奇跡の起こし方 ⑤
長らく、長らく間空いてしまいました
すいません
葵が意図せず漏らした感嘆の溜め息
溢れた賛美の言葉
それを聞いた敷辺は、
一瞬、驚いたような表情を浮かべたが
直後、目を細めて柔らかく微笑んだ
彼女の浮かべる微笑みが
どこか寂しげに見えるのは
多分
ゆらゆらと揺れる
頼りなくも、優しい
橙色の灯りのせい
そうして、
暫くの間、藍人達は
無言のまま視線を交わし合う
沈黙
だが、今回に於ては
決して居心地の悪いものではない
それどころか、
時間の流れさえも、
ゆっくりと感じてしまう程に
とても穏やかな時間に思えた
どれ程の時間、
そうしていたのだろう
先に行動を起こしたのは、やはり
敷辺の方だった
彼女は二人から、一度視線を外して
洋机の椅子へと深く腰掛けると
再び二人へ向き直り、
「さて…」と、ゆっくりと口を開いて
彼女は藍人達へと
一つの問いを投げ掛ける
藍人は敷辺からの予想外の問いに
思わず返答に窮してしまった
彼女はこう言ったのだ
「この里を出てゆく準備は、
終わったのか?」
と
「……は…?」
藍人の口から思わず漏らしてしまった、
何とも間抜けな返事にならない声
敷辺は、
いまだ柔らかな表情を浮かべている
そんな事は、察しのいい敷辺ならば、
“藍人達が自分に会いに来た”
という事実一つで
とうに想像ついていたとしても
何一つ不思議はない
答えは簡単
「そんな事は、どうでもいい」
である
しかし、
それをそのまま口には出来ない事は
言うまでもない
何故なら、交渉や対談は
つまりは会話であるからだ
それは、あくまでも
信頼関係の元で行われる物
問いには返答をー
至極、当たり前の事
敷辺の問いに対して、
藍人達が回答を拒否した場合
彼女が藍人達の質問に答える義理は
恐らく消えるだろう
けれど
この問いはー
仮に「はい」と答えたとしよう
その場合
『指示に従い、美祭を出てゆく』
という選択をしたと捉えられる恐れがある
では、「いいえ」と答えたならばどうか
その場合には
『指示にすら従わない』となる
試されている様な
何とも言えない居心地の悪さを肌で感じる
一見、何気ない雑問だと装いつつも
それはまさに、
彼女の底意地の悪さが滲む問いだった
藍人は必死に答えを探す
だが、いくら思案を巡らそうとも、
答えは見つからず、
また何一つ浮かんではこない
藍人はそのまま、
口をつぐんでしまった
そんな時だった
「えっと…、準備はしてはいますが…
完全には終わっていません…
あと一日も、あれば…」
黙り込んでしまっていた藍人を見かねたのか
葵は少し戸惑いながらも、
おずおずとそう答えた
敷辺は葵の返答を聞くや
まるで“何とか切り抜けたか”
とでも言いたげな様子で、鼻を鳴らす
葵は胸を撫で下ろし
藍人へ安堵した微笑みを見せる
葵が返した返答
『従う姿勢を見せつつ、時間を稼ぐ』
それこそは紛れもなく最適解に思えた
途切れる会話
再び訪れた沈黙は
葵の機転で、漸くと巡って来た好機
藍人達は、少なくとも、
問いを一つ投げ掛ける機会を得た事になる
「あ、っと…」
絞り出すように発した、言葉にならない声
発言権を握る為の儀礼的な感嘆詞
その瞬間、
ふっと敷辺の視線が自分に向けられた事を
藍人は自覚する
脳裏を埋めるほどの無数の疑問達
同時に、藍人は思考を全速力で巡らせ
この機を最大限生かす問いを探す
けれど、結局は
何も、浮かばない
いや違う、
何を優先して解くべきかが
わからないと言った方が正しいか
先程と同様
沈黙は愚策だと分かるのに、
気持ちばかりが焦り
何一つとして考えが纏まらない
その瞬間だった
「…あの……」
澄んだ声が沈黙を破る
敷辺の視線はゆっくりと移り
藍人の隣にいる人物へと注がれる
思わず藍人も隣へ視線を移すと
彼女と目が合う
声を発したのは、
またも葵だった
彼女はまるで、
憔悴した藍人を安心させるかのように
弱々しく微笑んで見せると
視線を敷辺へと移し
深い呼吸を一つ、
恐らくは、知り得た事実から、浮かんだ考え纏め
敷辺と正面から対峙する覚悟をするための物
それから、
葵は無言のまま敷辺へと深く頭を下げ、
一礼
暫しの間を置いてから、顔を上げた葵は、
佇まいを正し、ゆっくりと口を開いた
「まずは…、こんな遅い時間に、
しかも、突然の訪問にも関わらず
私達に時間をとってくれた事…
先日の御心遣いも重ねて
ありがとう、ございます…」
葵が、まず口にしたのは
敷辺に対する感謝の言葉
この葵の一連の言動は
明らかな様式美である
その本質が、例えば建前論であろうとも
受取人は、その人物を
決して無下には扱えない
その証拠と言っていいだろうか
敷辺は、口をつぐんだままである
葵は、一呼吸置いてから
再び口を開いて、敷辺へ
言を続ける
ただ、
ここでも葵は、礼節を欠かず
あくまでも慎重に、である
“失礼は承知ですがー”
との枕言葉で始めた彼女は、
こう続ける
「先刻、私達は
ある御方より『ここが戦場になる…』と、
聞かされました…
私などでは想像すらもできませんが
絶望的な、状況であると…
勿論…それが本当の事であると、
確証と呼べる物は、ありません…
ですが…それが仮に全て本当の話であった時
何か打開する術を…、勝利する術を、
敷辺様は、お持ちなのでしょうか…?
もしも、お持ちであるなら、無知な私達に、
どうか御教授頂けないでしょうか…?」
葵の問い掛け、彼女は恐らく、
自分では意識してはいないと思われるが
言の最後の方、感情が色濃く現れたのか
彼女らしくはないが、少しだけ、
声が大きくなってしまっているような気がした
彼女の問いは
謙遜を織り交ぜつつ、
また、確信のない事実に対しては
決して断定的にしない
その上で、
出来るだけ的確に核心を突いた方法といえる
暫しの静寂
葵の問いに、
敷辺は口を閉ざす
ただ、敷辺は全く動じてはいないのか
未だに柔らかな微笑みを消してはいない
そうして、
どれ程の時間が経っただろうか
じりじりと焦らされているような感覚の中
漸くの後、
敷辺はその口を開き、
告げる
「対抗する方法はある
無論、私達が負ける事など、
万に一つもない」
短く、要所だけを告げた
葵の問いに対する敷辺の返答は
自信に満ちながらも、その自信とは裏腹の
覚悟にも似た何か別の感情が感じとれる
とは言えである
あの敷辺が、ここまで断言して見せた事で
藍人は一先ずの心安を得た
敷辺は、
どこか人間離れした先見の才を持つ
そして、その片鱗を、
藍人達は何度も目の当たりにしてきた
その敷辺が、
“敗北はない”と、
はっきり断言したのだ
とりあえずとは言え
安心してしまうのは、
無理からぬ話だと言えよう
だが、
そんな物は
あっさりと崩されてしまう
安堵の表情を浮かべる藍人
敷辺の返答を聞いた葵は、
そんな藍人と対照的に表情を曇らせて
「敗北は…ない……ですか…?」
と、敷辺の言葉を反芻し、
再度、敷辺へ確認をとる
敷辺は、
そんな葵へ「あぁ」と短く返す
葵は敷辺の返答を聞いて、
思わず「そんな…」と漏らして
項垂れてしまった
この二人の一連のやり取りに、漸く
二人の間に流れる不穏な空気を藍人は悟るも
その真意を理解するにはまでは至らず、
思わず首を傾げる
そんな時、
未だ理解の追い付いていない藍人の様子を
認めた葵は、藍人にこう告げるのだった
「敗北がない…って事…
それが必ずしも
勝利するって事じゃ、ないんだよ…」