に来たサーカスの団長だ」
男の人はにこやかに笑い掛けて、私にも右手を差し出した。
生まれて初めての握手に、薄汚れた服の裾で手をぬぐって応える。
この愛想のいい人はサーカスの団長だった。
絵本や夢の中だけの存在だったサーカスが、急に身近なものに感じてドキドキする。
「今日の興業を観に来てくれたここのご主人がね、僕に君を紹介してくれたんだ」
私は、話の意味がわからずに首をかしげた。
団長は軽く頷くと、私の肩に両手を置いて視線を合わせた。
「君はうちのサーカスが引き取ることになったんだ」
一瞬、頭が真っ白になって、でもすぐに納得して、一度だけ頷いた。
団長はあまりに理解の早い私に驚いたようだった。
叔父さんにも叔母さんにもティナにも、とても感謝している。
本当はちゃんとお礼を言いたかった。
でもそれはできないから、お屋敷に向かって深く頭を下げた。
育ててくれてありがとう。
パンをくれてありがとう。
話をしてくれてありがとう。
声には出せなくても、伝えたかった。
しばらくそうした後、私は頭を上げて団長に行こうと視線を向けた。
団長はまた驚いた顔をして私を見たけれど、すぐに私の手を引いて家畜小屋を出た。
「さよなら」
隣を歩く団長にも聞こえない小さな声で、私はひと言だけ呟いた。




