奇跡の起こし方 ②
こうして、
再び立ちあがる事の出来た藍人と葵の二人が
仄暗い路地裏を抜け出し
敷辺本宅へと辿り着いた頃には
時刻は本格的な夕刻
藍人達は敷辺本宅、
その開け放たれた正門の前で
足を止める
陽はすっかりと陰り
元々高い、この季節の空の色は淡い薄青から、
鮮やかな茜色に変え
世界を美しく、または不気味に染め上げる
所謂、
夕暮れ時である
あれ程の賑わいを見せていた大通りも
皆、訪れる闇に備えて帰宅を始め
人の往来は疎らになりつつある
そんな時刻だった
美祭の、というよりも
この時代の、この国には
電気や上下水道といったインフラは
一部の都は兎も角としても、
大半の地方には未だに普及していない
維新や文明開化とは、よく言ったものではあるが
人々の生活が、瞬く間に改善されるという事はない
まして、地方に暮らす者
敷辺の様な立場のある人物ならまだしも
平民ともなれば、今の年号が慶応か明治かなど
至極、どうでも良いと思える程の変化であるのだ
近代化目覚ましい都市部とは異なり
地方では未だに昔ながらの生活が継続されている
飲み水や生活用や農業用水を、井戸水や河川に頼る
または、枯れ木や炭を燃やして、光や暖を得て、
調理にも利用する
もう一つ、この時代
都市部と地方で暮らす人々の大きな違いがある
地方では
仮に時計などあっても基準にしてはいない点だ
地方の場合、
未だ時間の感覚は希薄であり
生活の中心は太陽であり、陽の光のある内に
家事の全てを済ませる事が主である
その為、夜には、
狩りを行う者や夜警等といった者を除けば
余程の事がない限り出歩く事は者ない
そして、そんな生活をしているのは
何も普通に生活する住民だけでない
領主という立場である敷辺もまた
その例外ではないのだ
何せ、こんな時代である
蝋燭はまだ高級品とされ、
光源を取る為だけの燃料の入手は容易ではない
比較的に簡単に手に入る光源とすれば
松明や焚き火ではあるが、屋外ならばともかくとして
屋内ともあれば、論外な代物である
つまり、常識に照らし合わせてみれば
この時刻からの訪問は
常軌を逸しているとも捉えられかねない
もちろん、藍人達とて
今日のところは一度戻って、
明日にでも出直す事は出来たし
考えなかった訳ではない
今から相手にするのは、
この美祭では、絶対的な権力を有する者であり
こちらは一時的に美祭へ身を置く事を許されただけの者
言ってしまえば“部外者”である
それが、今から畏れ多くも彼女に意見するのだ
くわえて、これからする話の内容は
普段と変わらない住民の様子からしても
まだ秘匿とされている話である事は明白だ
彼女の性格からして、
知り得る限り
“事を知り過ぎたから”
といった理不尽な理由での重い刑罰
或いは
“自分の意見に反する者”
であるからと言って、
有無を言わさずの即時追放
などといった
極端な結論を下す事はないと思われるが
それを差し引いて考えたとしても
彼女の機嫌を損ねるような行為は慎むべきであり
決して得策とは言えないだろう
けれどー、
ここで引き返す事こそが、愚であり、
知ってしまった以上は
もう、何も知らないままの子供では
いられないのだー
藍人達は、どちらともなく門をくぐり抜けると、
敷辺宅の敷地へ足を、ゆっくりと踏み入れていった
二人は正門をくぐって広い庭へ入る
目的地は少し先に見える屋敷の入り口
普段通り歩いて
せいぜい一、ニ分の距離である
左右には広大な敷地が広がり
今は、誰一人として人の姿が見えず静かだが
家人達や、世話人
庭の手入れなどをする者達が
絶え間なく行き交い
隣接する訓練所からは
近衛達の勇ましい訓練の声が、
日が暮れ、暗くなる時刻まではこの庭まで響き渡っている
そこは、
他ならぬ藍人も半年に渡り訓練に勤しんだ場であり
黒石との最終試練に挑んだ場所である
藍人や葵にとっては、
何より思い入れがある場だった
と、
そのすぐ後の事だった
不意に葵が不安の声を漏らす
「ねぇ…藍人?
少し…変…じゃない…?」
藍人が思わず足を止めたのも
葵のその問いと、ほぼ同時
葵の問いに「何が?」聞き返すより先
藍人も説明の出来ない違和感を覚えていた
抱いた、その違和感の正体を探して
二人はキョロキョロと辺りを見渡すも
特段と変わった所は見受けられず
シンと静まり返る庭だけが広がっている
そうして、漸く気付く
「静か…“過ぎる”んだ…」
思わず、
そう口にした藍人
普段であれば煩い程響く勇ましい訓練の声も
行き交う世話人達の姿も
正門を守衛しているはずの門番の姿さえも
今日は見当たらない
藍人はふと葵と顔を見合わせる
葵の表情からは隠しきれない不安が滲む
藍人もまた、同じ様な表情をしていたに違いなかった
そうなのだ、
普段であれば、この位の時刻には
敷地本宅の正門は“閉じられている”はずで
万一開かれていても、守衛がいない事など
今までで一度もなかったのだ
藍人と葵は顔を互いに見合せ
言い知れぬ不安を抱えながらも
それらも必死に振り払い、意を決して歩を進めた
二人が屋敷の入り口まで辿り着くのに要した時間は、
前に述べたように、ニ分足らずだったはずだが
相変わらず静まり返った庭には、
二人の足音だけが、やけに煩く響き
歩を進める二人には、
不安定な地を歩いているような感覚で、足は酷く重く
その時間が、
まるで永遠にも思えたという
やっとの思いで入り口に到着した二人
ただ静かな中を少し歩いた、それだけだというのに
何故だか緊張してしまっていたからか
どっと疲労感が襲っていた
それでも、と
藍人は震える手を屋敷の取っ手に伸ばした
まさに、
その瞬間の事だった
「全く…ふざけるな!!!」
「…っ!!」
「っ!!」
その荒げた怒号と共に藍人が触れるより先に
屋敷の入り口である引戸はガラガラと勢いよく開かれ
屋敷の中から、飛び出すように出て来た人物と藍人は
途端に激しく衝突してしまった
「藍人!?…ちょっと…大丈夫!?」
ぶつかってしまった衝撃で
藍人と、その人物は互いに尻餅をつく体勢になる
咄嗟の事ではあったが、その瞬間
藍人は葵と固く繋いでいた手を離した為
葵を巻添えに、共に倒れる事は免れる事が出来たが、
藍人は受け身を取り損ねてしまい
藍人は尻を強打した
直後、葵はすぐに藍人へと駆け寄り
心配の声をあげる
そして、
ぶつかってしまった人物にも、
駆け寄る人影が一つ
「六太!!」
「いてて…」と、藍人とぶつかってしまった肩と
倒れた時に打った臀部を摩っている人物の名だろうか、
そう口にして慌てて駆け寄る一人の少女の姿があった
この、
六太と呼ばれた人物
その姿を訓練で見掛けた人物だが
互いに自己紹介などをした事はなく
それどころか言葉を交わした事すらない、
その為に、当然の事ながら
名前は初耳である
加えて、あの頃の藍人は
自分が強くなる事だけに必死だった為か
全くと言って良い程に余裕はなかった
それでも、藍人が
彼の顔を見覚えていた背景には
彼の見た目が、
自分と大体同じくらいの歳に見える少年である点で
そんな年齢層の人物は、近衛隊では他に見当たらず
有り体に言えば、
藍人なりに妙な親近感を感じていたからだと思われた
六太は自分の身を気遣う少女に
「あぁ、俺は大丈夫だ」と告げ
それから、藍人と葵へと視線を移してから
すぐに尻に付いた埃を払うように立ち上がる
そして、
藍人達へ歩み寄り
「悪かった…大丈夫か?」
と、謝罪を口にしながら
「掴め」と言わんばかりに手を差し出す
その手に応え、
藍人が慌てて「ああ」と口にし、差し出された手を掴むと
六太は、その腕を力強く引っ張り藍人を立たせると
頭を下げて、再度「すまなかった…」と謝罪を口にした
すると、六太を気遣っていた少女もまた
六太に添い立ち、習って頭を下げるのだった
そして、藍人と葵も
目の前の二人の、その様子に慌てて
応える様に頭を下げる
「いや、俺の方こそ…ボーッとしていたのが悪い
悪かった…大丈夫か…?」
と謝った
こうして、
漸く互いの存在を認識するに至った
二組の男女だった