迷い ④
通りの喧騒を抜け出した路地裏
昼下がりでとはいえ、まだ陽は高いものの
ここはどことなく薄暗く、
少しだけ肌寒くさえ感じる
治安が良いとはいえ
どこか言い知れぬ気味の悪さは拭いきれず
大多数の人々は無意識の内に、
こんな場所は避ける
その為か
普段よりこの路地を使う者など、
ほぼ皆無だ
故に
その路地の存在は誰もが意識などは向かず
自然と認識は薄まり、
たとえ、その存在を認知している者でさえも
何か特別な目的がなければ
気に留める者の方が珍しいとさえ言える
例えば、意図的に【人目を避けようとする者】や
そんな場所を重点的に【見回る者以外】等だ
「場所を変えよう」と提案した黒石が
迷わず選んだのは、そんな場所だった
対峙する、黒石と藍人、葵
黒石は、終始いつもと変わらぬ
優しい笑顔ではあるのだが
それが、
逆に意図的に思考を読ませないようにしている様に見え
いつにも増して恐ろしくも感じてしまい
容易に口を開くのも憚れる雰囲気である
藍人や葵が思わず躊躇してしまい
口をつむんでしまう事も
無理からぬ話だった
けれど、今、
問わなければならない
ここで黒石から
何か実益のある話を聞けなければ
その後に面会を求める予定の敷辺に詰めよったところで
適当にはぐらかされて終わりになる未来が
簡単に想像出来てしまうのだ
この機会が全くの偶発的か、
或いは悪辣な意図か等と
この時点で判別が出来ないが
少なくとも物理的に人払いをした黒石には
何か重要な事柄を話す意思があるという事に
間違いはない
そしてそれは、
恐らくは、敷辺と黒石を含む
ごく限られた人物しかまだ知らない、
いや、他に知られてはならない事柄というのが正しい
この機を逃せば、
こんな絶好の機会は、多分
もう巡ってはこない事だろう
けれどー
それを知る覚悟が
自分には本当にあるのか?
敷辺が全く何も考えずに口を閉ざしたとは
到底考える事が出来ない
ならばー
何も知らない
馬鹿でいた方が幸せではないのか
様々な感情が着地点を失い
藍人の脳裏を駆け巡り、どろどろに混じりあったそれらは
総じて藍人が口を開く事を強く拒む
浮かんでは消えるのは言い訳の言葉達
“仕方ない““しょうがない”
そして”怖い”
固く決心したはずの心は
こんな一つの予想外の出来事で
簡単に揺らぐ
そして、同時に
沸き上がっていた激情が
ゆっくりと熱を失っていく
全身の緊張感が徐々に抜けるのを実感する
いつの間にか俯いていた
藍人の視界には
だだ、冷たい地面が映るのみ
暗く長く沈黙の後
「もういいです」との諦めの言葉が
口を突いて出かかった
まさに、
その時だった
「どうか……理由を教えてください!!」
重苦しい沈黙を破り
少女は声を張り上げる
「私達が…ここを追い出されなくちゃならない理由を…
どうか、教えてください!!」
すぐ横から突如として発された声に
藍人は心底驚き、視線をそちらに向けると
その視線に気づいた葵もまた、
それに応えるように藍人を視る
瞬間、藍人はハッとする
その怒りや悔しさを孕んだ葵の瞳
紛れもなく、あの悪夢で見た強い意思を孕んだ瞳だった
藍人が逃げる事を、諦める事を決して許さない
そんな感情を含む、優しく、また厳しくもある瞳
その澄みきった瞳に写りこんでいるのは、
今回も実に情けない表情を浮かべる藍人の姿だった
言葉を失ったままの藍人に
葵はふっと優しく、微笑む
そして、
葵は、藍人と繋いだままの手をしっかりと握り直すと
はっきりした口調で、こう口にしたのだった
「…諦めないで」
と、
その瞬間に藍人の中で行き場を失い
ただ駆け巡るだけだった様々な感情達は、優しく解けて
不思議とあるべき場所へと収まってゆく
恐れや、躊躇は消える
代わりに沸き上がるは怒りや憤りなどではない
変え難い安心感だった
繋がれた手から伝わる優しい温度
決して一人などではないという揺るがない確証が
藍人を今回も奮い立たせる
全く、俺は何て
「情けない奴だ…」
彼女の、たった一言で悟る
勝手に守っていた気になっていた
だが、守られていたのは自分もまた、
同じだったという事に
改めて思い返せば、これまでもそうだった
何度も、本当に何度でも、
藍人が気付いた時
彼女は常に側にいた
無作法ながら失意の底にいる藍人を
時に励まし、時には鼓舞し、そして慰めた
藍人が弱った時には、
彼女は決まって側にいる
実にかけがえのない存在
葵は不器用ながら、
それを正しく自覚し、故に真っ直ぐに
ただ愚直に、無作法に
藍人だけを愛し続けたのだ
今の葵は決して、
守られるだけの、か弱き者ではない
たった今、少なくともこの時には、
葵の心の強さは
恐らく藍人にすら勝っているのだ
藍人は、そんな葵の気持ちを
何一つとして余さず受け取り
そして、葵へと一つ、
柔らかい微笑みを返す
そして
黒石へと視線を移す
真っ直ぐに
ただ真っ直ぐに黒石を見つめる
すると、
これまで一部始終を相変わらず笑顔を浮かべて
全てを静観していた黒石は
藍人の表情から、その覚悟を悟る事が出来たのか
表情をフッと緩ませて、静かに瞳を閉じる
そして、暫くの間の後
ゆっくり口を開き
告げるのだった
「お前達が追放される理由は…
間もなく、この美祭が戦火に包まれるからだ」