自分の存在する意味
「美祭が、戦火に包まれる…」
黒石が発した単語は
その驚くほど穏やかな口調と裏腹に
酷く禍々しいとさえ云える単語だった
黒石が放った単語の意味は
正しく理解ができているはずなのに
藍人の思考が、それを拒絶し
漸くして、絞り出すようにして
「そ…れ、は…」
“何の冗談ですか…?”
との言葉が口を突いて出かかったが
寸前の所で、それを生唾と共に呑み込んだ
彼の纏う雰囲気は、とてもじゃないが
そんな軽口で返せる程の物ではなく
その瞳はまさに、真剣そのものといった物に見えた
藍人は今一度、深く息を吐き
無理矢理に冷静を取り戻す
そして、努めて静かな口調で
黒石から詳しい現況を問いてゆく
「相手は一体、誰ですか?」
「隣接する二つの里
壱識と弐彩だ」
その里の名には確かに覚えがあった
そう、それは確か…
藍人がまだ美祭に着いたばかりの時
療養期間に敷辺と蒼雲の講義で聞いた
「確か…この美祭を、まるで挟むように位置する
比較的大きな二つの里…でしたか…?」
藍人の返答を聞いた黒石は、少しだけ感嘆した様子で
溜め息を漏らすと
「その通りだ…よく知っているな」
と僅かに表情を緩ませ、
藍人に対して純粋な感心の念を口にした
藍人が得た知識では
美祭を中心として捉えた時
北に位置するのは藍人の育った宿場里と
この先にシキサイ村、
そこから時計回りに
東の壱識、南に葵の故郷である海沿いの漁村、
西に弐彩といった位置関係を示す事が出来る
藍人は、その事に気付き
思わず、苦しげに息を飲んだ
件の二つの里の位置関係を鑑みると
こちらからの攻勢はまず無理だ
どちらか一方だけに攻勢を掛ければ
その情報を掴んだもう一方に背後を突かれるだろう
かといって
同時的に両方に攻勢を掛ければ
戦力を分担した分、戦線は薄くなり
下手をすれば、どちらも抜かれる可能性を孕んでいる
つまり、戦力を惜しみ無く、
一切の無駄をなく使う方法は、ただ一つ
ひたすら“防衛戦”に徹する事だ
その場合の利点として、
まず地の利を最大限生かせるという事
何より、これが一番であろう
切り立った崖を背負う地形を持つ、この美祭は
たとえ周囲を包囲された所で、
崖の上への唯一の入り口は美祭の里の中にある
つまり、
万が一の時の退路は
既に確保されていると言っていいだろう
更に言えば、
敷辺が執る食糧政策は
正にこういう場面こそ生きるというもの
持久戦になれば
どれ程でも耐える事が出来るというものだ
だが、その反面
それは最大の欠点もある
その最大の懸念として
戦場が“美祭”になるという事は
もし守りを抜かれるような事になれば
非戦闘要員である住民に
少なくない被害が出る恐れがある点だった
何故なら、恐らく彼ら住民は
かつての住民のように、
決して“逃げない”からである
ちなみに、人口は、
壱識と弐彩が同等かつ圧倒的で
次いで美祭、
その次に詳細は不明だがシキサイ村
葵が生まれ育った漁村は、その過酷ともいえる環境から
人口も極端に少なく、村というよりは、
小規模の集落といった感じであり
その為、里の名前などは有りはしないと
葵と蒼雲が自嘲気味に語っていた
「彼らの、正義は、何ですか?」
「目的は概ね、この美祭の利得といった所か
彼らには資源が薄く、飢饉が度々起こる
それに比べて、この美祭は
元来、肥沃な地と云える事から
遥か昔、彼らは
この地を掛けて大規模な衝突を度々起こしていた…
ここはかつて、そんな戦場だったんだ…
それほどまでに、彼らは
この地を喉から手が出る程に欲しがっている…
まぁ簡単に、略奪が目的と言うが正しいな」
黒石が口にした【遥か昔の大規模な戦闘】の事
それについても療養期間に手にした文献と、
受けた講義から、藍人は知識を得ていた
そして、この時、黒石は語らなかったが
藍人の知識には、それ以上の物がある
それは、勝利を納めた、その時々の里によって
ここ美祭は度々、属里、つまりは植民地として扱われ
この美祭がかつて【奴隷の里】
と呼ばれていた事と
そして、この美祭の里の独立が
初代領主の功績だという事も
藍人は敷辺の所持する古文書から
読み解いていた
だから…今回の事は
かつての
「壱弐争乱…
美祭の地の…争奪戦…」
“その再来だ…”
「ほぉ……これも知っているという訳か…
その通りだ、よく学んでいる…本当に偉いな…」
黒石は予想外と言える藍人の知識の深さに
思わず心の底から感心した様子で
目を細めて素直に藍人に対する称賛する言葉を口にする
憧れの存在である黒石の思わぬ称賛の言葉に
藍人の心中は満更でもない気持ちが込み上げるが
全ては自分に惜しみ無く知識を与えてくれた
敷辺と蒼雲のお陰である事を思い
更には、そんな感情を抱いている場合ではないと悟り
藍人は喜びを抑えた様子で自重気味に
「いや…」と口にするのだった
そして、藍人は
咳払いを一つして見せ、
改めて話を戻す
「彼我の、戦力差は…?」
「今のところ、三対一といった所だ
元々人口に大きな差があるから…
それに、周囲に特別な伝手などない我々には
この状況の打開は見込めないだろう
むしろ、彼らは今、周辺の小規模な里からも
傭兵などを募り、戦力の増強を図っている…
決戦時に、はおおよそ五対一程になる計算だ」
「ーっ!!」
その情報は藍人を絶望させるに
十分な破壊力を持っていた
通常、拠点攻めの場合
攻め手は戦略的な見地から
少なくとも守り手の三倍の人数を要すると言われている
つまり、
黒石の、その情報が正しいとするならば
敵は、一人一人の質は
美祭のような職業兵には劣るとは云え
数の条件だけは易々と達せられている事となる
藍人達は美祭の兵の士気や練度はよく知っていて
その分、信頼をおける物として間違いはないのだが
いくら美祭の兵とはいえ、
人間である事に変わりはない
一人につき、
五人を同時に相手する事は生半可ではないのだ
つまり、
美祭の勝ち目は限りなく薄くなる事は
藍人は勿論の事、葵にさえでも
容易に想像出来てしまうのだ
そして、
藍人は震えを抑えきれないといった様子で
絞り出す
「決戦の…予測は…いつ頃…?」
「未だに有事農民徴兵の制度をとる彼らが
有象無象の者達を
本格的な戦略の戦闘をする兵へとするには
それこそ、錬成の為の実に長い訓練の時間が必要だ、
それに相手は元が犬猿の仲である二つの里…
共闘するとは言え戦闘の勝利後の利権の分配など
互いの里の主張の擦り合わせが
簡単にはいくはずもない…
外交交渉には少なくない時間を要する事だろう…
その外交交渉の進捗にもよるだろうが、
その交渉と同時並行的に行われる
行軍と戦闘の為の食糧、武器や装備の調達なども
どう考えても、一朝一夕ではまず無理だ
それらを踏まえて、
どんなに短くても五年は稼ぐ事はできるだろう
まぁ…とは言え、里の両境界地点での小競り合いは、
恐らく、今まで通り、避けようがないがな…」
「五年……」
藍人は震える声で黒石の言葉を復唱する
その決して長いとは言えない
その余命宣告にも似た言葉に
藍人は酷く狼狽え、とても動揺を隠す事が出来なかった
そして、
一縷の望みを宿し
「……戦いは…もう、避けられないのですか…?」
その、懇願するように藍人が絞り出した問いに
黒石は、その表情を僅かに曇らせ、苦笑を含んだ答えを
静かに放つ
「…ああ…そうだ…」
暗い残響を残す、その短い答えは
藍人の心を容赦なく抉り
いつの間にか
藍人は無言のまま俯いてしまった
黒石は何一つとして包み隠さずに現況を語った
淀みなく穏やかな口調で語られた情報の数々、
それらを知れば、知り得る程に
事態は、控えめに言っても、かなり悪い
むしろ、
最悪とさえ云えるだろう
藍人はそこまで考えた時に
自分の愚かさを、漸く理解した
この最悪と云える状況を打開するには、
余程の奇策がなければー
それこそ、
奇跡のような出来事がー
そこまで考え
藍人は大きく項垂れる
そんな奇跡のような策など
どれ程考えても有りはしないのだ
だからこそ、
だった
恐らく敷辺は、その事を深く理解した上で
藍人達には敢えて何も話さなかった
と、全てを知った今では、
簡単に、予測できる
“何も知らずに、幸せに生きろ”
との、無言の気遣い
実に不器用な彼女らしい
【優しさ】だったのだろう
だが、彼女のその心労は、たった今、
藍人達の愚行によって徒労へと変えられた
敷辺の気遣いは、優しさは
藍人達自身が無駄な物へと変えてしまった
そして、
自分達が美祭を追放される理由は、
今では痛い程に理解が出来た
恐らく敷辺はー
俺を、いや、
俺達の事ー
“何も知らず、どこかで幸せになれ”
と強く願ったという事に他ならず
同時に、
いや、それ以上に
“何がなんでも生き延びさせたい
自分達が守るべき掛け替えのない若者達”
と、
そう認識してくれているー
それを、藍人が認識した、
その瞬間
やり場のない悔しさが沸き起こる
抱えきれない程大きな激情を隠す事が出来ずに
それらを滲ませ、表情を歪ませる藍人
最早、叫び出してしまいそうになる自分を
奥歯を強く噛み締める事で抑えるのに必死だった
こんな穏やかな表情を浮かべて
一切の迷いなく敗北という死を、
甘んじて受け入れる敷辺と黒石
それに、今はまだその事すら気付かずに
変わらぬ日常を過ごしている
藍人達へ対し、優し過ぎた住民達
そして、これから訪れるであろう惨状を知りつつも
何も出来ない、未だ無力なままの自分が
憎らしくて、
堪らないのだ
本来であればー
俺も、
彼らと共にあるべきなのだー
それ程までに
彼らには借りがある
共に、背中を預け合い
共に戦いたいと
そう、心が叫ぶ
けれど、
自分はそれが出来ない理由がある
死ねない理由が、
藍人には、確かにあるのだ
藍人にとって、
一番大事な約束
葵との、約束がー
黒石の言葉に、浮かんで消えない“死”という絶望に
恐怖を覚えてしまっていた
正確には、
自分の死の結果に
守ると心に決めた、
葵を裏切ってしまうという事実にー
だった
藍人は血が滲んでしまう程に
拳を握りしめ、決して言葉にならない悔しさを滲ませる
それは、
藍人の心に浮かんでは消える言葉からくる
自分に対する耐え難い憤りだった
藍人の心に浮かぶ
“逃げる”という一つの選択
そんな藍人の心中を深く察したであろう黒石は
大きな溜め息を一つ吐くと、
藍人の心に浮かぶ言葉を否定するように
まるで諭すように一つの答えを
藍人へと示した
「お前達は……ここで終わる必要はない…」
と
その黒石の言葉に藍人はハッと顔を上げると
黒石は、寂しげに笑って見せ
「勘違いをしてはいけない…」と切り出した
そして、それから、
こう続けたのだった
「美祭の、この先に待つのは、
紛れもない修羅の道だ…それこそは
優し過ぎるお前達にとっては耐えられぬ地獄だ………
藍人、お前はきっと
“戦争は、死ににいく場”だと考えているだろうが…
戦場は死にに行くための場所では決してない
人を殺しに行く場所なんだよ…
人殺しとなる事は、死ぬ事より
遥かに辛い事なんだ…
それは、たとえ「誰かを守るため」だとか
どう理由をこじつけ、いくら免罪符を得たとしても
人を殺すという行為そのものは、
決して許されぬ大罪に他ならない
それは、恨みからくる殺意とは一線を画し
何故殺すのか、何故殺されるのかなど
そんな事を考える暇など戦場にはない…
ただひたすらに、相手を殺す事が“当たり前”であると
そう自分に言い聞かせ、
目の前の相手へ武器を振り降ろすのみの存在となる…
その相手がどんな人生を歩んできたのか、
どんな人が帰りを待っているのか
そんな事など、考える余裕などもない
一瞬でも躊躇い、立ち止まれば、
瞳は濁り、視界が曇る
結果、待つのは自分の死だけだ…
そして、もし、そこで死ねば
自分を待つ者の涙だけが残る
お前は先程、“相手の正義”と聞いたが、
そんな物は、有りはしない
そこには、誇るべき正義も、語られる美談もない
ましてや称えられる英雄などもいない
全くの意味のない、犬死になんだ…
それは、正に、この世に具現した正真正銘の地獄、
そのものだ…
誰も死なず、殺さず、誰も傷つかない、
そんな戦場など、この世のどこにも有りはしない様に
そして、その戦闘の規模に関わらず、
一つとして例外などなく、少なくない犠牲者が出る
野を、地を焼き、人の里を破壊し、
戦いの後に残るは、死体の山と、焼け野原だけだ…
生ける者を残さず根絶やすまで決して終わりはない
どちらかが根をあげるまで、
戦いは絶え間なく続いていく…
それが………戦場………なんだ…」
黒石はそこまで口にして、
一度言葉を切った
そして
「藍人…お前は、本来の目的を忘れてはいけない…
俺や美祭の者達が、お前に教えた武術の数々
そして、生きる為の知恵は
お前を殺人者にする為の物ではない
それ以上に、ここで死なせる為の物じゃない
この先を、未来を、生きてゆく為の物なんだ
まして、お前は、美祭の兵などではないだろう?
ここは、お前達の戦場ではない…
お前が命を掛けて守るべき者は…
今、隣にいる者だけでいいはずだ…」
黒石が、ひどく優しい口調で口にする言葉達は
藍人と葵、二人の心に優しく響き
心を大きく揺さぶる
その証拠に
葵は先ほどから口を抑えて、声を圧し殺して
込み上げる涙を、止めどなく溢れさせている
そこまで言い終わると
黒石は、やっとの思いで立っている
二人へスッと背を向ける
そして、最後だと言わんばかりに
藍人達へ向けた言葉を、背中越しに贈るのだった
「前へ進め、未来ある若者達…
ここではない場所へ、
ここは、お前達の旅、その終着点じゃないはずだ…
お前達にとって、ここは、その長い人生の中
あくまで、旅の途上に立ち寄っただけの
そんな場所に過ぎないのだから…」