奇跡の可能性
鼓膜が破れんばかりの轟きに、頭痛とめまいがした。
世界中の魔獣の雄叫びを一度に聞いてもこれほどの音量にはならないのではないかと思うほどの爆音に、魔術師たちは魔具を取り落として耳を塞ぐ。
びりびりと痺れる重低音は、遠くの森の葉を揺らし、分厚い雲を切り裂くように平原を響き渡った。
鵺はこの音を知っていた。
これは、アルファルドの声だ。
アルファルドの捕らわれていた方へ急ぎ振り向くが、ここからではテントが邪魔で何も見えなかった。
記憶の中のものとはかなり違うその酷く苦しげな声に、息が漏れる音が重なって聞こえた。
丘の上から見た光景が鵺の脳裏によみがえる。
全身に突き立てられた杭は、まるで地にひれ伏せとでもいうように赤く染め上げられた身体を押さえつけていた。
苦しくないはずがない。
痛くない訳がない。
裂けた声は、断末魔の叫びに聞こえた。
鵺は、アルファルドの元へ駆け出したい衝動のまま動こうとするが、なぜかすぐに足を動かすことができなかった。
絶叫に近い叫びは、途切れることなく繰り返される。
「鵺、行って!血を……」
ネロが何か早口で鵺に伝えるが、アルファルドの唸り声に掻き消されてほとんど聞き取れなかった。しかし、ネロの目が鵺に急げと切実に訴え掛けていた。
根でも生えたように動かなかった足は、ネロに声を掛けられると、それを断ち切って踏み出すことができた。
鵺は何も考えずに駆け出す。
走りながらコートへ乱暴に銃をしまい込んでテントを回り込むと、そこには全ての杭を抜かれてなんとか地に立っているアルファルドの姿があった。
「アルファルド!」
鵺はすぐに駆け寄り、杭を打たれたために首に空いた穴を躊躇いなく両手で押さえる。しかし、どんなに強く押さえても、指の隙間からは熱い血が溢れて止血にはならなかった。
同じように身体のあちこちからも、だばだばと滴る血は止まらない。
鵺は恐る恐るアルファルドを見上げた。
雨が滑ったところはかすかにもとの色を取り戻していた。
しかし、そこにあの美しい鱗はほとんど残されていなかった。
力任せに一気に剥がされたのだろう。
折られて不自然な形にけば立った鱗、皮ごと剥がされ抉られた肉。
拷問でも受けたかのような跡が、身体中にあった。
裂けた翼は捨てられた旗のように草の上に乗っていて、あの大空を力強く羽ばたいたのが夢だったのではと思うほどにぼろぼろだった。
見るに耐えないほど痛々しい姿に、鵺は唇を噛む。
今にも倒れ込みそうな身体を必死に起こす姿を見れば、どうしてか自分の心臓が傷んだ。
「……鵺」
アルファルドは閉じかけた目を懸命に開き、鵺を呼んだ。
美しかった青い瞳は濁った灰色に見える。
震える大きな口を動かせば、そこからも血が溢れた。
「逃げろ」
鵺は驚きに言葉をなくした。
「何故、来たのだ。……早く、行け」
アルファルドは、死角からにじり寄ってきていた魔術師たちに向け、また威嚇の咆哮を上げる。魔術師は魔具を投げ捨てて逃げた。
咆哮と共に、身体に空いた穴から血がふき出す。
鵺は無駄とは知りつつも、それを必死に手で押さえた。
「私は、もう飛べぬ」
そう言うとアルファルドはもう立っていられなくなり、倒れ込んだ。ずしんと地面が揺れ、血だまりから跳ねた血が鵺に降りかかる。
鵺はアルファルドに駆け寄り、その顔へ手を伸ばした。
そっと触れるとアルファルドは今にも目を閉じてしまいそうな様子で、それでも鵺に逃げろと繰り返している。
横たわるその身体を改めて見れば、生きているのが不思議なくらいにひどい有り様だった。
この傷では、転送魔術を使ってもマリーの家までもたないだろう。
マリーならば治癒魔術も使えるだろうが、それ以前にもうそこまでの時間が残されてはいなかった。
手遅れだというのか。
鵺は血の海と化した草地に膝をついた。
アルファルドの意識を繋ぐように、顔をさすり続けることしかできない。
もう何も手段はないのか。鵺は顔を歪めて手段を探す。
なんでもいい。どんなことでもする。
なにか、方法は。
噛み締めた唇が切れて、口の中で血の味がした。
不意にネロの途切れた言葉を思い出して、鵺は顔を上げた。
“鵺、行って!血を…”
鵺は目をみはった。
そして、ゆっくりと先ほど自分で付けた手の傷を見る。
そこからはいまだ血が流れ、アルファルドの頬にぽたぽたと落ちていた。
鵺は慎重に手をずらして、かすかに息の漏れる口へと寄せた。鋭い牙の並ぶその隙間に、赤い雫を落としていく。
鵺は血が口の中へ入ったのを確認すると、目を閉じて力を込める。
アルファルドの頭を抱え込むように抱いて、願った。
治れ。
アルファルドが苦しそうな唸り声をあげ、鵺は目を開けた。
しかし、特に変わった様子はなく、息は更に細くなっている。
駄目だったのか。
鵺の血は万能薬になる。
マリーから聞いたその話にかすかな希望を抱いたのだが、やはり迷信だったのだ。
もう、ここまでなのか。
そう思い諦めかけた瞬間、アルファルドの身体がほのかな光に包まれているのに気がついた。
その光は淡い紫色を放ち、柔らかくアルファルドを包み込んでいる。
鵺はアルファルドの身体を離し、その不思議な光景に目を奪われた。
光のヴェールは次第に濃くなり、鵺の瞳の色に近付いてゆく。
銀色の肌をすべるそれを、鵺は呆然と見守った。
光の中で、アルファルドの翼に空いていた穴がゆっくりと塞がっていくのが見えた。
尾と首の穴も塞がったようで、もう血は吹き出していない。
失ったはずの鱗も、新しく生え変わるように再生していった。
身体中に残る血の隙間から、紫の光を受けて眩く煌めく銀色が見える。
それは紛れもなくアルファルド本来の色だ。
しばらくするとヴェールは空気に溶けるように消え失せ、またもとの薄暗い雨の景色に包まれた。
雨のシャワーが血を流し、少しずつ本来の色が取り戻されていく。
鵺は、再び静かに呼んだ。
「アルファルド」
まだ血に濡れた頬がぴくりと反応を示し、アルファルドは瞼を開けた。その瞳には、深い深い瑠璃のような青色。
まっすぐに鵺を見ると、二、三度瞬きをしてからゆっくりと顔を上げた。
そして、確かめるように血だまりに隠された緑の大地に足をつき、慎重に立ち上がった。
傷は全て癒えたらしく、動くたびに綺麗に並んだ鱗が煌めき、翼もしっかりと天に向いて伸びている。
「何をしたのだ?」
アルファルドは首を捻って自分の身体を確かめると、さも面白いという顔を鵺に向けた。
鵺はどう説明したものか逡巡したが、しかし、アルファルドは特にその答えが欲しいわけではないようで、頭を下げると鵺に乗るように促した。
「大丈夫なのか?」
鵺は心配をにじませて聞いた。
つい今さっきまで死にかけていたというのに、自分を乗せるというのか。アルファルドはその表情からそれを読み取ると、喉を鳴らして頷いた。
「ああ。また助けられたな、鵺」
再び下げられた首へ鵺が慎重に跨がると、アルファルドは翼を羽ばたかせて舞い上がった。
本当にもう何ともない様子に、鵺は安堵の息を吐く。魔術師たちが戻ってくる前に、早々にここを発ちたいと鵺は考えていた。
もうこれ以上アルファルドを危険にさらすわけにはいかない。
転送魔術は準備がいるため、アルファルドの翼に頼れるのならばそれに越したことはなかった。
アルファルドはテントを飛び越えると、旋風を巻き起こしながらネロの前にふわりと降りた。
ネロは、突然目の前に現れた銀竜と鵺を前に泡を吹いて気絶した主を地面に落とすと、鵺とアルファルドを交互に見てほっと息を吐いた。
「よかった。間に合ったね」
そして、もう一度よかったと笑いかけて言うと、今度は悪戯が成功した子どものような表情で鵺を見た。
「制圧してからじゃ、間に合わなそうだったから。それに説明してる余裕もなかったし」
どうやら、鵺が魔術師たちの相手をしている間にネロがアルファルドの杭を抜いたらしい。陽動作戦は大成功だと、ネロは満足げに笑った。
「僕が逃がせればよかったんだけど、僕はただの人間だし」
傷を治すことも、転送魔具を使うことも、ましてやマリーの家まで連れて行くことも自分にはできない。
それは、鵺にしかできない。
ネロは少し寂しそうに呟いて微笑んだ。
「アルファルド?」
ネロはぱっと表情を明るくし、アルファルドに視線を向けて声を掛けた。
「なんだ」
アルファルドは素直にネロに返事を返す。
さっきの咆哮もネロの作戦のうちだったのだろう。ネロとアルファルドが親しげに言葉を交わしている様子を、鵺は不思議な気持ちで眺めていた。
「鵺を、よろしくね」
「わかった」
ネロが笑いを含んだ声で言えば、アルファルドもぐるぐると独特の笑い声を上げてそれに応える。
鵺は、なぜ自分がアルファルドに任されているのかわからなかったが、楽しそうなふたりを見てどうでもよくなった。
「……お前はどうするんだ」
ふたりの短い会話が途切れたところで、鵺はネロに問い掛けた。主に手を出した今、自分もネロもただではすまないだろう。
主自身には恐れるものは何もないが、金にものをいわせたそのやり方は厄介だった。
それはネロもよくわかっているに違いない。
しかし、鵺のそんな心配をよそに軽い返事が返ってきた。
「心配しないで」
ネロは手をひらひら振ると、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「僕、強いから」
鵺は見慣れたその表情に少し面喰らってから、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
視界の隅で、一度は逃げた魔術師たちが少しずつ戻ってきているのが見えた。
逃げるなら今しかない。
「じゃあ、またね。鵺」
ネロはダガーをくるりと回して腰のベルトに収めると、鵺に背を向けた。
アルファルドも翼を広げ、飛び立つ準備を整えた。
「ああ。またな、ネロ」
言葉の余韻も残さぬ間に空高く舞い上がる。
ネロが慌てて振り返った時には、その姿はもう遥か彼方だった。
「……初めて名前、呼んでくれたね」
ネロは今まで誰も見たことのない表情を浮かべていた。
それは、まるで本当の天使のような、眩しい笑顔だった。




