暗闇の中 差した一筋の光は
陽が僅かに傾き、
元々そこまで高くない気温も
ゆっくりと落ち始め
この季特有の
まだ本格的な厳しさこそはないものの
それなりには冷たい風は、
しっとりと、汗で濡れた藍人の
まだ熱の残る身体を
ゆっくりと、
だが、着実に
冷やしてゆく
このままでいたなら
高い確率で、体調を崩すことだろう
けれど、
少し考えれば分かるはずの
そんな事ですらも
悔恨に打ちひしがれた
今の藍人には
些細な事に思えてしまうのか
或いは、
自分でも気付けていないのか
兎も角として、
揚がった息が
いつの間にか整い、汗も引き
尚も、身体は動かない
否、
動く気を失わせられている
正しい選択、それに伴う解答
その代償は
あまりにも残酷だ
正義の名のもと強さを求め、
しかし
直面し、実感したのは
求めた物とは真逆の
寧ろ、知りたくもなかった自分の弱さ
孤独の意味を改めて
思い知るという
皮肉な結果だ
これは、
決して打ち砕けない
そんな錯覚が
思考を支配する
これは、全くももって、
笑い話にもなりはしない事だが
冷たい風が
藍人の冷めきった肌を撫でる
最早、
指先、足先
地に付く膝に至っては
冷たいを既に超えて
まるで、感覚が失なわれているようにすら
感じてしまう
それなのに、
相変わらず、意識だけは明瞭で
思考は余計な考えだけが巡る
“選択を誤ったかもしれない”
そんな不遜な思いが
数度、いや
数十、数百回と
脳裏を過る
“不遜”
えらい物言いだが
それ以外に適当な言葉はないだろう
何度も、本当に何度も
思案したはずだった
想像し、議論に議論を重ね
理解し、納得したはずの
選択
最善とは言えなくとも
最良であったはずの、
葵との選択
それらが
ガラガラと音を立てて崩れる
正しい選択とは、何か
正義とは、何か
自分が美祭にいる意味は
何かー
自分の中にいる
自分と同じ姿形をした
けれど、
全く自分と意識の違う奴が
数百、数千回
数万回と
そんな問いを
投げ掛けてくる
不気味な笑みを浮かべ
嘲笑するかの口調で
問いを、繰り返し
投げ掛けてくる
藍人は
それに答える気力をも
失っていた
ただ、その
最初の数回に
「黙れ…」
と、だけ
反論したのみ
あとは
聞き流す、無視という名の
無回答、無頓着を必死な思いで貫いた
奥歯を痛い程に噛みしめ
そうやって、堪える
喉元まで出かかった咆哮を
必死な思いで飲み下す
最早、
自分を保つためにはー
藍人は右腕を
そして、拳を
高く振り上げる
“何をする気だ?”
地に落ちた自分の影の中から
自分と同じ顔の奴が
自分と同じ声で
その絵面だけでも
薄気味悪いというのに
顔を不気味に歪ませ
相変わらずの嘲笑気味に
問いてくる
「いい加減、
煩いんだよ…」
それが、
幻覚、幻聴である事は
考えずとも理解できている
そして、それが
都合よく
消えてくれない事もー
ならば、
これしかないー
「痛み、でならば
消えてくれるか?」
藍人が
高く振り上げた自らの拳を
地から“生えた”その者の顔面目掛けて
渾身の力を込めて
振り下ろした
その瞬間の事だった
「藍人様」
突然、それも背後から
声を掛けられる
その事で、藍人は
漸く我に返る
そして、
その者の声が響いた瞬間
あれ程煩わしかった幻覚も幻覚も
目の前から跡形もなく消え去った
その現象を認識すると
ほぼ同時
慌てて腕に制動をかけるも
既に勢いがつきすぎた為か
或いは、元々込めた力が強すぎた為か
または、後先を考えられなかった為か
多少の勢いは殺せたが、それでも
尚も拳は、それなりの速度を保ったまま
地面へと近付いてゆく
最早、
止める事は出来ない
そう判断出来たなら
潔く諦めて、
拳の怪我を甘んじて受けるか
常人であれば、
大抵はそうだろう
けれど
藍人は違った
藍人は、拳を止められない
そう判断した瞬間には
第二案を講じていた
それは、
軌道を変える事
藍人は完全ではなくとも
拳の軌道をずらしてゆく
普段なら出来ないが
この時は無茶な大降りであった事が幸いした
結果として
軌道を完全に逸らして
完全に宙を切る事までは叶わなかったが
拳は地を擦る程度で済んだ
代わりに無理な体勢の変化で
無様にも肩から転倒してしまった
最低限の受け身が取れたお陰か
堪えられる程度の痛みで済んだ事は
不幸中の幸いとは言えるが
そんな事よりも―
藍人はゆっくりと振り返る
「何をされているんですか?」
庭を望む縁側の上
彼女が再び声を発する
特徴的な
抑揚のまるでない口調は
相も変わらない
聞き違える事も
まして、今
その姿をはっきりと捉え
装いの違いに一瞬だけ戸惑った
何せ彼女は以前の真っ白で
異様な着物ではなく
少し語弊があるかもしれないが
“普通の”着物をー
詳しく述べるなら
特段派手な装いではなく、
つまり、
そこまでの上物ではないものの
美祭を歩けば
この彼女と同じ世代の女性なら
普段着として着ている物と同等程の着物
とでも言えばいいか
結論として、目立たず
“普通の装い”という物だった
まぁ、それでも
彼女である、と
藍人が見間違える事は
まずもって、
あり得ないのだが
「何故…、貴女がここに…?」
“見間違える事はない”
そうは言いながらも
“貴女”とは他人行儀と謗られるかもしれない
だが、そんな指摘は
正確には当てはまらない
藍人は
彼女の“本当の名前”を知らない
敢えて呼ぶなら
今の着物にはないが
以前見た時の、真っ白な着物
その胸の辺りに縫い付けられていた布
そこに書かれた【八六一】が
彼女の呼称だと思われる
それに、確か
敷辺も
そう呼んでいたはずだ
しかし、
そうは言った所で
藍人が【八六一】と呼ぶ方が
何より失礼だと思われた
さて、
場面を戻そう
藍人は、質問を質問で返す
そんな愚行を晒したが
それを、この時ばかりは
恥じる余裕すらなかった
そんな事は
最早、些細な事だ
冷たい風が頬を撫でる
ほぼ同時に
同じ風が彼女の特徴的な
腰まである長い
濡羽色の髪を揺らす
その奥、異様なまでの
白い肌が傾きかけた陽に照らされる
暗闇の中で会った時にも思ったが
整った目鼻立ちをしている
しかし、だからこそ、
空虚過ぎる瞳を目立たせる
どこか一点見ているようで
恐らくは、何も見ていない
そんな不可思議な魅力と
逆に、
言い知れぬ不気味さを兼ね備えた
そんな瞳をしている
「私は、藍人様を
お迎えにあがりました」
藍人の、返し問いに
彼女は自らの質問を一度脇に起き
藍人の質問に対して
簡潔に答える
それから、もう一度
「何をされているのですか?」
と、先程の質問を
一語一句違わず
口調もそのままで繰り返す
「俺は……」
鍛練の途中、
妄想、空想の化け物に取り憑かれ
自棄になりかけた
しかし、
そんな事は
とても口には出来ない
彼女に対して
何の感情が湧いた訳でなく
ちっぽけだが、矜持が邪魔をした
そう思ってくれればいい
「俺は、ただ鍛練をー」
そこまで口にした時
彼女の虚ろな瞳と
不意に目が合った気がして
思わず藍人は口籠る
少し色の抜けた
どこか白濁したような瞳
それまでに感じた空虚な物に
違いはないが
何故か、この人に対して
誇張や嘘などは通用しない
そう思わせる何かが
少なからず感じとれたのだ
「何をされているのですか?」
彼女は再び繰り返す
全て見透かしたような瞳で、
澄んだ声で
藍人の中にある
奥深くに仕舞い込んだ
ドロドロも、汚い物も
全てを引摺り出す
しかし、彼女は
藍人の全てを見透かしておいて
それを聞く気は更々ない
そう言わんばかりに
言葉を続ける
「藍人様は、今
そんな事をしている場合ではありません」
「何を…」
何を分かった口をきくのか
そう口にしかけたが
彼女は容赦なく遮る
「死にたいのですか?」
「!」
表情も口調もそのままに
それはあまりにも衝撃的な問いである
藍人は思わず息を飲む
しかし、少し考えれば
反論の余地がない事は明白だ
先程、自分でも自覚したが
今、ここが戦場なら
間違いなく藍人は死んでいる
「死にたく、は…ない
けど……」
絞り出すように藍人は
精一杯の反論をする
「藍人様は、美祭は勝てない
そう思ってらっしゃいますか?」
「……」
核心である
全力で否定すべき問いだが
それに足る材料も、勝算さえ
藍人には到底見いだせない
少なくとも
現段階では、だ
だから、
沈黙した
けれど、普通に考えれば
これは謗られる行為だ
端から見れば
敷辺を信用していない事と同義だ
同時に、自分が
ここに残った意味を全否定するものだ
だが、
彼女が藍人を謗る事などはなく
更に、
こう言ってのけた
「美祭は確実に勝利します」
藍人は、驚きのあまり
いつの間にか俯いていた顔を上げ
彼女を見る
それは、
極めて断定的な物言いだった
あの、敷辺でさえ
ここまで断定的な物言いはしなかった
にも関わらず、
彼女はそう言ってのけたのだ
「どう、やって…?」
藍人が漏らしたのは
当たり前の問い
相手の戦力は
美祭の三倍、いや五倍か
それだけ考えても
良くて難戦、悪ければ
全滅もあり得る
常人なら
そう展望する
そんな状態に至って
しかして彼女は、
もう一歩、踏み込んでみせた
「この戦い、美祭は
完全なる勝利を収め
相手は壊滅します」
そう言った彼女は
少しだけ、微笑んでみせた
柔らかく、穏やかに
一切の曇りなく
微笑んでみせた
藍人は思わず息を飲んだ
初めて見た
彼女の表情の変化
彼女の笑顔が
陽に優しく照らされ
とても綺麗だ
素直に、
そう感じたからだった