ある日の出来事 黒 番外編⑩
誰もが、出口の見えない
暗闇の中を進んでいるように感じる
そんな暗澹たる日々を
過ごしている
灯りや頼りもなく
自身が、どこに向かっているのか
そもそも、進んでいる方向は
本当に正しいのかすら
完全に見失っていた
常人ならば、
そんな日々は
一日すら耐えられる物ではない
最前線に立つ者なら
尚更である
目に見えて
郷の崩壊が進んでいく
当たり前にあったはずの日常は
どこまでも遠く感じる
領主であり
医術の心得のある敷辺
その奮闘も虚しく
遂には
最初に発症した患者が
今日の明け方
息を引き取った
これで、
異変が始まってから
まだ十日も迎えていないにも関わらず
実に五人目の死者となった
誰にも
責はない
看ていた家人にも
責はない
勿論
敷辺の責であるわけもない
なのにー
深く頭を下げる
領主
喚きたてる
遺族
「貴女のせいでー…」
「数日前まで、元気だったー…」
誰の責任でもない
ダレの責任でモナい
ダレノ責ニンデモナイ
ダレノセキニンデモナイ
静まり返り
遺族の怒号だけは
やけに煩く聞こえる
遺族の叱責、
その内容は
支離滅裂だが
故に、心を深く抉る
決して
誰かの責任であるはずがない
あれは、単なる
八つ当たりであり
行き場のない感情の
発露だ
何度でも繰り返そう
これは
誰の責任でも
あるはずがない
然して
この頃になると
既に、敷辺や家人に対して
不満を口にする者は
殆どと言ってもいい程
いなくなっていた
しかし、
察しの通り
そして
残念な事だが
決して、敷辺に対しての
不信感が払拭されたわけではない
単に、皆が
心身共に疲れきり
弱りきってしまっただけ
加えて、誰もが
忍び寄る死の恐怖に
呑まれただけの事だった
誰も、
例えば罹患した者達であれ
諦めたわけではない
だが、恐怖は到底
抗いきれない
自らの身体の中
温かい皮膚の下
動き続ける臓物
そこを巡る血の流れ
そこで起こるは
砂粒大よりも
遥かに小さな異変であり
その異変を明確に知る術
更には、原因といったものの解明は
血液型という
概念すらもなく
勿論、
病原となる菌や特効薬という
考え方すら
この国の、この時代には
あるはずがない
目に見えない場所で
それでも確実に蝕まれ
常に死がちらつく
これが流行り病が
呪いや祟りと称される
所以である
誰もが
希望を失いつつある中
頼みの綱は、
結局の所、やはり、
敷辺しかいない
しかし、
言うまでもないが
【頼る】と【信頼する】は
似て非なる物だ
【縋る】も、
また【信頼】とは
全く違う物である
今回に於いて
問題は
誰もが敷辺に
【縋りついて】
助けを【乞うている】という事
この状況は
何より達が悪い
助けを求める住民
求めに応じて
手を指し伸ばす領主
両者を隔てるものは
立場の違い
有り体に言えば
責任と無責任だ
いくら手を尽くそうとも
助からない者は確かに存在する
手遅れな者とわかっても
領主が一度でも手をつけてしまえば
それは領主の責任となる
そして、
その者が手遅れか否かは
実際に看て、それから
初めてわかるものだ
背負う重責は
図り知れず
日々は、まるで、
【引き分け】か
【負け】しかない賭けのよう
俺は
と言えば
何かしらの経験や知識等なく
更に、こんな年齢では
到底戦力にはならない
ならば、せめて、
邪魔にだけはならぬよう
と言う事を留意すべきだった
だけどー
俺が体調の異変に気付いたのは
それから二日後の事だった
小さな違和感から始まった
体調の変化は
瞬く間に全身に広がる
関節の微痛から始まり
続いて、
酷い倦怠感、
著しい体温の上昇
症状は
他の罹患者が訴えるものと
寸分違わない
ならば、
次にどうなるか
嫌でも理解する
喉を冒され
食事も儘ならなくなり
衰弱し、最終的には
呼吸さえも維持できなくなる
この病は
重篤率こそ高齢な者に多いが
逆に年若い者程に悪化は早い
それを加味した上で
死者や重症者が高齢者に偏っている点は
恐らく、元々の体力の衰えからだろう
年若い者であれば
悪化した所で、持ち合わせた体力から
即座に手遅れになる例は
少ないと思われていた
けれど、俺の場合は
他の者とは明らかに
状況が異なる
自らの体調の異変に気付いた時
これが最悪な事態だと
嫌でも理解した
繰り返すが
この病は、若ければ若い程に
進行が早い
例えば、
俺から領主の愛娘に感染したならー
それは目も当てられないどころか
想像すらしたくない出来事だ
いや、
既に手遅れかもしれないが
しかし、それでも
僅かな可能性に賭けるべきである
つまり、
【まだ】彼女が感染していない可能性に
その上で
俺に残された選択肢は
思い付く限りでは
三つだ
まず一つ目は
【感染した可能性を
領主に対して訴える事】
そうすれば
どうなるか?
他の罹患者と同室に隔離され
治療を受ける事となる
正直、これが一番妥当で
無難な選択肢だろう
だけど、
俺はそれを一番初めに
捨てた
この郷に、
延いては、あの領主や家人達
加えて、その他
人的及び物的にも
そんな余力は全くと言っていい程にない
ならば、
残された選択肢は二つ
どこかに【籠る】か
或いはー
俺は、
誰もが寝静まった深夜を見計らい
与えられていた寝床である
使用人用の部屋を抜け出す
歪む視界に
蹌踉めきそうになる足音を
それでも忍ばせ
既に苦しい息を殺して
与えられた部屋、とは言ったが
そこを俺を含めて
使用人が四人で共有で使う
所謂、大部屋であり
自分専用では決してない
幸い、だが
同居の使用人は
現在、罹患者達の看病に駆り出され
数日接してない事から
同居の使用人達に伝染させる心配も
こうして部屋を抜け出す時
その真意を怪しまれる心配もない
部屋を抜ければ
そこは庭に面した
渡り廊下
普段であれば涼しく、
心地の良い筈の
微風でさえも、
この時の俺には
冷たすぎて
まるで長時間にわたって
吹雪にでも曝された様に感じてしまう
無意識に、
奥歯が鳴る程に
身体は震える
絶えず込み上げる咳を我慢すれば
気道は狭まり
意識さえも遠退かせる
途端に
ぐにゃりと歪む視界
それでも、
倒れる訳にも
況してや、立ち止まる訳にもいかなかった
この場所から
一刻も早く
そして、
一寸でも遠く
離れなければならない
ここを脱出した後であれば
この屋敷の中でさえなければ
たとえ
どこぞで野垂れ死のうとも
一向に構わな“かった”
けれどー