ある日の出来事 黒 番外編⑪
死を厭う気持ち
もっと直接的には
生きたいと思う気持ち
それは、
誰しもが根元的に持つ
正しく本能と呼べる物だ
それとは
逆に
自らの意思で
死を選ぶ行為
或いは
死に直結しかねない行動を取る
という行為
それらは
通常、
愚者の行動とされる
勿論、それには
例は確かに少ないが
例外も存在する
誰かの為
大切な者、愛する者を救う為
自ら進んで犠牲となる行為
人はそれを
英雄的行為と呼ぶ
与えられた部屋を抜け
廊下を横切り
面した庭を抜けて
広い敷辺宅をぐるりと囲う
そこまで高くはない塀を
やっとの思いで越えた
そして、
今しがた越えたその塀を
背凭れにして
冷たい地面に座り込む
座り込む、とは言ったものの
実際は、とてもじゃないが立っていられずに
力尽きて、膝から崩れる様に
その場に、へたり込んだ次第だ
何とか意識を保てている状態
一瞬でも気を抜けば
忽ち気を失ってしまうだろう
寧ろ、塀を越えた瞬間に
意識を失わなかっただけ
幸いとすらも言える状況だった
遅い来る酷い悪寒に
身体の震えが止まらない
死を望んだ訳ではないが
結果として、そうなってしまう
どちらかと言えば
受け入れた、と言うべきか
本来であれば、
この場所から
少しでも離れるべきだが
最早、一歩も動けない
呼吸一つごとに
鼓動一つごとに
元来
目には見えないはずの
耳には聞こえないはずの
【死】の姿が
【死】の足音が
着実に近づいてくる
この時点で
心残りはない
と言えば
嘘である
未だ行方不明の
母と幼い妹の件は
今尚になっても、
決して諦めてはいない
しかし、
それと同等か
それ以上に
この数ヶ月は
この上なく、
充実していたとも言える
底抜けに優しい住民達
聡明で頼もしい領主
そして、
俺が仕える
未だ幼い
領主の一人娘は
全てを失い
暗闇に沈んだ俺の心を
優しく包み込んだ
この地に来た当初
あれだけ悩まされた
悪夢は
今では
殆ど観なくなっていた
頬を
何かが伝う
こんな時になっても
思い浮かぶのは
かつて生まれ育った地や
そこに生きた十年余りの時間ではなく
また、今は亡き肉親や
親しかった者達の顔ですらもなく
ここに来てからの
温かな思い出ばかりだ
これが酷い事なのは
許されないのは
自分でも理解をしている
失くなった父、祖母や
行方の分からない母、妹
それら肉親よりも
明らかに
共に過ごした時間の短い
ここで過ごした思い出が
最後に浮かぶなど
本来、あってはいけないのだ
瞬き一つ毎に
視界は霞んでゆく
瞼は重く、
瞬きの為とはいえ
一度閉じてしまえば
再び開く事は
酷く億劫に感じる
このまま
死を受け入れる
遺書の類いは
残していない
加えて、短刀などを用いた訳でもない
本来であれば
自死と断定するのは
難しい事だろうが
状況が状況だ
誰もが、いや
あの聡明な領主や
幼き主人ならば
きっと、そう
解釈してくれるだろう
何より、先程から
考える事さえ儘ならないのだ
俺は、
ゆっくりと瞼を閉じ
意識を手放す
その刹那
少し離れた場所に見えた
小さな人影のような物は
きっと、
幻であると
信じて疑う事もなかった
それから、
どれ位経ったのだろうか
意識を取り戻した俺は
ゆっくりと瞼を開ける
眩い筈がない暗闇に
視界が霞む
数度の瞬きを経て
俺は漸く、
明瞭な視界を得ると
そこには
何もない空間が広がっていて
俺はそこに座り込んでいた
「…は?」
思わず発した
言葉にならない声は
乱反響するように
不規則に木霊したかと思えば
最後は吸い込まれる様に
消えていった
混乱に襲われるのは必然だが
取り乱さなかっただけ
まだマシか
灯りと呼べる物はない
そんな真の暗闇の筈なのに
思いの外、視野は広く
地平線のような場所まで
容易に見渡せる
ここが何処か
自然に湧いた疑問に
自答の様に始めに浮かんだ答えは
やはり、死後の世界だった
何かの文献で
或いは、少ないが
体験者から聞いた中で
多く耳にした死後の世界には
三途の川がなる物がある
と言うものだ
満開の花華が狂い咲く草原
心地のよい風が、それらを揺らし
花弁が舞う
そして、その場を進めば
小川とも大河とも聞く
三途の川なる物に行き当たる
対岸は死者の国
一度渡れば、二度と戻れない
それが最も多く聞いた
死後の世界に纏わる一説
九死に一生を得た者達から
漏れ伝わる話の大半が
それだ
だが、そんな数ある
一説に
『死後の世界には
何もなかった』とある
無論、
俺は死を受け入れた人間
驚きこそあれ、
今更になっては恐怖はない
そう自分に言い聞かせる
敢えて、本音を発露するなら
怖くない訳がない
不安がない訳がない
現時点
この場所は勿論
右や左だけでなく
前後すらも分からない
更に言えば
ここには凡そ
温度というものはない
温かくも
寒くもない
不思議な事に
あれ程苦しめられた悪寒も
微塵も感じられないのだ
否応の過程もなくとも
流石に、理解するというものだ
つまるところ、
俺は
「死んだんだ…」
涙なんて物は
今更になっても、
溢れない
諦めに似た感情に
いつの間にかにも
支配されていく
どうしても
動く気すら起きない
疲れきってしまった時のような
何も感じられなくなってしまった時のような
そんな感じだと思ってくれていい
そもそもとして、
全てが終わってしまったという事実には
変わりないのだ
諸々を一周回って
いっそ清々しい、とすら言える
溜め息と共に
俺は身体を投げ出す
地もまた冷たくも暖かくもない
加えて、皮膚の面した床の感触もまた
薄絹でも一枚隔てるように
何も感じない
こんな事実ですら
ここが現実離れしている事を
知覚させられる
どうするも
こうするもない
きっと、
ここから抜け出す方法など
どのみち存在しない
言うまでもないが
ここが終点である
希望などは
既に捨てた
悲しくはない
悲しく、はない
悲しく、なんか…ない
はず、
だった
ふと頬を伝う物
その一粒に
漸く気付く
そうして
最初の一粒が
溢れてしまえば
後は止めどがなかった
息すらも
苦しくなる
嗚咽が混じり
見苦しく
泣き喚く
後悔?
なんて、
有り得ない
既に
全て捨てたはずだ
それなのに
思ってもみなかった
沸き上がる
この感情は
本当に
有り得ない
俺は
本当は
「死にたくなかったんだ」
涙で歪む視界
何かを求めるように手を伸ばす
何かを掴みたくて
何もないはずの空間に
精一杯に
手を伸ばす
掴める物など
当然としてある筈もなく
虚しく空だけを
掴む
無意味で
無価値な行為
しかし
この行動の結果は
さて、
どういう結末を
掴み取ったか
そして
手繰り寄せたのか
ただ、
確実な事が
一つ
きっと
この時の俺には
過ぎた物
という事だ