不釣り合いな代償 紫
暗い敷辺邸の地下壕で
敷辺は静かに佇む
ただ、その心中は
決して穏やかではない
不意に敷辺の抱えた木箱が鈍く軋む
私が無意識のうち
抱えた腕に力を込めたからだ
木箱の角が肌に食い込む事で、常なら
痛みでそんな事は出来なかった事だろうが
この時ばかりは
そんな事など、気になるどころか
最早、気付くまでもなかった
藍人達と別れるまでは
何とか堪える事が出来た
だが、今は
ここには私と
“脱け殻”の
八五九号と八七八号
感情を抑える理由は存在しないが
叫び出す事と、
目の前の者達に八つ当たりをする事は
どうにか留まる事が出来ている
心に
ふつふつと沸き起こるは
止めどない【怒り】の感情
それは“憤怒”や“憤り”などと言った
綺麗な表現などでは到底表せない
単純だが、決して混ざりのない
純粋な【怒り】である
「誰が…藍人達に真実を告げた……?」
思わず口をついて出た疑問
無論、その答えは
既に予測出来ている
だが、確信に達する為には
一つ、どうしても
確かめなければいけない事があるー
私は、平静を取り戻すための
深い溜め息を一つ
感情に支配されれば
それは、冷静さをも失わせる
それは、極端に視界を狭め
普段なら見落とす事ない
可能性を見失わせ、判断をも鈍らせる
果ては全てを狂わしかねない
今は、一つづつ、
確実に済ませる必要がある
まずは、ここに来た目的
“来る日”に備えた準備の進捗確認
これは、先程【八六一】から報告を得た
本来なら、これは
自らの目で確認するべきだが
今は、しない
まだ【奴等】に
余計な情報を与える訳にはいかない
次に、この木箱の回収
これも済んだ
他には…
【八七九】の“処理”か……
予定外の事で思ったより時間を割かれた為
これは明日以降にする他ないだろう
「まぁ…、すぐに死ぬ事はあるまい…
それに……」
先程まで感覚すらなかったが
冷静になった事で、痛覚が戻った
刺すような、不快な痛みが走る腕に目をやると
箱を抱えた腕、角が当たっていた肌には
痛々しい赤い線が
くっきりと残ってしまっている
失態である
“全く……この程度で自分を失いかけるとは……
我ながら情けない…”
私の数多くの短所の一つ
冷静さの欠如である
そのまま、
感情に身を任せる事が許されるなら
どれほど気が楽なものかと
私の口から大仰な溜め息が漏れた
ともあれ、
今日ここで済ませる予定の物は
藍人達との面会で若干の変更はあったが、
これで概ね、完了だという事になる
ならば
このような場所には長居は無用である
決して
居心地が良いとは言えない事はもとより
そもそも、
ここの存在を他の者には、
まだ知られる訳にはいかない
家人が起き出す前に
早々に退散する事にしよう
私は彼等“脱け殻”に
作業の続行を指示し
【八六一】の帰還を待って
彼女のみを付き従わせ
漸く地上への帰路についた
これにも
勿論、意図はある
「…お前には、以前の名はないのか?」
「記憶してございません…」
私の問いに対して、彼女は即座に、
だが相変わらずの抑揚のない声で
機械的に答える
私は更に続ける
「郷は?家族はいたか?」
「記憶してございません…」
道中、
私は幾度なく彼女へ質問を繰り出す
彼女の答えは、決まって
「記憶してございません」
である
生い立ち、年齢、出身、家族の有無
思い付く限り、全て彼女に纏わる質問を
それが尽きたなら、順を最初に戻し
同じ質問を、何度も何度も繰り返す
意味のない行動と
嗤うなら、嗤え
私は…、いや
私達、歴代の領主は
探し続けているのだ
彼女が、人として
地上に暮らす方法をー
人間性を取り戻し
消費するだけの人生からの
脱却をー
それが【奴等】への
一矢となる事を信じて……
そうこうしている内に
私達は邸への階段へと辿り着き
私は彼女と別れの挨拶を交わす
「またな…」
「お気をつけて…」
と、
先程の無駄に見える質問達を
ただ無意味と切り捨てる事が出来ない理由は
ここにある
彼女と過ごした時間が
まだ短かった、当初の頃、
「また…」との私の言葉にも
彼女はただ「はい…」とだけ答えるのみだった
それが今は、形だけといえど
気遣う言葉が出てきている
つまり、ほんの僅かだが
これまでで変化しているのだ
こうして、会話を続ければ
いづれはー
と、
甘い事は百も承知である
だが、
これは私の好きでやっている事だ
誰にも文句は言わせまい
彼女に背を向け
私は階段の一段目に差し掛かる
その瞬間に、
先程までのふわふわした思考から
全神経を階段に集中させる
この階段、
段数は僅か三十段ほどだが
その仕掛けを知らない者
つまりは侵入者の足を取る意図で
わざと滑りやすくしている
無論、それだけの意図ではないが…
その仕掛けは
何とも簡単なもの
壁と床、天井に至るまで
動物や植物から採れた油を
何重にも塗り付けているだけだ
狙いは簡単
ここに逃げ込むような事態
そして、ここに侵入されるような事態にもなれば
それこそ最終局面である
加えて、
ここに逃げ込むという事は
その者等は、女子供か老人か
つまり、非力な者等と言う事だ
だが、
ここの仕掛けは、勿論の事だが
それを想定している
ここの仕掛けを知らぬ侵入者の幾人かは
確実に足を取られ、階下へと転落する
あわよくば他の者を巻き込む事のとなるだろう
その者等が大怪我で済むか
或いは死んでいるかは運次第だが
直後、階下で待ち構えている美祭の民は
その者等ごと階段に火を放てば良い
火は瞬く間に階段全体を包む
慎重に壁に手を付いていたとしても
壁が燃えれば慌てる他ない
そうなれば転倒の可能性は格段に高くなる
そして、転倒すれば、
階下へと転落する事は免れず
また、転落が転落を呼び
幾重に重なる者達は
それだけで団子状になる
たとえ、人の上に落ちて
当の本人に怪我が無くとも
上から上からと、次々に人が落ちてくれば
脱出は容易ではない
焼死か圧死か
いづれかは分からぬが
彼等はゆっくりと死んでゆくのだ
こうして、
たとえ逃げ込んだのが
いかに非力な者であっても
最大の戦果を上げられるという計算である
だが、
この仕掛けには副作用をももたらす
それは、
大きく二つある
まずは、何と言っても匂いの問題だ
可燃性と耐久性を第一に考えられ配合された油は
耐え難い悪臭となっているのだ
そして、もう一つは
何より普段の往来に
神経を磨り減らすような
最大限の注意が必要となるという事だ
侵入者が転落する前に
自分が転落する
転落の際、打ち所が悪く
そのまま死に至るなど
全く以て、笑い話にもならない事だ
私は十分な時間を要し
慎重に階段を登り
十数分の後
漸く地上へと辿り着くと
極度の緊張から解放された安堵感と
精神的な疲労、それらが重なり
フラフラとした足取りで洋机へと向かい
手にしていた灯りと
木箱を洋机に置くまでは丁寧だったが
その後は、なんとも雑に椅子を引くと
どかりと音が聞こえて来そうな乱暴さで
椅子に全身を預けるように座った
その所作は、
普段の“領主の像”からは遠く離れている
だが、この時においても
椅子を引く音は勿論、座った時の椅子の軋み音も
一切鳴らなかった事は
ここはやはり、彼女が
“領主”だからこその所業であると
言わざるを得なかった
私はいつかの“彼女”の様に
椅子に深く座り、背凭れに身体を預け
瞼を閉じて、天を仰ぐ
そうして、暫くの間、
何もせずにそうしていれば
否応なしに思い出すは、
遠い記憶の中にいる
“彼女”
そして、
ぽつりと漏らす
「果たして、
私は…やり遂げられるだろうか…」
それは、珍しくも
敷辺らしからぬ
“弱音”である
その背景には
“彼女”の存在があった
先代領主、
彼女の有能さは
私が誰よりも理解している
そんな彼女ですら
果たす事は叶わず
その果てにあった彼女の最後は、
まだ幼かった私から見ても
酷く惨めなものだった
その最後の姿は、その時の心の有り様は勿論
匂いや手触りといった感触までもが
今でも、ありありと思い出す事が出来る
瞬間、負わされた宿命の重さに
思わず身震いをする
望んで負った物ではない
それを考えると、何とも腹立たしい事で
最早、忌々しくもある
だが、同時に
覚悟をするしかないと思い至り
自身を奮い立たせる
このまま、自分が何もしなければ
結果は惨憺たる物になる事は確実だ
かと言って、それではあまりにも哀れであり
容認も許容もできない
もっとも、
犠牲が出る事は避けられない
問題は、
如何にして犠牲の数を“減らす”かである
相手が強大である事
これは既に分かっている事だ
今更、狼狽えたりはしない
私は、自らの手を眺める
ちらちらと淡い澄色に照らされた掌は
まるで血に濡れているよう…
正攻法では勝ち目はない
ならば、これまで以上に
下道に堕ちる他ない
この手を、更に
血に浸す覚悟が必要となる
これまでの“行い”
そして、私がこれから犯す“罪”は
たとえ、
それが露見しなくとも
決して赦される事はない
私の死に様は
極めて悲惨な物になるだろう…
それこそは、私の
行いに対する報いであり
甘んじて受けるつもりだ
だが、
臆している暇は、刹那もない
今はまだ、立ち止まるわけにはいかない
それだけは確かである
私は、そう決意し
洋机へと向き直る
そして、
目の前の木箱を開け
中から現れたのは
一振の
古ぼけた刀だった
この刀
鞘や柄巻、鍔など
一見すれば酷く古く
また、手入れなどされていないように見えた
覚えている限り先代が扱っている姿は
見たことがなく
勿論、私自身も見るのが初めてではあるが
「………これは…」
一言で言うなれば
とてもじゃないが使えない
と、いうのが率直な感想である
だが、そう思ったのは
刀身を鞘から抜くまでだった
確認の為
刀身を確認しようと試みる
カチンと鍔鳴りの音の後
反りが鞘を滑る独特の抜刀音と共に
徐々に刀身が露になる
その外見から、錆びまみれの
ボロボロの刀身を想像していた私だが
その想像は
実に良い意味で裏切られる事となった
鞘から完全に抜かれ
現れる刀身
その姿に
私は思わず息を飲んだ
この刀は、抜身になった刀身は
錆びどころか、曇り一つない
一目でも美しく
素晴らしい物であると実感できる
悠久の時を地下で過ごしていた筈だが
その時間を、全くと言って良い程
思わせない輝きをしている
まるで、見た者を魅力する
そんな光を纏っているようにすら感じられた
この刀の事は
領主間で代々口伝されていた
【初代領主が、壱識と弐彩を撃退した時
旗印とした刀である】
と、
無論、特別な物には違いない
だが、敢えて事実だけを語るなら
当時の美祭に名刀を拵えるだけの力は
当然だが有りはしない
つまり、
この刀は象徴的な意味合いは有るものの
決して、名刀というわけではなく
当然、銘などいう上等な物は付けられていない
「見せ掛け…
美化された伝説…
おまけに今の時代は銃があり
刀など、時代遅れも甚だしい……」
きらりと鋭く輝く刀に
特別な力などない事は
痛い程に実感している
それどころか、その欠陥具合を
どこか自分に重ねて
少し笑ってしまう
だがー
「象徴的な意味合いは…ある」
そうなのである
この刀は、正に象徴である
この国、その歴史に於いて
節目節目で表れる刀は
この国に住む者の誇りであるといって
過言ではない
ただ冷酷に人を殺める銃とは
全く違う
人を無闇に傷つけぬ為の鞘は慈愛を示し
一度抜刀し、振るう事で力を表す
そして、
そうあるべき者が掲げる事で
道を示し、人々を導く事をも出来得る
刀の使い方は、
決して一つではないのだ
私は刀を
出来得る限り高く構え
大上段から
勢いよく一太刀を振り
宙を断ち切る
ならばー
かつての初代領主
今は敢えて“彼女”と呼称しよう
その“彼女”がした様に
私も、可能性を切り開き
皆を導く一振の刀となるべきなのだ
惨劇の運命など糞食らえである
この里を狙う壱識と弐彩
戦いが望みというなら、望むところだ
喜んで受けて立とう
そして、
高みの見物を決め込む【奴等】に
今度こそ、目に物を見せてやる
そんな時だった
意図せず刀の入っていた木箱が目に入る
刀の納められていた、箱の中に
一枚の紙片が残っている事に気付いた
雑だが四つ折りにされていた紙片
取り出し、開いて
書かれていた文章に目を通した時
思わず手にしていた刀を
落としてしまいそうな程の衝撃を受けた
『万が一の時の為、研いでおきました』
紙片に書かれていた文章の内容は
何て事はない
簡潔に要件を伝えるだけのものだった
私の胸と、目頭を熱くさせ
心を強く揺さぶった事柄は
その内容などではない
衝撃を受けたのは
その筆跡だった
見間違える事など、
絶対にあり得ない
私は気付けば膝から崩れ
紙片を胸に強く抱いていた
「母……さ、ま………」
涙はどうにか堪えたが
私の口からは、
幼い頃以来、決して
呼ぶ事のなかった“呼称”が漏れ
柔らかく、温かで
優しい残響を残す
その
少し歪だが何故か愛着の持てる独特な筆跡は
間違いなく、先代のものだったのだ