失わない為に
美祭をぐるりと囲み
聳え立つ
美祭と外界を隔てる大壁
その目前には
見渡す限りの草原が広がる
その草原は多少の起伏はあるものの
凡そ、平坦ではある
無論、防衛的観点から
背の高い草だけは丹念に刈り
その為、美祭の大壁の上に登り、
辺りを望めば
即ち、
身を隠せる場所はないに等しく
草原の何処であっても
大壁の上より弓矢を用いれば
無傷で壁に近づく事すら
極めて難しい
それこそが美祭の大壁を
難攻不落足らしめる
だが、その草原を抜ければ
うって変わって、
ほぼ手付かずの原生林が広がる
“原生林”
そう言えば多少聞こえはいいが
その実、昼間でさえ薄暗い
鬱蒼とした雑木林である
藍人達がこの森林に
足を踏み入れた時には
既に陽は落ち、すぐ前を歩く碧の表情さえ
伺い知る事も難しい
森に入る前から
夕闇で視界を
十分に限られていたというのに
一度、森に入れば
より一層の闇に包まれ
注意深く進まねば足元さえ危うい
腕以上の太さも優ある樹の根
普段から陽の当たらず、所々で、
不意にぬかるんだ地面が点在している上に
落葉が滑りやすい場所を巧妙に隠す
これは明らかに正規の人道を外れ
最早、獣道ですらない
この様な道なき道は、
幼少時代から数年を森で過ごし
山歩きを日常としていた藍人ですら
まともに歩く事さえ極めて難しい状況
それだと言うのに
碧は灯りの一つもなく
なのに、歩調は僅かな緩みもなく
滑るように進んでゆく
彼のすぐ後ろに付いて
決して遅れを取らない様、
まだ何も出来ないなりに
せめて、と
必死に歩いていたつもりだったが
それでも少しずつ
しかし着実に遠ざかっていく
碧の背中に
「あ…、あの!」
堪らす声を上げた藍人に対して
碧は「あ?」と怪訝そうな
もとい、不機嫌な声で応える
碧は視線だけを振り返り
先程より少し離れた藍人に対して
「速度を落とすから
もう少しだけ堪えろ」
と、指示し再び歩き出した
碧の藍人に向けられる感情
態度は極めて厳しいものではある
だが、
現時点に於いても、藍人が
明らかに足手纏いになっている事は
誰の眼にも明らかであり
その事は、藍人自身が
痛い程に実感していた
碧は“速度を落とす”とは言ったものの
藍人が食らい付く様に必死で追い
そうする事で、辛うじて
それ以上に距離が遠のかない
と、いったもの
後から思い出してみれば
本当に気遣ってくれているのか
少し疑いたくはなるが
この時の藍人が
そういった思いを巡らせる余裕は
まるでなかった
そうこうしている間にも
瞬く間に夜は深まり
天を木々の葉に覆われた森中では
宵闇が辺りを支配し
この時間で多少なりと
目が暗闇に慣れたとは言え
最早、足元はおろか
樹木とそうでない空間の陰影
その僅かな濃淡さえ、
余程の注意が必要な程に
本格的になる夜の闇に
視界は閉ざされてきていた
そんな時、
不意に現れる少し開けた地
一見、自然的に開けた地にも見えるが
よく見れば、数本の樹は根元を残して
明らかに人の手で伐採されている
ここにきて、漸く
先を進む碧の足も止まる
藍人も数拍の後
それに倣って足を止めた
碧は、藍人の方へと
視線だけ振り向くと
短く「今日はここまでだ」と
静かな口調で言い放つ
「…は…い……」
藍人は絞り出すように応える
ここで、せめて
言い訳をさせてもらいたいが
藍人は既に
肩で息をする、を優に越え
酸欠にすら近しい状態だった
初めての道
それも到底、道とは呼べないような
極めて険しい山道
おまけに、明らかな
過速度の行軍
大多数の者なら、
誰しもが
こうなるだろう
しかし、
今の藍人
その霞む視界の中
目の前に悠然と立つ碧を見れば
今しがた述べた
どれもこれもが
単なる言い訳に
成り下がる
何故なら、
碧は断じて息も上がっておらず
まして、汗の一つすら
かいてはいない様に見える
それに比べれば
藍人の状態などは
醜態とすら呼べるほどの代物だ
仮に
「この位の事で
情けない」
と、詰られたとしても
今の藍人では、何一つとして
反論の余地もないだろう
だからこそ
「少し、疲れたか?」
「ーっ!?」
碧から発された
意外な問いに
咄嗟に返答など出来るはずもない
だが、
問いには返答を
人としての
常識である
「……はい」
ほんの一瞬だけ
「まだ、大丈夫です」
と、強がる選択肢も
頭の片隅を過ったが
それこそ、【そんな事】は
すぐにでも見抜かれてしまう、と
ここは素直に返答する事とした
直感的に
この碧という人物に対して
凡そ、薄っぺらな装い
つまりは
生半可な欺瞞など、通用しない
そう感じてしまう
藍人の返答に対して
碧はこう続けた
「まずは、今
叱責を恐れずに
素直に返答した事は褒めてやる」
「は?」
実に間抜けな声が出てしまった
直後、己の失態に
藍人は青ざめ「すみません」と
碧に対して深く頭を下げる
だが、
碧は、そんな言葉は
耳にも入っていない様子で
続ける
「確かに、俺等の任の関係上
多少の無理は我慢するべきだが
限界を超えた無理を隠して
倒れでもしたら意味がない
加えて、疲労や傷、病など
身体の変調を隠して事に臨めば
成功率が格段に下がる上に
万が一でも作戦全体に
深刻な影響が出る事となる可能性すらある」
碧の言葉は
真理に他ならない
【限界を超えた無理をする】
【怪我や病気、疲労等の変調を隠す】
新兵であれば、
そして、志が高い者であればある程
誰しも陥る可能性のある
そんな
【大きな落とし穴】
「無知も無謀も、無力さえ
【生きていればこそ】変えられる
そして、越えられる」
碧は、少し遠い目で
何かの光景を眺め、そう口にする
きっと、
全て【見てきた】のだろう
その上で
幾つも
失ってきたに違いない
ここで、藍人は
漸く思い直す事が出来たのだ
初対面時、
冷酷無比と思われた言動や凶行も
投げ掛けられた幾つもの言葉達も
全て、
【無為な死】を避ける
誰一人として、失いたくない
その思いを相手に伝え
または、自分に強く言い聞かせる
ある種
【覚悟】の表明に他ならない
それを如実に示す様に
碧は、すぐそばにあった樹の根に腰掛け
懐から煙管、その他喫煙道具を取り出し
火打石を手に取りながら
再び
こんな言葉で締め括る
「安心しろ、何があっても
お前を死なせない
寧ろ、死にたい
と思うかもしれないが
絶対に死なせたりしない」