知るという事 ⑤
この場所は
敷辺宅の唯一
施錠された部屋
そににある
厳重に施錠された冷たい鉄扉の先
その先にのびる、存在すらも
隠されていた地下道
奥にあった【廊下】には
無数の部屋が存在していたー
その一室の扉は
とても長い期間
固く閉ざされていたであろう
他の扉とは明らかに違う
僅かに開かれていた、その扉の隙間からは
弱々しいながら淡い橙色の灯りが揺れている
扉の傍まで近付いて
気付いたのだが
隙間から漏れていたのは光だけではない
僅かな紙擦れのような音
それに、何やら紙の上を撫でるように滑る
筆のような音も
恐らくは筆記音だと
想像できる
そして、音の大きさから察するに
中に居るであろう人数は
一人か、多くても二人である事
何にせよ、扉の先には、
何者かが居るのは
疑いようのない事である
今、
この場所を考えればー
いや、考える程に
その光景はそれだけで
正しく異常である
藍人はまるで、引寄せられる様に
その扉の取手に恐る恐る手をかけ
ゆっくりと開こうとした
その瞬間だった
不意に背後から伸びてきた手に依って
開かれようとする扉は押さえられる
藍人達が慌てて振り返ると
そこには、いつの間に近付いていたのか
敷辺が傍に立っていた
「何を!?」
彼女の突然の行動に
そう口にしようとした藍人だったが
彼女の、どこか悲しみを含む微笑みに
藍人は、思わず口をつぐむ
敷辺はまるで、
藍人が口を開く事を自制したのを確認すると
穏やかな微笑みを一つ
藍人達へと送る
その、まるで母が我が子に送るような笑顔に
瞬間、藍人の中の緊張が
ふっと解けるような感覚がした
そして、彼女は視線を扉に移し
睨むように扉を見つめると
すっと息を吸い込み
「私だ…、【八六一号】待機を命令する!」
そう口にした
少しだけ張ったその声は
目の前の自分達へではなく
間違いなく、扉の先の人物へと向けられている
反響した彼女の声が暗闇に吸い込まれ
再び静まり返った事を確認するように
彼女は
扉を押さえていた手を離し
「開けてみろ」そう言わんばかりに
藍人達へと目配せをする
彼女の思いもよらぬ言動は
藍人に戸惑いと緊張をもたらし
取手を握る藍人の手には思わず力が入り
汗が滲むような感覚に襲われる
藍人がゆっくりと扉を引くように開く
何の抵抗もなく開かれてゆく扉
次第に太くなる光の帯
徐々に露になる室内
そして、やがて、
大きく開かれた扉
その室内の光景に
藍人達は思わず息を呑む
藍人達の目に飛び込んだ光景は
両の壁一面に設置された書棚
そこに整然と陳列された書物
その部屋の中心に陣取る
洋机には
見た事のない珍しい形をした洋灯が一つと
書きかけの書物
そして、
その机に備えられた椅子に腰掛けた
若い女性が一人、
居たのだった
椅子に座っていて、床まで付くような、
しなやかで長い黒髪
暗闇に映える真白い着物
そこから伸びる腕は透き通る程に白い肌
無駄なく線の細い身体
揺れる灯りに照らされた
えらく整った顔立ち
一見して、
彼女は紛うことなき美人である
だからこそ目立つのは
灯りに照らされた瞳
白濁し、ひどく虚ろで、
まるで生気が感じられない
そして着物には、
【八六一】の番号が書かれた布が
異様に丁寧に、縫い付けてあった
先程、敷辺が出した指示は
この女性に向けられている事が判った
「こ、れは…?」
「なに…?」
堪らず口々に、
そう溢した藍人達
異様な光景に戸惑うのも無理はないのだが
それでも、部屋にいた彼女は
藍人達の疑問にも一切反応は示さず
それどころか
こちらを真っ直ぐに見詰めていると感じた
彼女の瞳は、よく見れば
どこか此方を見詰めたまま
瞬きの一つどころか、微動だにしない
形容し難い居心地の悪さの中
この状況に狼狽えるしかない藍人達
誰もが口をつぐむ中
この状況を唯一知る敷辺は
当然の如く、彼女に次の指示を与える
「【八六一号】、進捗を報告しろ」
敷辺の質問を受けた、【八六一号】こと彼女は、
すっと立ち上がり、淀みなく言葉を連ねる
「はい、
【八五九号】ならびに【八七八号】
が事に当たり、製造を進めており、
八割は完了しております、ですが、
先日の事故で【八七九号】が負傷
現在静養中ですが、再起は見込めないかと
その影響遅れは現在は数日ですが、最終的には
当初頂いた予定より十日程遅れる見込みです」
彼女【八六一号】の
まるで抑揚のない、無機質ともいえる報告
その中で語られた
数ある理解不能の言葉達の中
辛うじて理解出来た言葉は
彼女【八六一号】などの幾つかの数字の羅列が
彼女達を表しているという事
彼女達には、馴染みある人名はなく
聞く印象として、人というよりは
さながら“物”に近い
それも“使い捨ての消耗品”といった印象である
彼女らは
人知れず、この地下で
何かの製造に従事している
加えて“事故で再起不能”という不穏な言葉から
その作業には、大いに危険が伴うという事だ
まさに狂気とも言えるだろう
彼女らを突き動かすもの
それは一体何?
そもそも彼女らの素性は?
尽きない疑問の中
いずれにしても彼女らに
何らかの指示をしたのは、敷辺であり
状況からして、これは間違いない
そうだと仮定して、
敷辺の目的とは何か
黒石の語った
【存亡を賭ける絶望的な戦争】という言葉が
脳裏にちらつく
だが、それを藍人達が知ったのは
ほんの少し半日ほど前の事
藍人達が敷辺に【追放】を言い渡されたのだって
一日も前ではない
無論、藍人達が
単に知らされていないだけだった
という事も否定は出来ない
或いは敷辺が
何らかの妄執に囚われた
ただの狂人かもしれない
何にせよ状況的に関連付けをしてしまっているが
関係を確信しているわけではない
全ては想像の域を出ない
敷辺が説明をするまではー
敷辺は【八六一号】の報告に
短く「わかった」と、ただ答える
ここにはいない誰か
【八七九号】の負傷、再起不能
といった報告が織り込まれているにも関わらず
敷辺の声に、焦燥や罪悪感といった物は
微塵も感じられなかった
そして、次に敷辺は藍人達の前へと歩み出て
【八六一号】の側を通り、
彼女の背後にある書棚へと向かう
その際、
手に持っていた行灯を机に置くと同時に
彼女の耳元へ口を寄せて
何やら指示を与えている
囁くように、
或いは呟くように与えられた指示
この時点においてその内容を、
藍人達が知る由はないのだが
彼女は「はい」と短く応えると
藍人達へと小さくお辞儀を一つ
慌てて道を開けた藍人達の側を通り
彼女は灯りの一つも持たずに暗い廊下へと
消えていったのだった
彼女が部屋を出て行くのを
ただ見送るしかなかった藍人達
葵は、彼女の姿に怯えてしまったのか
先程から藍人にしがみつき、震えている
無理もない、
と藍人は考える
彼女の一連の所作は、
その全てが確かに人間のそれである
だが、それを肯定して尚
ふらふらとした歩き方や、声質
その全てが、彼女を“人以外の何か”だと
感じさせる物だった
不意にガタッと何かが外れるような音で
藍人達の視線は、自ずとそちらに注がれる
見ると、敷辺が
おもむろに書棚を横へと滑らせるようにして
ずらしている場面が視界に映った
そして
本棚の更に奥
真っ暗な空間が現れる
それから敷辺は、藍人達へと向き直り
二人へ目配せを送ると
まるで独り言のように呟く
「この…に私の…族…、【…】以外が入…のは
…めてだな…」
敷辺の囁きは酷く小さく
所々聞きとれはしなかった
藍人達は互いに顔を見合せ
言葉なく敷辺に続く
この時、
互いの顔に浮かんだのは
恐怖か不安か、
重ねて言うが
この先は真っ暗な部屋であり
敷辺は灯りを机に預けた
二人の視界に移るは、
背後の机に置かれた灯り
その光が差し込む帯の範囲
現時点で
かろうじて確認できるのは敷辺と
あとは暗闇のみである
“なぜ灯りを机に預けたのか?”
藍人の、その疑問に
敷辺は藍人がその疑問を口にする前に答える
「悪いが、この部屋には火類は持ち込めない
視界を得るには目を慣らす他ないんだ…」
そう言った敷辺の表情は、
確かに微笑んではいるものの
藍人には、どこか悲しげに映ったのだった