必要のない物
大変長らくお待たせしました
その為、今回に限りましては
普段の配信日である土曜日ではない事も
重ねてお詫び申し上げます
辺りが僅かに白み出して
無数に折り重なる枝
または幹達に阻まれ
直接、陽は見えなくとも
一先ずは、この季節特有の
寒く、長い夜の終わりを知る
藍人が
眠りから覚めて
毛皮の隙間から眺めた外界は
これまた
この季節特有と言える
辺り一面の
真っ白な濃い霧が立ち込め
その光景は
どこか神秘的で幻想的ながら
視界を限定的な物とし
異様な不気味さを呈している
今まで見た事のない程に
濃い霧
目の前で自分と同じく
“黒い塊”となっているはずの碧の姿さえ
存在が淡い物となっている
毛皮で全身をくるむ
毛皮の外側には
朝霜に濡れた毛先が
時に煌めく
それ程の冷寒
辺りを満遍なく濡らす朝霜にも関わらず
毛皮内部には、
外からの水気の浸透は一切なく
ほんの少しだけ湿っている箇所が
あるとすれば
先程まで口が当たっていた箇所
つまりは、これの原因は
自らの呼吸であろう
冷気の遮断
撥水性能
【大きな焚き火を用いない】
と、するなら
これ以上の代物は
多分ない
そう、とは言え
寒さ対策として
決して完全だったはずはなく
夜の内で気温が
最も下がると言われる
夜明け前
藍人は今現在を別として
二度程、目を覚ましている
その度に、
背中を丸め、身体を固く縮こまらせ
或いは、毛皮をしっかりと
身体に密着させる事で
どうにか
その時間を凌いだ
そんな状態の藍人に対して
いつの間に起きたのか
目の前の黒い塊
もとい、碧から
「まぁ…、
その内に慣れる」
と
こんな状態で睡眠を取る事が
あたかも日常であるという
頭では半ば分かってはいたが
改めて、知りたくもなかった
事実が告げられ
内心で、密かに
自らの決断を少しだけ、
いや、大いに後悔こそしたが
そんな事は無意味であると
即座に切り捨て
藍人は気取られないよう
小さな溜め息と共に
自らの中に湧いた
“後悔の念”と
言葉ない別れを告げた
それから少し経って
ほんの僅かではあるものの
気温が上がり
霧も十分とは言えずとも薄くなり
辛うじて視界が確保できる時間を待って
碧は漸く
藍人に対して
次の指示を出す
「ここから一日かけて
今日の日没までに
弐彩側の前線拠点に目指す」
そして
「無論、昨晩の事を含めて
改めて言う事でもないだろうがー」
と、付け加えた事柄は
「俺達は誰に捕捉されてもいけない
敵は勿論のこと、その他の者にも
痕跡一つ残してはならない」
これは、
碧と行動を共にし出して
まだ丸一日すら経っていない藍人ですら
薄々理解していた
獣道ですらないような道
暖を取るには、到底心許ない焚き火
全身を覆う黒い毛皮
全てが、
【身を隠す事】に帰結する
碧は
現時点、これ以上の指示をせず
藍人の行動を窺っている
藍人の
何かしらの行動を待っているよう
少し考えてみる
【身を隠す】
これが何よりの最優先
闇夜であれば
黒い毛皮を纏っていれば
ある程度問題ない
闇夜、黒
同系色
そこまで思い至って
藍人は身に纏った毛皮の内側を確認し
深く納得する
それから
藍人は毛皮を翻して
改めて身に纏う
すると、
内側の茶がかった淡白地が外側になり
今の時間帯で、
完全ではないにしても
可能な限り景色に溶け込める事が出来た
碧は
「よし、
よく気付いたな」
と、藍人の行動を確認して
碧も同じように毛皮を翻して
身に纏った
夜明けから、
それなりに時間が経ち
多少薄くはなったとはいえ
辺りは
未だ濃い朝霧に包まれている
それに紛れる事が出来る様に
毛皮の内側は
白い、恐らくは別の獣の物だった
これで
完全ではないにせよ
少なくとも
遠目に見れば
発覚は容易ではないだろう
ある程度の時間は稼げる
「この時間の内に、
森林、その先の山脈を抜ける
その更に先、小高い丘が
とりあえずの目的地だ」
酷く曖昧な目的地の指示に
藍人は思わず「そこに何が?」と
問い返したが
碧は「着けば解る」
とだけ答えた
それから
「それより…」と
碧が次に放った言葉は
この時の藍人を震え上がらせるのに
十分なものだった
「今日は
全力で移動する」
そこからは
もう、
正に、文字通り
死に物狂いだった
人の手が入っていない獣道
無造作に茂るあらゆる雑草達
それに隠れた木の根の凹凸は
たとえ
気を抜こうものなら
一瞬で碧の背中を見失う
山道を滑るように
或いは、まるで地から
数寸ぼど宙を浮いているように
碧の移動速度は
これまで藍人が知った者達を
遥かに凌駕し
常人のそれではない
「俺の真似をすればいいから」
まるで、
呼吸する事を教える
そんな
あたかも当たり前で、
簡単な事だとでも言う様に
碧は端と言う
確かに、
碧の言葉を
文字通り、言葉通りに捉えるなら
それはその通りで
だが、
実際は、
と言えば
それは
至難の業である
枝、根、幹、
足場、重心、視界、
その他、膨大な情報を
瞬時に判断し
適した行動を取り
それを繰り返す
無論、
文字上では【判断】とは
言ったものの
これは、そんな
生易しいものではなく
どちらかと言えば、
ある種の
【勘】
もっと言えば
【感覚】に近いものだ
見るより先、
つまり、
思考よりも遥かに先に
身体が動く
そんな感覚
そして、
そんな状態が続けば
その先に到達する
【領域】というものがある
音を置き去りにした
無音の中
思考さえも追い付かない
空っぽで、
視界さえ
真っ白な中
呼吸する事
それさえも、忘れ
碧の背中を追う
その、ただ
一つの目標の為だけに
手足が
身体が
勝手に動いてる
そんな感覚
刹那
離される一方だった
碧の背中が
本当に、
ほんの少しだけ、だが
近付いた気がした
【縮地】
と、いう走法を聞いた事があるだろうか
通常の【それ】は
武術、その技法だ
特異な走法で
対峙した相手との間合いを
一瞬にして詰める
これは、
その応用だ
もちろん、
平地でする【それ】と
今はだ山岳、森林でしている【これ】は
【滑る】という一点を除き
似て非なる物だ
一朝一夕で
簡単に出来る事でないのは
言うまでもない
自分で言うのは
多少、憚られるが
習得には膨大な経験と
鍛練の賜物
これに依って、
助かった事は一度、二度ではない
隊の
何よりの是は
情報を持ち帰る事
つまり、
極力の生存だ
隊の戦力均一化の為
数度、有望な隊員の数人に
この技術の概要を教義したが
そのほぼ全てが
直感的、感覚的な事だから
勿論、
上手くいくはずもなかった
所詮は猿真似
劣化版より程遠い
実戦ともなれば
むしろ、生存率を下げる結果となりかねない
だから、
これは実演、
のようなもの
【実力的に
上の者は確実にいる】
それさえ理解させられたなら
それだけでも上々
むしろ【おつり】が出る
というものだ
さて、
一度【全力】とは口にしたものの
実際、今の速度は八割ほど
これでも今まで追い付いてこれた者は
今の隊にも一人もいない
振り返れば距離は離れ
酷ければ、
最早、俺を見失っても不思議でない
まぁ、その場合でも
知り尽くした、
この森でなら
合流するのは
いとも容易い事だ
その場合、
たっぷりな嫌味を浴びせてやろう
いや、勿論
それも大切な手順だ
圧倒的な実力差を見せつけ
上下関係を明確にさせる
焚き付けて
目指す指標を示す
それこそが
成長の近道だ
しかしー
俺が視線だけ
背後を素早く確認する
その瞬間
俺は、
自らの眼を疑った
そこには
まだ、拙く
荒削りながら
十分に視界に捉えられる距離に
藍人の姿があった
確かに
移動を始めた時に比べれば
確かに距離は離れている
だが、それ以上
距離が離れない
そして、
少しづつ
距離が縮まっている
全力を出したとて
振り切れない
直感的に
そう感じた
背筋に
冷たい物が流れる感覚
こんな体験は初めてだった
俺の隊
選りすぐりの隊員ですら
誰一人として
これは、成し得なかった
『藍人、奴を
決して侮るなよ?』
『まだ若く、経験が浅い
だが、伸び代は十分にあるはずだ』
これは、
藍人を俺に託した
領主、それとクロの言葉だ
二人の聞いた瞬間
俺は正直「大袈裟だ」「過大評価だ」
その言葉を飲み込むのに必死だった
だが、今の状況を
真摯に受け止めるなら
二人の言葉が
紛れもない真実だと
素直に認めざるを得ない
次の瞬間、
視界が開ける
いつの間にか
最後の山脈をも越えていた
既に見慣れた
吹き荒む冷たい風が
熱の残る身体を冷やす
汗がひいていくのを感じる
予定の時刻を
大幅に短縮し
目的地は目前だった
ほんの数秒遅れて
藍人が背後に立つ
消耗しているのか
息も絶え絶え
洗い息づかいが聞こえる
無理もない
それを十分に分かっていながら
俺は、敢えて
嫌味を口にする
「これ位で根をあげていたら
先が思いやられる」
無論だが、
本意ではない
言葉だけを捉えるなら
叱責だが
それ自体が目的ではない、と
理解してほしい
【原石は削ぎ、磨く事でこそ
初めて宝玉となる】のだ
「す……み、ま…せん…」
呼吸すら整えられていない
言葉にすら
程遠い謝罪を
藍人は口にする
藍人はまだ自分の実力には
気付いてはいない
それが明らかに見てとれて
俺は今更ながら
複雑な心境に至る
確かに、
藍人の存在は
今回領主から命じられた
任の核となり
成功率は格段に増す
だが、しかし同時に
どうしようもなく
【皮肉】を禁じ得ない
藍人の経歴は
大方、領主やクロから
伝え聞いた
実の親に捨てられ
更に、育ての親さえも亡くした
無論、これだけなら
今の時代
そこまで珍しくもない
藍人が
その後【生きる為】
あらゆる術を手にした事も
必要に迫られての事だ
だが、
その他、人と戦う術
また、こんな地に送られた事は
控えめに言っても
【不幸】と言わざるを得ない
もう少しだけ
産まれるのが遅ければ
せめて、仮初めであっても
平和な世に産まれたなら
これから嫌という程
直面するだろう
【人の死】
それも、
殺め殺められると言った
凄惨で、最も無価値な死を
見る事もなかっただろうにー