魔女の要求
自分の身体も見えない程の濃い霧の中を、鵺は進み続けた。視界だけでなく音まで奪われたように、霧の中は不思議と自分の足音すら聞こえない。
真っ直ぐ歩いているつもりだが、果たして本当にそうなのだろうか。前後左右だけでなく、平衡感覚までおかしくなりそうだった。
それでも決して立ち止まることなく歩を進めていると、突然、青空が視界いっぱいに広がった。
鵺は瞬きをすると立ち止まり、その風景を見渡した。
どうやらうまく霧を抜けられたようだ。理由は分からないが、魔術は効かなかったらしい。
上空は見事な晴れ空で、その青の中で太陽は燦々と光輝き草原を照らしていた。風の動きに合わせて揺れる草花が、目に鮮やかだった。
鵺のすぐ後ろにあった霧は、雲の塊になって風にも流されずその場に漂い、くっきりと空と大地を区切って草の上に載っている。
荒れた岩も冷たい風も嘘のように消え、暖かな日差しと爽やかな風が鵺を包み込んだ。
雲に四方を囲まれた広大な草原には馬や羊が放たれ、草を食んでいる。草原の真ん中には赤い屋根の小さな家があり、外壁に付けられた水車が回っているのが見えた。
他に家などはなく、それがマリーの家であると確信して鵺はそこへ向かった。
フードをしっかりとかぶって近づいてみると、本当に小さなその家はすぐ横まで水が引いてあり、軽快な音をたてて回る水車の下には池があった。気持ち良さそうに泳ぐアヒルや縁で水を舐めるウサギ、他にも家の周りには多種多様な動物が飼い放しにされている。
マリーが大の動物好きというのも、どうやら本当のようだ。
鵺は家を一回りしてから玄関ドアの前で立ち止まった。
中から危険な気配はしなかったが、今の自分の感覚は信用できない。気を引き締めて扉をノックした。
何度か叩いてみたが、反応は返ってこなかった。
この草原にはこの家以外に人がいそうな場所はない。鶏の入った籠を外壁の陰へ置き、そっと取っ手に手を掛けて捻ってみると、軋む音をたててドアは開いた。
家の中は外の明るさとは対照的に薄暗く、紙とインクの強い臭いが鼻を突いた。
テーブルや椅子はもちろん、床にまで大量の本や紙切れが積んであり、窓を塞いでしまっている。ただでさえ小さい家は、足の踏み場もないほど物に溢れていた。
鵺はドアを開けたものの、入らずにその場で中の様子を伺っていた。何となく入らない方が良い気がした。
今は頼りない勘ではあるが、本能が危険だと警告しているのだ。
いつまでたっても中に入る様子のない鵺に痺れを切らし、ついに声が掛けられた。
「なんてカンのいいひとかしら」
むすっとした顔で本の陰から姿を現したのは、まだ幼い少女だった。どう見ても十二歳かそこらの容姿をしたその少女は、両手を腰に当てて近づいてくる。
鵺はいつでも銃を取れるように身構えた。
「もう何もしないわ。この罠にはまらなかったひとは初めてよ」
少女は玄関の前で立ち止まるとしゃがみ込み、そこに落ちていた紙切れを拾い上げて鵺に広げて見せる。そこには呪いによって鵺の左腕に現れた模様とよく似た、円形の紋様が描かれていた。
「せっかくあなたも可愛い動物さんにしてあげようと思ったのに」
紙を折り畳んで机の上に置くと、まるで隙だらけの動きで鵺の前まで歩み寄る。
鵺は油断することなく、目を細めて少女を見た。
「まぁいいわ。あなた、人間じゃないみたいだし」
鵺の前で立ち止まった少女は、鵺の目を見ることなく言い切った。
やっと外の明かりの届くところまで来た少女は、波打った明るい茶色の髪を一つに纏め、濃い青色のワンピースを着ていた。その上にはワンピースよりも裾の長いぶかぶかの白衣を、袖を折り曲げて羽織っている。
「どうしてわかる」
鵺にとって出会い頭に、しかも目も見られていないのに見破られたのは初めてだった。
眉間に皺を寄せると、警戒を深めて問い詰めるように言葉を返した。
「あのね、私は魔具作りよ。魔力を持つものと持たないものくらい、わかるわ」
失礼しちゃうと呆れるように呟いた少女は、鵺に人差し指を向けて頬を膨らませた。
多くの魔術師は素材に宿る魔力を感じることはできず、魔具に加工されて初めてその力を感じることができるようになる。しかし、ごく稀に特別な才能を持ち、素材の持つ魔力を感じ利用する者がいた。
物に宿る魔力から性質を分析し、実用出来るように加工する彼らは、その力を以て魔具を制作したのだった。
つまりその力を持つ者だけが、マリーのような魔具の制作者となれた。
グエルも強い魔術師ではあったが、鵺の持つ魔力には気付かなかった。
限られた一握りの者だけが持つその才能がなければ、どんなに素晴らしい素材にも気付くことができないのだ。
鵺が己の血から直接魔術を使えるのも、この才能を生まれながらに持ち合わせているためだったのだ。
しかし、鵺は別の意味で驚いていた。
「俺から魔力を感じるのか?」
少女は髪色より少し濃い色の瞳を丸めて、今度はきょとんとした顔になるとすぐに笑い出した。
「あなた、何言ってるの?それだけの魔力を持っていて自分でわからないの?」
その反応に少女の言葉が嘘ではないと確信した。だが、自分はグエルに魔力を封印されたのではなかったのか。
現に溢れるほど感じていた自らの魔力は、まるで枯渇してしまったとしか思えないくらいに綺麗に消えた。
これはどういうことなのか。
鵺はそれ以上考えていても答えは出ないと判断し、相手に攻撃の意思がないことを確認して、とりあえず話してみることにした。
構えを解いて、コートの左袖を大きく捲り上げて腕を見せる。
「この呪いを解きたい」
少女は向けられた腕に顔を近付けて観察すると、目を見開いて鵺を見た。
「これは、私が作った魔具だわ……」
「そうだ。グエルという男を知っているか?」
「グエル!」
少女は大声を上げると、顔を真っ赤にして力いっっぱい地団太を踏んだ。
「あの男!たまにふらっと来ては私の魔具を奪っていく変態コレクター!なまじ力があるものだから霧も払われちゃうし。それにいつも動物たちを人質にして……」
独り言にしては大きすぎる声で愚痴って、仕舞いには泣き出す少女を見下ろしているうちに、鵺は宿屋の女が言っていた話を思い出して、魔女の唯一の馴染みの男がグエルだったのだとわかった。
あまり良い関係では無かったようだが、やはりこの少女がマリーで間違いない。
「俺は魔力を封じられていると思っていた。違うのか?」
床に突っ伏してうなだれていたマリーに声を掛ければ、彼女はゆっくりと身体を起こしてそこへ座り、鵺を見上げて言った。
「違うわ」
きっぱりと断言して浮かべていた涙を拭って立ち上がり、また鵺の前に立った。
その表情は妙に大人びていて、紡がれる言葉はまるで子どもに言い聞かせる教師のようだ。
「いい?魔力はエネルギーよ。それを利用したり溜めたりはできても、ぱっと消したり無効にすることはできないわ」
鵺は眉間の皺を深くして耳を傾ける。
「上から別の力をかぶせて隠したりはできるけど、まるごと封じるのはまず無理ね。わかるかしら?」
何となく意味はわかったが、それではどうして魔術が使えなくなったのか。別の力を感じることもなくただ喪失感だけがある。
第一、これが封印の魔術であることは確からしい。それならば自分は一体何を封じられたのだろうか。
マリーは額を指で押さえて考え込むと、あっと言って手を叩いた。
「あなた、もしかして魔術師なんじゃない?」
「……ああ」
「じゃあ話は簡単だわ。魔術師としての才を封じられているのよ」
そういうことか。
鵺はやっと己の身に起きていることを理解した。
「才能は性格とか性質と同じでエネルギーを持たないから、きっと封じることができたんだわ」
マリーは一人で解釈を進め、手近な紙を引っ張って考察を書き始めた。魔具の制作者というよりも学者のようだ。
紙を引き抜いたために、本が崩れて周りが大変なことになっているにもかかわらず、それに気付く様子はない。
鵺は家の中へ入り、その紙に記されていく文字を目で追った。図や公式を随所に盛り込んだ論文にも見えるそれは、物凄いスピードで増えていく。
あの魔具は、元々は動物の感情を封じる為に作られたものだったのだが、それに目を付けたグエルは、魔具をマリーから手に入れると魔術師の才を封じるために利用していたのだった。
名のあるコレクターだったグエルは、希少な魔具を求めてやってくるたくさんの魔術師に常に狙われていた。しかし、あの魔具があれば対した魔術師はひとたまりもないだろう。
使い方によって強力な武器となったのだ。
「なるほどね。あの男がどうしてあの魔具をあそこまで欲しがったのか、やっとわかったわ」
マリーは不機嫌そうにため息を吐くと、鵺に視線を向けた。
「で、あなたはその呪いを解きたいのよね?」
「ああ」
鵺は短く応えた。
それを見てマリーは唇の端を持ち上げる。
「条件があるわ」
「何だ」
予想していた言葉に、鵺は要件を訊く。
「あなたの、」
マリーはその瞳に不敵な光を宿して、微笑んだ。
「鵺の血をちょうだい」




