ある日の出来事 黒 番外編⑨
そうして、
一人目の体調不良を
訴えた者が現れてから
僅か三日間で
同じ症状を訴える患者の数は
ゆうに二十人を越え
想定を遥かに越えた感染の広がりには
流石の敷辺領主ですら
為す術もなく
ひたすらに
対症療法に追われた
原因の究明と
根本療法の発見が急務である事は
誰もが認識こそすれ
これは
遅々として進まなかった
「俺も看てくれ…」
「誰か…水を…」
そうやって、
あちこちから苦しげな声が上がるも
家人を総動員して尚、手が足りず
敷辺は
そういった声すらあげられない
重篤な患者数人を診ていて
比較的、中度と軽度の方まで
とてもじゃないが手が回らない
そうしている内に
次第に、患者の中から
不満の声が聞こえ出す
「俺らは見殺しか…?」
そんな、
落胆にも似た
声
「あいつの方が貢献していたからか?」
根拠などまるでない
羨みの
声
一つひとつの声は
微小で、取るに足らない物だが
それが、
十集まれば
どうだろうか?
いや、たとえ
微小な声、
一つであっても
献身的に尽くしたはずの者から
投げ掛けられたならー
常人であっても
とても耐えられる物ではない
敷辺の疲労は
察するに余りある
肉体的にも、
精神的にも
追い詰められてゆく
見るからに窶れ
俺を助けた時の
勇ましい彼女の姿は
凡そ見る影もなく
風が吹くだけで
崩れてしまいそうな程
痛々しい
それに追い討ちを掛ける様に
不満の声は、次第に
そして、明らかに声量を増してゆく
初めは、
患者の中から上がっていた声だが
今では、
患者を看ていた家人達からも
ちらほら、だが
聞こえてくるようになった
そして、
事態は最悪な方向へと
動き出す
きっかけは
一人の患者
その死からだった
その人は、去年
御歳六十を迎えたものの
まだ腰も曲がらず、元気が評判で
誰にでも気さくに接する
所謂、好好爺で知られる人物だった
その為か、
慕う者も多く居た事が
今回、仇となってしまった
今回の流行り病
症状自体は
季節性の風邪と相違無いが
感染力と重症化率は
遥かに高い
その中でも
特に、高齢の者の
重症化率は並みのそれではない
その人は年齢のせいか
例に漏れず重篤した為、
敷辺も特に注視しており
一刻の内に、十回以上も
診ていたようだが
不幸にも、
家族や敷辺の目が離れた隙に
誰に気付かれるも事なく
ひっそりと
息を引き取ってしまったようだった
年齢が何よりの原因である事は
自明である
身体が耐えきれなかったのだ
目を離した家族や家人にも
勿論、敷辺にも
一切の落ち度はない
だが、
この悲報は
瞬く間に広がる
死人が出た事への恐れや、
やり場のない憤り
それらは、一瞬の内に
燃え広がる
疑心暗鬼から
手を尽くしているはずの
敷辺や家人に対して
心ない言葉を掛ける者も
日増しに増えてゆく
それでも彼女は
自分が疲労したからといっても
また、酷い言葉を
投げ掛けられたからといっても
一人ひとりを雑に扱う事は決してせず
献身的に、そして愚直に
目の前の者の治療にあたってゆく
その彼女の様を
俺は、自分の眼で
見ていた
そして、俺の隣で
出会った時とは一つ歳を重ね
それでも、まだ齡四つになったばかりの
領主の愛娘である
彼女もまた
母を
静かに、
見つめていた
幼いながら彼女の本質は
やはり正しく領主の娘らしく
年齢の割に聡明な
彼女の瞳は
この機に及んでも
極めて冷静でー
汎用に毛が生えた程度の
俺などとは、明らかに違う
彼女は
何か、もっと深い場所にある
本質じみた物を捉えていた事を
この時の俺は
まだ
知らなかった
診療の疲労で、
容赦なく投げ掛けられ心無い言葉を
否応なしに聞かされる心労で
日増しに弱ってゆく
母の背中は、待ち合わせた性分の為か
いくらか気丈には見えても
それでも
完全には隠せてはおらず
俺の眼にも
痛々しいく映る
血を分け、
憧れすら抱く娘なら
尚の事だ
俺ですら幾度となく
必死に言葉を飲み下した
どこかで読んだ本の中
海の向こうの言葉で
【とりあーじ】
という言葉が
あるらしい
意味は
【選別】だ
看病の手も、
治療の物質も
現時点でさえ
目に見えて足りていない
ならば、
【普通】に考えるならば
患者を選別すべきである
回復の見込みが高い
比較的若年層に集中して
治療を手厚くし
回復の見込めない
老い先短い者達には
気の毒ではあるが
自然治癒を祈る
そうする事で
一人でも多くの
それも、生産性の高い者達を
多く残す事が出来る
それに何も、
誰かを見捨てるわけではない
回復の見込めない者達にも
最低限度の治療は施す
確かに、
その選別によって
命を落とす者は
必ず出てくるだろうが
そうする利点は
極めて多い
しかし、
たとえそうであっても
彼女は、その選択を
決して選ばない
どれだけ非効率であろうと
誰一人として
おざなりにはしない
全ての患者を
救うべく、心血を注ぐ
【最後の一瞬まで
誰一人として見捨てない】
彼女の背中が
所作の全てが
声なく
叫んでいる
無論、
それが出来るなら
それが最良である
しかしー
疑心暗鬼に陥った
住民達には届く事はなく
むしろ彼らにすれば
それは耳障りのいい
理想論であり
言い換えるなら
綺麗事に過ぎない
だからこそ
皆は口々に語る
『全ては領主の
我欲による蛮行である』
彼女を一度でも目にすれば
明らかなように
それは
決して本質ではなく
また、
誰しもが心の奥底では
彼女に対して
真に不信感を抱いている訳でもない
向けられる真剣な眼差しからー
また、触れられた時に伝わる
手の温度からー
彼女の本心は
確かに伝わっているはずだった
美祭に住む者達
その本質は
元来、情に厚く
慈愛に満ち、勤勉で故に
豊かな人格の持ち主ばかりである
ただ
終わりが何時とも分からない苦しみに
瞳が曇ってしまっているだけ
今回、それが
完全な【仇】となってしまっている
その者の
【本質】
言うなれば
【患者になる前の姿】
を知っていれば、知るほどに
それが如何様に変質してしまおうとも
囚われてしまうのだ