戦乱を呼ぶ者
美祭と外界を隔てるは
背後に反り立つ高い崖以外を
ぐるりと美祭の全周を囲む様に
高さ一丈は優にある
大壁が聳え立つ
美祭に来たばかりの
療養中に読んだ文献で
幾度もの戦の歴史に於いて
数多の改良が加えられてきた大壁
今では難攻不落との呼び声も高いが
その実
最後の砦でもある
土地的な制約から
弐の門、即ち二の丸、
或いは本丸と言った
二重三重の防衛線はなく
仮にでも
この大壁を突破されれば
残るは狭い迎撃用地のみ
そこでも防衛に失敗した場合は
無防備な住民宅が広がっている
つまりは
市街戦となるのだ
たとえ命からがら避難出来たとしても
家屋、更に家財一式を失えば
再興に際して困難となる事は
言うまでもない
防壁だけでは
防衛戦略としては
言わずもなが不十分と言える
その上で
如何に防壁が磐石とはいえ
弱点となり得るのが
大扉である
様々な研鑽を重ね、
守りやすさと頑丈さを誇る防壁と違い
扉は用途からして
“開閉する”機構である
つまり、扉に頑丈さを求めるには
限界があるのだ
防衛設備の補完の為に数本の
水の流れていない空の掘りが、
大扉の内外にあるとは言え
所詮は気休め程度の効果しか望めないだろう
全ての状況に対応する事は
到底、無理がある
「壱識と弐彩に比べれば
土地も狭く、人口も少ない
つまりは、美祭は軍事的、
国力的に見ても劣勢だ」
「ここまでは分かるな?」
と、言葉上、質問符を呈しているが
碧は振り返る事などなく
そんな言葉を投げ掛けてくる
無論、それは当然の事実、
常識の範疇という事だろう
その上で
藍人の返答を待つ事なく
碧は続ける
「これまで、危ういながら
絶妙な均衡が崩れなかったのは
壱識、弐彩が敵対関係だった為
加えて、美祭の守備が頑強だと
思われていた為が、まずは一点
加えて、壱識、弐彩は互いに
背中を見せるべき相手ではない、と
仮に先走れば、寝首を刈られかねない、と
互いに睨みを利かせる
所謂三つ巴の状況だったからこそ
壱識も弐彩も
美祭には迂闊に手を出せなかった」
碧は語る
常であれば
義憤、或いは無念の情の一つでも
滲んでいいものだが
碧の口調は
極めて平坦な物だ
淡々と、
何の感慨もなく
無感情に、
それこそ、
機械的に
しかし、はっきり言えば
ここまでは黒石や敷辺から聞いた話
その延長線上にある事柄だ
だが、
次に発された言葉達はー
「通常であれば崩れない均衡が
崩れた原因は、一人の人物の登場だ」
「な!?」
【「それはどういう意味ですか!?」】
その問いを
藍人は無理矢理に飲み込もうとして
しかし、それが不完全になってしまい
思わず半端な
それこそ
間抜けな声が出てしまった
何故、
藍人が口を噤んだか
いつの間にか
立ち止まり振り返った碧と
目が合ったからだ
不意に向けられていた
ひどく冷たい眼差しに貫かれ
それ以上、
何も問えなくなってしまった
【均衡を崩した人物】
その者の
【たった一人の人物】の登場で
それまで起こりえなかった戦いが
起こる
即ち、
その者の存在が、行動が
本来、
まだ寿命の残っているはずの
つまりは、
まだ死ぬべきでなかった者達を殺し
骸の山を築くのだ
そんな事が
真に現実なら
まさしく
悪夢である
想像しただけでも
背筋に冷たいものが伝い
更には吐き気さえも催す
「木山…」
碧がポツリと
何かの単語らしきを口にする
藍人が問を口にするより先に
碧は続ける
「木山 十和子
つい数ヶ月前に
弐彩の領主に就任した者の名だ」
至極、当たり前の事だが
その者の名すら
初めて聞く名だった
「木山…」
やっとの思いで
藍人は声を絞り出すも
今後、その者たった一人の作り出す
凄惨な【深紅の】光景が
否応なしにチラつき
それ以上、
言葉が出なくなってしまった
「まだ歳若い弐彩の新領主については
一切、何の情報もない
弐彩の産まれではないのか
出自も不明だ
つまり、先代の領主の娘でもなければ
名の通った有力者の子でもない
故に産まれながらの
根源的な権力はないはずだ」
「だがー」
瞬間、
この時ばかりは
碧が何を言わんとしているか
ほんの少しだけ、だが
読み解く事が出来た
そう、
当然の疑問
これは【不可解な事】だ
到底【理解しがたい出来事】
だと言ってもいい
それは、結論から言えば
【人の欲】に関する事柄である
もっと単純に
分かりやすく表現するなら
【人は、一度手に入れた物を
易々と他人に手渡したりしない】
と言う事だ
少し、捕捉しよう
この国、この時代
いや、有史以降と言っても過言ではないが
統べる者に最も必要とされる物は
何だろうか?
才、徳、知恵、
人を惹き付ける絶対的な魅力
勿論、数え出せば
きりがない
だが、実はそれ以上に
重要視されてきた物がある
極論を言えば
前述した才や徳などが
仮に凡の粋であっても
ある条件さえ満たせば
十中八九の可能性で
立場のある人物や
下手をすれば領主という絶対権力者にすら
なれてしまう
その条件と言うのがは
所謂【運】
つまり
【産まれ】
である
これが事実か否か
もしも疑うのであれば
歴史を参考にすれば
一目瞭然であろう
あくまでも
十中八九、という
決して確実を断じるわけではないが
然して、
限りなく可能性は高まると言うものだ
そして、これらの事象は
また別の弊害も引き起こる
前述に触れた様に
【人の欲】には際限がない
それは一線を退いた
所謂【先代】もまた同様だ
領主の子は
十中八九の可能性で領主になる
【領主】とは
読んで字の如く
自らの領地の主
その肩書きは
自らの領地に限定すれば
正しく絶大である
【神】と同等だと言って
過言ではない
領地に住む誰もが
敬い、畏れる
象徴的な存在な観点から
内外、主に外向けであるが
力を誇示する必要性があり
大抵の場合は
絢爛な建物に住み
多くの従者を従え
豪勢な生活をおくる
凡なる生活を送る
庶民達、主に農民達からすれば
自分達の生活との差異に
羨みの対象であり
時に、妬みの対象となり得る
しかしながら
領主、即ち【最高権力者】とは
本来、決して
そんな気楽な肩書きではない
何故なら
その地に於いて
【全ての重要決定を担う】からだ
つまりは、自らの判断こそが
延いては領地全体の判断となる
それによって
時には他者の【生死】すらも左右する
場合によっては
領民の全滅
或いは、反乱をも
引き起こしかねない
何気なく発する言ですら、
責は、重大である
その重圧は
本来であれば
常人が到底耐えられる物ではない
だからこそ、
一度でもその責に曝された者
その一部、特に狡猾な者は
一刻も早く
次代の者
主に子孫へと席を譲る
そうする事で
矢面に立つ事を避け
かつ先代領主として
領主の影という、
安全圏から
領主を意のままに操り
一定の権力を維持する事が
可能となる
それこそが
際限がない【人の欲】
そのものだ
誤解を恐れずに断言するなら
そういった代替りをする領主
加えて、それを容認する側近達ですら
賢明だった事例は少ない
そういった者達の大半は
領民の生活など顧みない
愚か者、或いはそれ以上の狂人だ
しかし、
だからこそ、だが
奴らは極めて慎重になる
常に暗殺を警戒し
裏切りの兆候や、反乱の芽には
如何に些細な事柄ですら
細心の注意を払うはずだ
「先代の弐彩領主の人物像は
言葉を飾らずに表すれば
【権力そのもの】だ
先々代の領主には正妻の他に
五人の妾が存在し
その妾から産まれた
先々代領主からすれば第三子であり次男
それが結果として先代の弐彩領主となった」
碧が語る口調は
相変わらずとして淡々とした物
更に碧は言葉を続ける
「先代の弐彩領主
奴は実に狡猾だった
先々代領主が存命の内は
目立つ事を避け、無能を装う事で
周囲を欺き続けた
だが、先々代の弐彩領主が
不審死した途端、
隠していた爪を存分に振るうが如く
突然、軍部を掌握、
そして、先々代領主の妻、
兄や弟、幼い妹までもを
または先々代領主の側近達
自分に反した有力者に至るまで
次々と、加えて徹底的に粛清し、
その後に、圧倒的な軍部の力を後ろ楯にして
悠々、領主の座へ収まった」
藍人は、
碧の言わんとしている事に
思いを馳せる
想像してみる
そんな人物であれば
尚の事、継承権を所縁のない他者へ
易々と譲るとは思えない
まして殺害など
以ての他だ
仮に、万が一にも仮にだが
殺害が可能だったとして
軍部を掌握している以上
木山なる人物が有力者の娘でも
ない以上
その先はない
掌握の方法が金銭であれば尚の事だ
忽ち後継者闘争が没発し
重ねるが、後ろ楯のない木山に
勝ち残る術はない
であれば、
先代の領主が自ら一線を退いたか
だが、
これも考えにくい
そこまで狡猾な者であれば
縁も所縁もない者に
領主の座を譲る事で起こり得る事象
例えば、側近達の反発などの
懸念事項を見落とすはずがない
ならば
どうやってー
「血の海、だったそうだ」
碧が不意に口を開く
思わず「え?」と
藍人が聞き返す
「異変に気付いた側近達が
領主の部屋に押し入ると
血の海の中心
横たわる先代領主の傍らで
木山十和子はゲタゲタと嗤っていたそうだ」