残酷な選択
藍人の手によって扉が閉じられて、
訪れたのは光の一切ない世界
心なしか音すらもないように
感じられた
それでも感じるのは
繋がれた手に伝わる温もり
その先に確かに居る、葵の存在
決して間違えるはずのない
温かく優しい気配に、
こんな状況にも関わらずも
思わず顔が綻んでしまう
だが、繋がれた葵の手は
震えを隠せずにいた
愛しい者のそんな弱々しい様子は
気付いてしまったなら
すかさず葵の手を引き、
抱き寄せずにはいられなかった
葵は藍人の突然の行動に
一瞬、びくっと身体を震わせるも
藍人のしようとしている事、
心、とでも云うべきかが、
それが伝わったのか
心底、安心しきったように身体を預けてきた
腕の中に確かにある温もりに
葵を安心させたくてそうしたはずなのに
藍人は逆に安らぎを甘受してしまう
甘い罪悪感の中には、
確かに、優しい時間があった
「そろそろ眼を開けろ…」
そんな穏やかな時間を終わらせたのは
敷辺だった
二人は慌てて眼を開け
どちらともなく離れ
体を敷辺へ向ける
暗闇に目が慣れ
輪郭を表したそれらに
藍人達は今日、何度目かの溜め息を漏らす
そこにあったのは
細くとも、どこまでも続く長い細い一本道と
その道の左右隙間なく続く書棚、
そこに整然と詰め込まれた
おびただしい量の巻物や本の数々
辺りを見渡してみて気付くのは
ある物は古く
また、ある物はまだ新しいという事
それに、それらは形状は勿論
年代すらも様々らしい事
その二点はちらと見ただけでもわかる
“ここに火の類いは持ち込めない”
先程の敷辺の言葉や
この場所の特性からして
「これらら紛れもなく秘書だ…」
圧倒され、言葉をなくした藍人達
敷辺は構わず口をひらく
「これらは、この美祭の誕生から、
私を含め今までの歴代領主によって
収集され、または自筆された書物達
絶えず代々継承してきた遺物
これらの歴史書や指南書、手記に至るまで
つまりは、この美祭の最重要の宝といって
過言ではない
人にとって最高の宝とは、
金銀財宝の類ではなく知識であると考え、
各々が残した遺産だ」
藍人達は改めて辺りを見渡す
見渡す限りの本と巻物の数々
蔵書量は
先程の部屋は勿論
この美祭のどの場所をも
軽く凌ぐだろう
その数だけを考えてたとしても
一体どれだけの労力と執念が注がれた事か
いや、それらはきっと途方もない
感服、感嘆、称賛、敬意、畏怖
たとえ、どのような言葉を用いたとしても
相応しいと思える表現などないだろう
いやー、
それでも敢えて表現するとするならば
これは最早【狂気】である
これで数ある彼女のの才能の一つについて
ある程度の納得のゆく
その一つとは
彼女の類い希なる先見の明だ
それは実に簡単な解だった
彼女の先見はこの蔵書郡に
由来するもの
書物とは、
紛れもない真実と事実の積み重ねの一部
戒めであり、恩恵であり、ある種の道標である
つまり世代を越えての知識の蓄積だ
誇張され、または都合の良いように改変される
口伝と等とは訳が違う
無論、書物であっても
恥を隠す行為や見栄を張ったりなど
理由は様々だが、筆者の都合により、
多少の事実の改変は有り得るものである
だが、そんな物
ここに限っては杞憂に過ぎない
藍人は辺りを見渡して
すぐ近くにあった書物を適当に一冊手に取り
表紙を開き、最初の頁に眼を凝らす
“序 治水工事技術ニツイテノ諸々
美祭領主 敷辺ユカリ 記ス”
これは、そこに書かれていた文章であり
辛うじて読み取れた一文である
眼が慣れたとはいえ、暗い事には変わりなく
全てを読み解く事は到底叶わないが、
その頁には、そう確かに記されていた
意図を考えれば
実に単純な話である
後世を思い、または憂うのであれば
数多のあらゆる失敗談や、
ともすれば恥だと思えるような事柄ですら
正確に書き記し、伝えてゆく必要があるのだ
その事を、
敷辺は確実に心得ている
そう思える根拠は
藍人が手に取った、この一冊の本にも表れている
彼女の求める知識には、
まるで際限がない
医療、工事、農業等と
全てに精通する
敷辺が見ている物は
紛れもなく、この美祭の全ての民の幸せな姿
彼らの
果てない未来の姿だ
ここの領主は皆、先代の研究を踏襲し
更には研究し、発展させる
それを執筆し後世に伝える
受け継いだ者は、それを更に発展させる
全ては未来の為
そして、恐らく
敷辺がこの場所を秘匿する理由も、また
住民の事を最優先した為だろう
一体、誰が理解できようか?
敷辺の見ている景色は
凡そ常人の理解、その範疇を遥かに越えている
彼女は孤独に生きている
まさに
【覇道】なのだ
だからこそ、だ
藍人は言い知れぬ
やるせなさに顔を歪ませる
この敷辺をもってしても
「この、戦は……勝ちきれない……」
彼女の浮かべた悲しみの正体は
これ、だったのだ
彼女は誰よりもここを愛し
ここに生きる全ての民を愛している
もとより里を捨てる選択などなかった
藍人は自らの言葉を恥じた
喩え無知であったとしても、
軽々しく口にすべきではなかった
だが、敷辺は確かに言った
「決して負けない」と
そして、それは
「勝利でもない」とも
敷辺は静かに口を開く
「今回の…この戦いは、恐らく
今までになく激しいものとなる…
誰もが友を、親を兄弟を、子を
愛する者を…を失う事となるだろう…」
彼女の苦しみは、当然である
彼女の最も愛する者達に
彼女を慕い信じて付いてきた者達に
彼女は命令を下す事となるのだ
“死んでくれ”
と
「敵が武器を取った、今
交渉が無意味となった事は明らか
道は、二つに一つだ…」
敷辺の言わんとしている事
その心が痛い程に伝わってくる
交渉とは、
力が対等であるからこそ成立するもの
均衡が崩れた今、それは最早交渉とは呼べない
一方が相手の首へ
刀物を突き付けながらの交渉など
一体誰が交渉と呼ぼうか?
それは【恐喝】であり
それでも敢えて交渉すると言うなら
それを人は【命乞い】と呼ぶ
公平な解決など
到底あり得ないのだ
だからこそ、今
美祭の住民が取れる選択とは
「降伏、つまりは隷属か…
或いは抵抗、つまり交戦か、だ」
冷静な判断をするならば
議論の余地なく、選ぶべきは降伏であり
大人しく白旗を掲げるなら
喩え様々を搾取され、
耐え難きを過ごしたとしても
彼らは無意味に命を奪わない
何故なら、従属する限りは
彼らにとって、ここの住民は貴重な労働力だ
見せしめで数人の命奪う事はあっても
その他の者は水や食料と同じく、
“資源”なのだ
だが、
抵抗するならば
全ては一変する
交戦した時点で、
争いの規模や優劣に関わらず
双方に人的被害が出る事は避けられない
兵士の戦死、負傷はもとより
戦没遺族や、果ては
女子供など非戦闘員への犠牲も
出してしまう事となるだろう
そして、その戦に於いての勝者は
友を、親を兄弟を、子を
愛する者を奪った敗者に対して
一切の容赦をしない
虐殺され、略奪され、または強姦される
詰り、嘲笑し、犯し、嬲り
最後は虫けらのように殺される
理性を失った彼らの所業は
凡そ人のそれではない
其処此処で繰り広げられるは
勝者とは名ばかりの者達による
凄惨な行為の数々
まさに地獄である
そしてこれは、今
想像しうる中で最悪の結果であり
これから起こる可能性が
最も高い未来の一幕
繰り返すが、
敷辺が選ぶべきは
間違いなく【降伏】である
しかし、この時、
藍人は敷辺の言葉の深意に
気付いてしまっていたー
藍人の脳裏に敷辺の言葉が何度も繰り返される
“降伏か抵抗か”
その言葉の中に【逃走】
つまり、避難の文字はない
それは元より、
選択肢はにはないのだ
避難とは
文字通り、難を逃れ生き延びる事
だが言い換えるのであれば、
それは住民が
“今の生活を根刮ぎ捨てる行為”
を意味する
彼らの父母がここまで
“築いてきた全て”をである
永きを奴隷の里と揶揄されていた地
気紛れに搾取され、蔑まれ、
その末に決起し、大量の血を代償に
住民達は漸く自由を手にした
ここは、そんな彼らの先祖が眠る
約束の地である
彼らは決して逃げない
まして、戦わずして降伏など有り得ない
選択肢など、
初めから全く意味をなさない
彼ら住民は、恐らく
それらを許容しない
希望などなくても
その末に、喩え全滅したとしても
彼らはきっと抵抗を選ぶ事だろう
何度でもー
何が相手でもー
彼らにとって
ここは、世界の全てである
比喩などではない、文字通り、
命を懸けても守り抜くべき
唯一の【世界】である
それらを鑑みても
敷辺には残酷な選択をする以外なかった
いや、元より選択肢などなかったと
そう言っても過言ではない
だからこそである
藍人のとるべき行動は明白のはずだった
【葵達を連れて、ここから逃げる】
敷辺や彼らの最上級がこの地ならば
藍人にとってのそれは
間違いなく葵だ
黒石の言葉通り、藍人達には、
自らの命を懸けてまで美祭を守る義務はない
議論の余地なく、結論は出ているはずだった
「ここを……皆を見捨てても、
葵を…守り、抜かなきゃ…いけない……」
藍人の口から思わず漏れる呟きには
諦めにも似た苦しさが滲む
拭えぬ罪悪感は藍人の心を容赦なく押し潰す
この時になって
敷辺の告げる【知る覚悟】の意味を思い知る
同時に、この少し前に
敷辺に告げられた【追放】の意味を
それは、敷辺の何よりの甘さであり
それを藍人は改めて思い知るのだった