不釣り合いな代償 紫 ③
私は、
碧に幾つかの選択肢を告げる
どの選択肢にも、長所と呼べる点
逆に短所と思える点が存在するが
私は可能な限り、昂揚と熱を抑え
公平に、彼が間違った認識を持たぬ様
丁寧に説明する
その際に、
意図的にそうした訳ではないが
彼に選んで欲しいと、
私が個人的に思ってしまった選択肢に於いて
他の選択肢より 利点を詳しく説明した事は
後になって思えば、少しだけ
失敗したとも言える
彼は私の説明を最後まで
冷静に、ただ、
黙って聞いていた
無論、
私と彼の身分差から考えるなら
当然といえば、当然ではあるのだが
それにしても
自棄になり、逆上した所で無理もなく
また、私としても
そうなった彼を慰めこそしても
咎める気は、さらさらなかった
彼がそうならなかったのは
彼の人間性が出来ている事はもとより
諦めにも似た感情に
支配されていたであろう事は
今更言うまでもないだろう
暫くの後
私の説明も終わり
私と彼の間に、重苦しい沈黙が訪れる
私は即答を求める気はなかった
寧ろ一度、時間を置く事で
彼に、自身を思い直す切欠を与えたかった
そうする事で、或いは、
私が密かに願う選択肢を
選んでくれるか?
と、
淡い期待を募らせた為だー
暫し続いた沈黙を
私が破り、彼に
「少し、考えてみるといい
答えは後日聞かせてもらう」
と、
そう告げようとしたが
私の言葉は「決めました」との
極めて静かな口調の彼の言葉で遮られる
彼は、それから数秒の間を置き
穏やかな表情を浮かべて語り出す
「私の、選択は……」
彼の選択は、やはり
私の予想を覆す事のないものだった
私は、彼が語り終わるまで
自らの感情を殺す事に努め
一つ一つの言葉を
聞き逃す事のないよう終始した
自然体の穏やかな口調
時折、苦笑すら浮かべて綴られる
飾り気のない言葉達
それこそが
普段は感情を滅多に表に出す事のない彼の
数少ない意思表示であり
また【遺言】に他ならないからだ
彼が語り終わるのを待ち
私は一呼吸置いて、短く
つまりは、端的に
「わかった」とだけ伝えた
彼の選択に
思い直す事を促す事も、
それを命令する事も
私には出来るが
だが、敢えて
そのどちらも
私はしなかった
いや、
現実は“出来なかった”と言うが
正しいかもしれない
彼は状況を正しく理解した上で
崇高で誇り高い決意をした
それを、私ごときが
ましてや私情で汚す事など
決して許されない
そう、
考えたからだった
碧を早々に下がらせ
再び私一人となった部屋には
自ずと冷たい静寂が訪れた
彼を早々に下がらせたのには
幾つか理由があるが
大きくは、あのまま二人で居れば
未だ私の頭の中で
ぐちゃぐちゃに渦巻く感情の行き着く先
歪んだ終着点を見出だしてしまった場合
彼の決意を汚す様な命令を
下してしまいかねないからだ
それに
密室に二人きりというのも頂けない
彼に限って言えば、
変な気を起こすという事は
万が一にもあり得ないが
これを誰かに目撃されれば
あらぬ疑いがかかり
彼の行動に無駄な制約が掛かる事にも
なりかねない
加えて、最悪なのは
黒石に誤解を与えてしまう事
これは、何としても避けたい所だ
彼が去り、
数分後に私も部屋を後にする
重ねるが、ここの存在は
現段階では数人を除き
美祭の住民は勿論、家人達にすらも
まだ秘匿しなければならない
今夜は少し遅くなってしまった
私は少しだけ足早に
だが、決して焦る事はせずに
足音を消して屋敷の端
私室へ向かった
無事、
誰に見られる事もなく部屋へと辿り着き
廊下に面した障子戸を閉めた時
隣の部屋から
微かな物音が聞こえた気がした
寝返りの布擦れとは少し違う
私が部屋に戻った事に気付き
意図的に押し殺した様な物音だった
襖一枚隔てた場所は
黒石の私室
彼の心中は言うに及ばない
大方、今頃は碧に対する
嫉妬や焦燥に焦がれているに違いない
或いは、私に対する
疑念か、
どちらにせよだが
なんとも、女々しく
馬鹿馬鹿しい感情を抱くものだな
だが、その反面
それも悪くないとも思える
不完全で、極めて人間らしい、
愛おしいとさえ思えてくる
だからこそ…
この上なく、悲しいのだが……
私は私の部屋と、
黒石の私室を隔てる襖にそっと触れる
彼のこれまでの
並々ならぬ努力の数々を
私は知っている
また、彼の気持ちも
痛い程に伝わっている
しかしながら、
彼が如何なる努力を続けようとも
また、どれ程の情念を抱き続けようとも
私が彼の気持ちに
応える事は、決してない
わかっているだろ?
その結末が、
紛れもなく悲劇だけだと……
私は襖から少しだけ離れ、
更には襖に背を向ける
そして、
隣の部屋の黒石に
聞こえるように、態と音を立てて
着替えを始める
外套を大仰に脱ぎ捨て
帯締めと帯を解き
伊達締めを、すっと解けば
着物の裾は衣擦れの音と共に畳へ落ちる
片袖を抜き
そのまま襟に沿って掌をゆっくりと滑らせれば
着物の前は開かれ、肩から外れた着物は
自ずと滑り落ち無造作に足元へと広がる
これが日中、つまり
皆が起きている時間ならば
生活音に書き消されてしまうような
些細な音に過ぎない
だが、今は中夜、深い時間であり
辺りはしんと静まり返っている
その微かだが、確かな音は
妙な妖艶さをも醸し出すかの如く
隣の部屋でならば
そして、
そんな場所で耳を澄ましている者ならば
否が応でも、その姿を想像し
更には意識してしまうのは
ごく自然な事だ
彼が、僅かでも襖を開き
まして覗きなどしない事は
確信している
何故なら、
彼がそんな行いを犯した事が
万が一でも私の知る所となれば
そして、
彼を信じた故に
彼の願いであった、隣の部屋を与えた私を
裏切るような事をすれば
私がどんな思いを抱くか
彼が解らない訳ではないからだ
では、何故
私がこのような
彼を試すような行為
或いは生殺しにするような行為をするのか
皆には
そんな疑問が浮かんでくる事だろう
無論、
何の理由もなく
この様な行為をしている訳ではない
私は、この方法で
彼を慰めているのだ
数秒後の事
彼の部屋の廊下に面した障子戸
その開閉音が微かに聞こえた
気配を消しているのか
彼が部屋から遠ざかる足音は
余程集中しなければ
聞こえない程だった
彼が去ったのを確認し
私は長襦袢姿のまま
敷かれている布団へと入る
そして、
自らの身体をきゅっと抱いた
今、彼の想像の中では
私は既にきっと、
あられもない姿なのだろう
彼が突如として襖を開き、驚く私を押し倒す
そして、欲望のままに口付け
その深く、濃厚な口付けは
思考さえも鈍るのを自覚させる
その所作は少しだけ乱暴だが、
甘く、優しく
そんな一面すら彼らしい
互いの身体が次第に熱を帯びる
私を優しく抱いているに違いない
彼は私の名を呼び、私も必死に彼の名を呼ぶ
この世に二人だけという錯覚の中で
彼に愛を囁かれ、吐息を絡ませる
そして、
この上ない幸福感の中で二人は果てる
そんな、決して実現する事のない
残酷な妄想
それが、もし
現実ならばー
「どんなに…、幸せな事なのか……」
決して叶わぬ思いを抱いて
私は無理矢理に瞼を固く閉じる
未だ眠気は
一向に襲ってくる兆しはないが
それでも、多少強引にでも
今は眠らなければならないのだ
そうして、
どれ程の時間を苦心した事だろうか
いつの間にか
私は
灯りが、ほぼ等間隔に並んだ
肩幅より少し広いほどの
長い直線の廊下に佇んでいた
次第に視界と思考が明瞭になり
その後、辺りをぐるりと見渡して
私は大仰に溜め息をつくのだった
急激な状況の変化にも関わらず
私の戸惑いは一瞬のみだった
この場所を
私はよく知っている
唯一、
今までと違う事があるとするなら
私の手には、件の刀が
しっかりと握られているという事ぐらいだ
私は握られた刀の
感触を確かめる様に握りしめ
一歩、二歩と歩き出す
ここの空気は、常にひどく冷たい
一見すれば、空気は堂と同じく
澄んでいて神聖で
清廉されている様にすらも思えるが
私にはこの先で待つ、禍々しい者を思えば
だからこそ、気が重たいのではあるが
とはいえ、
この廊下には出口はおろか
途中に脇道や部屋もない一本道である
その時点で
私に選択肢などないのだが……
ともあれ、前に前にと進みだして
歩数が数十歩を数えた時の事
目前に唐突に
黒く退色した大扉が現れた
多少褪せてしまっているが
金と銀の繊細な装飾が目を惹く
重厚な木製
観音開きの大扉だ
その扉を見ただけでも
中に居るであろう者の
格の高さを窺える
だが、
私はー
一切の躊躇などなく、寧ろ反して
努めて“無作法になる様に”の
振る舞いとして、
扉の取っ手を力任せに引っ張った
扉は床を引き摺り、軋む音を響かせ
多少の抵抗を感じはしたが
それ程の難はなく
扉は大きく開かれた
異様なほど暗い部屋に
背後の廊下からの光の帯が伸びる
扉の先の部屋の大きさは
さほどではない
背後からの灯りで
十分に事足りる
ぐるりと見渡して
一見して何もないように思えた
部屋の中心に、いつの間にか
その者は現れた
灯り一つ持たず
不気味に佇む
一人の人物
瞬間、
私は思わず息を飲む
その者の姿は、
黒石だった
彼は、私の存在を認めると
小さく頭を下げて
私の敬称を口にする
「敷辺様、
藍人の選択は、成りました…」
その声は、
昔から、よく知る
愛おしい者の声だ
その者の振る舞いは、
黒石そのものだった
だからこそ、だ
その瞬間、私の心は
真っ赤な憤怒に染まってゆくのを
感じる
気づけば、私は刀を、
無意識のうちに素早く抜き
足早に“黒石”の元へと
近づいて行った
またしても情けない事だが
激情に飲まれ我を忘れた、と
思ってくれて構わない
兎も角
気付いた時は
私は彼の首に刀先を突き付け
「お前ごときの化物風情が……、
彼奴の姿を騙るな!!!」
と叫んだ時だった
目の前の者が
絶対に彼ではない
それを瞬間的に見抜いたとしても、
決して褒められた事ではない
その証拠に
奴は、私の剥き出しの感情の込められた
言葉と言うより激情に対しても
変わらず、奴は
見慣れたいつもの
彼の優しい笑顔で
涼しげに微笑むばかり
つまり、
奴は私の神経を
逆撫で続けたのだ
無意識に噛み締めた自分の奥歯が
鈍く軋む音が聞こえた気がしたが
この時、
私にはそんな事を
気にする余裕などなかった
“殺してやりたい”
私の心には
明確な殺意さえ、沸き起こっていた
刀を握る私の手にも
無意識にも力が込められてゆく
如何なる時でも
安易な一時の感情などで、
他者の命を奪ってはならぬ
などという、本来人が持つ
基本的な理性や倫理観など
どこかへ吹き飛んでしまっていた
完全に、
冷静さを欠いていたのだ
そんな私に
冷静さを取り戻させる事など
最早、不可能とさえ思えた
だが、その瞬間は、
突然だった
機は間一髪、いや、
まさに絶妙だった、と
言ってもいいだろう
彼の姿を騙った奴に
私が向けた純粋な殺意が
惨憺たる結末を具現しようとする
まさに、
その瞬間
私の次の行動を遮るように
首筋に
ひどく冷たく
鋭い感触が触れる
直感的に、
それが刃物であると
何となく認識出来た時
突き付けられている刃の方向から
相手の居るであろう方向を予測し
視線だけをそちらへ向ける
そこには、
いつからそこに居たのか
きらびやかな、
長い銀髪を靡かせた少女が一人
年の頃は
八、九歳ほど
暗闇にも映える
白とも銀とも見える着物に身を包み
肌は病的なまでの色白で
幼いながら整った顔立ち
銀髪に白銀の着物姿
それは言葉にすれば派手な佇まいだが
その実は清楚で洗練されていて
“派手な”
とは、
まるで逆の印象をも与える
だが、今
この瞬間も
彼女が、一瞬も逸らさず
更には、瞬きすらせずに
私に向けている視線には
明確な殺意が込められている
そう、感じずにはいられない
彼女の深い闇に染まった瞳には
何にも代え難い冷たさが
確かにあるのだ
殺意
そう表現したのは
何も彼女の闇より暗い瞳のせいだけではない
現に彼女は、今、刃物を
正確には、鋭い鎌の刃先を今も
私の喉へと突きつけている
私が寸分でも
いや、たとえ僅かでも動けば
彼女は躊躇なく、手にした鎌で
私の喉を掻き切る事だろう
私は
このままでは動けない
だが、
それは彼女とて同じ事だ
私は、この銀髪の少女が動くより早く
目の前の奴の首を突き刺す自信はある
奴と刺し違えるならば
寧ろ本望とさえ言える
それが
私の覚悟だ
それを理解しているからこそ
この少女は
こうして現れたに違いない
私は、奴の事と同様
この少女の事もよく知っている
また、この少女も
私という人間を
よく知っている
だからこそ、
互いに動けずにいるのだ
私と少女の
無言の駆け引きが
どれ程続いたか
その間は僅か数秒足らずだったかもしれない
或いは一刻程も続いたかも知れない
どちらにせよ
先に殺意を収め
刃を引いたのは
彼女だった
彼女に合わせて
私も無言のまま刀を下ろした
考えれば、いや考えずとも分かる事、
こんな事は
何とも不毛で馬鹿馬鹿しい事なのだ
時間の無駄
と、言って過言でない
彼女は次に、静寂を破り
鈴の鳴るような、優しい声で
奴に進言した
「黒神様、戯れが
過ぎます………」
その視線は、
彼の姿をした者へ向けられているのだが
その瞳からは
先程までの殺意は
微塵も感じられない程に澄んでいた
“黒神”と呼ばれた
彼の姿を模した“奴”は
それまでの“彼らしさ”を
あっさりと捨て去り
突如として、
“彼らしからぬ”
不気味な笑みを浮かべ
嘲るように
「眞銀よ、余計な事を……
これからが面白い場面であったのに…」
と、その見た目からは到底想像出来ぬ
少女のような声で悪態を付いてみせた
言葉の上では『残念』とした黒神だが
その実は
これは私を嘲笑する言葉に
他ならない
汚い泥のような、
どす黒い感情、
または煮えたぎるような、
真っ赤な感情、
それらは、
この黒神という者にとって
甘美な餌であり
暇潰しの戯である
この者の、
この様な態度に
逐一と腹を立てるのは
全く以て
無意味である
私は大仰に溜め息をつくと
漸く冷静を取り戻す
私が口を開くより先に
奴は漆黒の球体へと姿を変えた
だが、私は構わず
問いを投げ掛ける
「【私以外の者達への干渉はしない】
そういう取り決めのはずだが?」
奴は、こうして
姿を自在に変える事が出来る
奴と出会った当初の頃は
奴が姿を変え、球体から現れるまで
言葉を掛ける事を待っていたが
回数を重ね
奴を知る内に分かった事だが
この球体の姿の時も
こちらの声は、
奴に届いている
言葉を発する事は
恐らく出来ないようだが
「それは、少し違うな」
奴は球体から姿を現しながら
私の言葉を否定する
球体から現れた奴の姿は
その声に似合う少女の姿となった
年の頃は
隣に控える眞銀と呼ばれた銀髪の少女と
同じ程の
八、九歳といったところ
こちらは長い黒髪で
身に纏う着物は鮮やかな朱色に
金や銀の細かな装飾
それはまるで、
婚姻の晴着のような
印象を与える
そして、
何より
その着物の朱より
鮮やかな朱色の瞳
前述の通り、彼女は
神々しい龍にも、
立派な髭を蓄えた老人にも
可憐な少女にも
私の密かに想う彼にさえも
自在に姿を変える事が出来る
だが、
この人間離れした
鮮やかな血のような色の瞳だけは
変える事が出来ないらしい
それが、私が幼い頃に、
この者を人ではないと直感した理由であり
先程
黒石でなく奴だと見破った根拠だ
「少し…、違う?」
私は、
黒神の言葉を反芻する
「あぁ、違うな」
「どういう意味なんだ?」
私は黒神の返答に、
少し被せるように矢継早に問いを投げ掛ける
黒神は『少し落ち着け』
と、でも言うように手振りをする
そして、
少し間をあけて口を開く
「お前が知る通り、本来
私が直接会って、干渉できるのは
美祭の領主だけだ」
「ならばー」と
私が結論を急ぎ
奴の不正を咎めようと試みた
奴と私の関係は
一つの【契約】で成り立っている
そして、
その【契約】には、事ある毎に
様々な制約が設けられる事となった
元々の【契約】は、初代領主が、
藁にも縋る想いで締結した経緯から
黒神に優位になる文脈が多く
その後に始まった
【契約】のもとで
定期的に行われる事となった【賭け】は
黒神の行動の自由度の高さから
予想もつかぬ不正や不義理が横行し
美祭の歴代領主はなす術なく
圧倒的な敗北を余儀なくされた
その為、
それらを問題視した領主達は
個々に黒神との交渉の上で
様々な制約を取り決めた
事後に取り決めた制約は
主に黒神の明らかな不正行為や
格式に合わぬ不義理な横暴を抑止し
黒神の行動を大きく御する目的の物が
大半を占める
これは、
美祭の歴代領主達が
目の前の黒神との
【契約】のもとで行われる【賭け】を
僅かでも有利に進める為
途方もなく長い時間を掛け
付け加えていった条項であり
私達の知恵の結晶
血の染み込んだ遺産だ
中には、
一見すれば公平に見えるが
解釈しだいでは、
私達が圧倒的に有利になる物も
多数紛れ込ませてある
だが、奴は私達の決めた制約を
私達の意図を含めて正確に理解しながら
一つ残らず受け入れ続け
そして、その上でも奴は、
私達との【賭け】に勝ち続けている
それ程までに
生身の人間と人智を越える存在との
圧倒的な差は、未だ計り知れない
奴にとって、
自身を縛る制約とは
“下等な者達が打ち出す健気な、
だが、無駄な努力”
その程度にしか
思っていないのだろう
無論、私は
契約、制約の文面は
“知り得た限りの物は”
一語一句に至るまで記憶している
……そうだな、
誤解がないように言っておくと
契約の詳しい内容、原文に関しての記録は
件の【初代領主の手記】に残されている
知っての通り、
その内容については
複雑怪奇な暗号に守られている
解読は、容易ではない
それどころか、
最早、不可能と言っても間違いではないだろう
なら、何故
私達領主が幾つかの原文を知っているのか
無論、完全な解読に向けて
並々ならぬ努力があった事は
言うまでもない
実際、そこから
わかった事も多い
だが、
もう一つ、
もっと簡単な手法、かつ確実に
原文を調べる手段がある、
それはー
『契約の相手を
問いただせばいいのだ』
ただ、それには二つ
懸念すべき点がある
それは、
『嘘をつくな』との文言は
契約、制約のどこにもない事だ
つまり、
奴らの言葉を鵜呑みにする事は決して出来ず
また、真意を見極める必要がある点
これだけでも十分に厄介だと思えるが
懸念は
更にもう一つある
それは、契約の文言が
曖昧極まるという事である
つまり、
解釈を広げれば
どこまでも拡大解釈できる仕組みになっている
ということである
と、
様々な懸念がある
ならば、私が取れる手段は一つだ
【嘘をつかせなければいい】
である
今回は当然の事ながら
私の指摘などは
論破される事は想定済みだ
ただ、僅かな可能性として
これが黒神の横暴だった場合
つまり、解釈の違いで制約にかかる場合
ここで反論しない事は
前例を作ってしまう事となり
次代以降の領主の不利益となりかねない
それだけは、
何があっても認められない
それと、
もう一つの目的として
万に一つ程の僅かな可能性ではあるが
この指摘を奴が認めた場合
奴に貸しを一つ作れるかもしれない
と、考えたからだ
それは、
正直に言えば
代え難く大きな利益だ
だが、奴は
案の定、私の反論など、
既に想定済みである
そう言わんばかりに
私の言葉を身振りで制した
「無論、
幾つかの例外はある…」
「契約の第一条、一項、絶対条項
我々の“【通常】の営み”を尊重し、
またはこれを何人も阻害してはならない」
未だに穏やかな表情と口調を
一切崩さぬ姿勢の黒神の説明を
横に控える少女、眞銀が即座に補足する
この瞬間の
眞銀の感情は黒神とは対照的な物で
私に対する明確な苛立ちとでも言うべきか
向けられた視線からも、強めた口調からも
本能的な嫌悪や憎悪といった物さえ
感じとる事が出来た
その証拠…とは言い難いが
直後「まさか…忘れたわけではあるまいな…」
との厳しい謗り付きである
とは言え、
この少女の怒りは尤もである
繰り返すが
私達と黒神達との関係は
契約で成り立っている
その“いの一番”の項目
更には【絶対条項】
とさえ位置付けられている条項を
失念したとおぼしき私の態度は、
つまり、
私が黒神との関係を
軽んじている
そう捉えられても
おかしくはない
加えて
奴らの根幹にある固定概念として
【人間というものは自分達より
極めて愚かで、下等である】
だとの認識を強く持っている
眞銀が黒神を
心酔している事も大きいだろう
それらを象徴するように
「身の程を弁えなさい…」と
眞銀が詰る
鋭さを増す眼光、
僅かに震わせる身体
彼女が完全に冷静を欠いている事は
誰の目にも明白であろう
それこそが、まさに
私の狙いだった