後悔の味
葵との別れの朝から
少し時間の経った昼過ぎの事
藍人は
敷辺に促され戻った
元の別宅の庭で
木刀を振り続けていた
一瞬の休みもなく、
基礎の中でも
最も基礎の鍛練を続ける
木刀を振り下ろした回数は
既に千を越え、体力の限界など
とうに越えている
にも関わらず、
藍人が止まる様子はまるでない
ただ無心に、
素振りを続ける
どうすれば【強く】なるのか
どうすれば【守れる】のか
どうすればー……
焦燥は尽きない
【ただ無心に】
なんて、
ただの“詭弁”に過ぎない
肩が悲鳴を上げる
腕は岩のように重たい
後悔や雑念を振り払うように始めた素振り
身体を動かしてさえいれば
多少強引にでも、
何も考えなくて済む
そう考えていた
だが、
心の疼痛は
未だ消えないでいる
木刀を振る度
汗がパッと散り
または頬を伝って
大粒の汗が地に落ちる
素振りの型が既に崩れているのが
自分でも分かる
疲労して、尚
最高の仕上がりでなければならない
鍛練で出来ない事は
本番では絶対に出来ないのだ
正確に理解しているからこそ
悔しさが明確な形で込み上げる
自らの体力の無さは、
大きな枷である
そう、
今回の戦いは
決して
一対一ではない
黒石の言葉から考えて
今回は一人で数人の相手を
場合によっては複数人数を
同時に相手しなければならない
少し想像してみても、
ゾッとする
乱戦
四方八方から
明確な殺意を持って襲い掛かる敵
見えない死角から
振り下ろされる刀、突かれる槍
飛んでくる矢
一筋縄でいかない事は
明白だ
今の自分に
足りない物は、数多くある
技術もさることながら
体力も、一朝一夕では
どうにもならない
けれど、積み重ねなければ
いつまでも成長はない
技術、技能は
師事してもらう、または経験から築く物
反して基礎の体力、感覚といったものは
結局のところ
自らで、どうにかするしかない
例えば、一撃必殺の何か
正直そんな物があるとは思えないが
仮にあったとして
疲労して繰り出せないなど
笑い話にもならない
藍人は、
ただ、がむしゃらに
けれど、一つの目的の為だけに
木刀を振り続けた
―――――――――――――――――――――――――――
そんな藍人を
少し遠くで見つめる者がいる
藍人に気付かれないよう
細心の注意を払いながら
その者の視線には
所謂、感情という物は除外され
多少冷たい印象を受ける物ではあるものの
逆を言えば、
極めて冷静に、
偏見や先入観といった物を
出来るだけ排除した
値踏みに近い物
といえば、
多少聞こえがいいかもしれない
そうして、その者は
暫く藍人を見つめていたが
数十秒後には
藍人に背を向けて
その場を後にする
そして、
藍人から十分離れた場所
そこで近くの手頃な岩に腰掛け
懐から煙管を取り出し
この時代では、
まだ珍しいマッチを使って
煙草に火をつける
細かく吸って
しっかりと火が付いた事を確認し
それから少し大きく吸い込み
肺に煙を満たす
途端に噎せて
咳き込みそうになるが
もう一度大きく煙を吸って
咳を煙と共に
無理矢理に飲み込む
そうして、
二、三度煙を喫った後
彼の口から溢れた言葉は
たった一言
「あれじゃあ…
全然“駄目”だな…」
だった――
――――――――――――――――――――――――――――
その後も藍人は変わらず木刀を振る
ただ、
がむしゃらに
そうして気付けば、
いつの間にか
日が傾き出す時間となっていた
語ったように
体力の限界などは
既に越えている
だが、それでも
藍人が一瞬でも止まらないのは
自分に足りない物を
多く自覚しているからだ
日が傾きだしたのを
確認してから、というのも
少しだけ、
時間の経過が遅くなったと感じるー
少し考えてから
その理由が
考えるまでもなく明白である事に気付く
それは、藍人自身
この単調で単純な鍛練を
“苦行”である、と、
少なからず感じているからに
他ならない
それに自ら気付いた瞬間
その愚かな考えを
必死に搔き消したくて
否定、したくて
それまでにも増して、
自らに気合いを入れるように
木刀を振り下ろした
けれど、
一度湧いてしまった感情は
消え去るどころか
一振する度に
より一層
濃厚に、そして明確な形を象ってゆく
まるで、
自分の中にもう一人
別の自分がいて
そいつに
全てを否定され続けている
そんな感覚に襲われる
無視しようとして
けれど、
決して無視できない
必死に
再び集中しようとするも
見えない何かに邪魔され
心は一向に無心へと向かない
「黙れ…」
そんな感情で心が満たされてゆく
実際口に出す事だけは
かろうじて堪えたが
心の中で
何度も叫ぶ
黙れ 黙れ
黙れ黙れ黙れ
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ
何度も繰り返す
最早、
鍛練と呼ぶには程遠い
何か
敢えて名付けるなら
狂気
とでも呼ぶべきだろう
身体の悲鳴が
更に酷くなる
脈打つ様に
掌の傷が痛い
鼓動すら憎らしい
上がる息が
体力の限界を訴える
呼吸すら煩わしい
「五月蝿い…黙れ…」
とうとう、
そんな言葉が口をつく
視界が滲む
汗ではない何かが頬を伝う
そしてー
カランー…
そんな音で我に返る
一瞬だけ、
自分に何が起こったか分からず
大いに困惑する
音の元を探すと
木刀が地に転がっている
木刀が、いつの間にか、
自分の手から滑り落ちていた
そう理解したと
同時に
もう一つの違和感にも
気付く
木刀が転がる地面
それが先程より
明らかに近いのだ
「え…?」
間抜けな、それも
ひどく困惑した声が
自分の口から漏れる
それは何故か
意図せず藍人は
膝を地につけていたのだった
そして、それが
木刀を拾う為にした事ではない
そう理解した時
地に水粒が落ちる
涙
後悔
今、ここが戦場であれば
自分は間違いなく
死んでいるだろう
そして、
孤独感に襲われる
それも老親を亡くした時より
遥かに圧倒的な物
昨日、いや
今朝まで
当たり前のようにあった
自分を心配する声も
駆け寄ってきて
包まれる様な優しい温もりも
当たり前だが、
最早ない
葵と離れて
まだ、たった一日
いや、
それにも満たない時間ですら
集中力を欠いてしまっている
そこかしこに
葵の面影を見る
戸惑いと同時に
己の情けなさは
計り知れない
覚悟したはずだった
決意して、前を向いたはずだった
だが、そんな物は
幻想でしかないと自覚した時
自分のした選択の
代償の大きさに
藍人は
ただただ
打ちのめされるのだった




