迷い ②
藍人と葵、蒼雲の三人は
この美祭の地で身を寄せていた敷辺別宅にて
この地を離れる為の身支度を
黙々と進めている
そこに流れる、極めて重苦しい空気のなか
三人は実に事務的な、
例えば「これはどうする?」
「それは…持っていこう」
など以外、言葉を交わす事は
ほぼ、ない
敷辺から与えられた
美祭を出る準備の為の猶予は
僅か三日間のみ
突如として敷辺から言い渡された『追放宣言』
そして、その残された時間の、あまりもの短さに
藍人と葵は酷く狼狽し
「どうして!?」
と声を荒げて問う藍人に
敷辺は、何とも悔しそうな、
それでいて悲しげな表情を浮かべるだけで
明確な理由を語る事はなかった
そしてその追放の通達は、
直後、二人から少し遅れて執務室に現れた
蒼雲にも告げられる事となり
その後
藍人と葵、蒼雲の三人は
反論どころか、意見の機会すら与えられず
敷辺が部屋に呼んだ使用人達によって
半ば強引に別宅に戻され、今に至る
三人の予想に反して
準備には、思いの外
時間が掛かっていた
元々、手荷物の殆どを
藍人がいた里から脱出した際に
偽装として置き去りにした為
日用品と呼べる物は少なかったはずだった
だが、その分、
それを不憫に思った美祭の住人達は
思い思いに着物や日用品を寄贈してくれた為
恐らく、葵達が自宅から持ち出した元々の荷物の量より
遥かに大荷物へとなってしまっていたのだ
それだけでも
非常に有難い事なのだが
更に驚くべきは、
贈られた着物や日用品の品質だった
それらは決して使い古しの不要品などではなく
着物一つとっても、
どれも新品同様の品であったり、
彼らにとって思い入れのある
特別な品だった事がうかがい知れる程に
手入れが行き届いた、まさに逸品だったりと
全て上物と呼べる物であった点だったのだ
彼らは葵達が美祭へと到着し
葵達の、その泥や汚れにまみれた姿を見るや否や
誰に指示された訳でもなく、つまりは自発的に
各々、家から着物や日用品を持ち出し
それらを惜し気もなく葵や蒼雲へと差し出したのだ
持ち寄られた数多くの品々を
葵達は初め「申し訳ない」と断ったが
「私らが、勝手にした事だから」と
彼らの勢いに押し通される形で、
結果的に、それらを葵達は受け取る事となった
更に彼らは、品物の代わりにと蒼雲が差し出した
金子を決して受け取ろうとはしなかった
そして、
彼らは口々にこう語ったと
後に葵達は、実に誇らしげに笑う敷辺の口から
聞かされる事となった
「年頃の娘に、みすぼらしい格好なぞさせられない」
「私らに出来る事は、これくらいしかないからな…」
「それに、着物ならば、いざと言うとき
食べ物へと変える事もできるしな…」
と
その後、
ようやく準備も終盤に差し掛かった、その時
藍人が不意に視線の端に、
こちらに背中を向けて身支度をしている葵が映る
準備を進めていたはずの葵の手は
いつしか止まってしまっていた
明らかに様子のおかしな彼女に
疑問をもった藍人は「何か、手伝おうか?」
と言いかけたが
藍人は咄嗟にその言葉を飲み込んだ
固まってしまっている葵の手には
住民から贈られた物であろう
鮮やかな色の着物が握られていたのだ
恐らく、この時の葵の脳裏には
その着物を送ってくれた住民との
何気ない会話や思い出が溢れている事は
想像に難くない
藍人が思わず言葉を飲み込んでしまった理由は
他にもある
それは、
葵の、その小さな肩が僅かに震えていてる事に
気付いたからだった
その様子から、恐らく葵が声なく涙を流している事が
その表情を見なくてもわかるのだった
瞬間、
悲痛にまみれた葵の心が伝わってきて
無理もない事だと藍人は考える
そして、
思い出す
自分達が、この美祭で過ごした
一年にも満たない短い時間の間の事を
彼等から貰った物は
何も、着物や日用品等だけでない
生きる為の知恵や教養、ありとあらゆる技術
人としての最低限の心得や、他人に対する敬意、
その生の尊厳など…
思い付く限りでさえ、挙げ出せば、
到底数える事など出来ない
それに、何より
見返りを求めない、溢れんばかりの優しさと
何にも替えがたい思い出の数々も
藍人達の心に贈られた物だった
瞳に焼き付いた鮮やかな光景は
ありふれた日常の、何でもない一言でさえ
何一つとして、色褪せず
瞼を閉じるだけでも鮮明に思い出す事が出来た
その事からもそれらが、
何より大事だったと藍人には自信をもって言える
そして、
この先も、葵達と、
ここ美祭で幸せな日々が続いていく
当たり前に訪れる明日、
そして明後日と続いていく事を
疑うはずもなかった
だからこそ、
それと同時に思い出す
自分達に″追放″を告げた時の
敷辺の、あの悲しげな表情をー
敷辺は一体
どんな気持ちで、追放を口にしたのかー
と
藍人はいつしか込み上げてきていた激情を
歯を食い縛る事で、無理やりに押さえ込む
そして、
藍人は確かな決意を持って、静かに立ち上がり
何も言わず、無言のまま部屋の出口へ
ゆっくりと、しっかりとした足取りで歩きだす
藍人の足が
部屋の出口に差し掛かった、
その時、
「藍人…?待って!…どこに…ー」
ただならぬ雰囲気を纏い
どこかに向かう藍人に気付いた葵が
震えた声で藍人を必死に呼び止める
この時
″もう、置いていかないで″
と彼女の心は叫んでいたと思うが
それを葵が口にしなかったのは
葵が藍人の事を真に想い
困らせたくないとの思いだったからだと思われた
その彼女の、必死で悲痛な訴えは
藍人の耳に確かに届き、
藍人は部屋の出口で足を止める
″敷辺に、自分達の『追放』の理由を
敷辺に問い詰めに行く″
それが葵の問いかけに対する
藍人の答えだった
あの時、敷辺は追放の理由を
敢えて語らなかったのだと思う
それは何故かー
これまでの敷辺の言動一つとっても
無意味な事がない事から、今回の件が
彼女の、ただの気まぐれなどではない事だけは確か
理由はきっとある
藍人が知る敷辺は
実に聡明で、何より優しく、
それでいて甘い
藍人が考える可能性として
大きくは二つ
一つは追放理由を語らなかったのは
それ自身が藍人や葵達を傷つける事だった場合
つまりは単純に藍人や葵、蒼雲が
邪魔になった場合である
この美祭に於いて
藍人達は、まだ客人であり
労働は免除されている
養うには食糧を浪費するが
これから迎える冬の季節、実りはなくなり
夏や秋で蓄積された蓄えを浪費するだけの季節
ただでさえ生産性のない彼らを、これ以上養う為には
住人達の取り分を減らすしか方法はなくなり
その場合、今後
住民から不満がでないとは言いきれないのだ
そしてもう一つは
藍人達には、語れない事情がある場合だ
思い当たるのは、藍人が祝言の時に感じた違和感
忌み嫌われたはずのシキサイ村の信仰について
敷辺は恩恵と語った
つまり、藍人達には知らされていない事情があり
それらが関係した何かシキタリのような物がある場合
或いは、
その他の何かー
と、すれば、
以前の藍人なら、前者の理由の場合
葵の心を少しでも傷つけるかもしれない可能性が
ほんの僅かにもあるならば
藍人は、彼女の同行を許さなかった事だろう
″自分だけが傷ついて済むならばー″
と
しかし、
藍人がこの時とった行動は
恐らく、葵や蒼雲にすらも予想外だった事だろう
その証拠に
藍人が振り返ると
そこには、葵が諦めたように俯いていた
藍人は、ゆっくりとした足取りで葵の元へと歩み寄ると、
葵へ向けて手を差し出し、無言のまま
ただ、優しく微笑みかけたつもりだが
この時、ちゃんと自分が笑えていたかは
藍人は自信を持つ事ができなかった
後にして思えば、差し出した自分の手は
少し、震えていたとさえ思われる
恐らく、これから知る事は
少なからず葵の事を傷つける事となるかもしれない
その事を思い浮かべれば、
葵は、自分が傷付く事を恐れ
藍人の差し出した手は
葵に拒絶される可能性すらあった
藍人には、何より
それが怖かったのだ
藍人の突然で予想外の行動に気付き、
藍人の顔を見上げた葵の顔には
少しだけ戸惑いの色が浮かんだが
次の瞬間には
葵は、その表情を、
心の底からの喜びの笑顔に変えて
震えながら差し出された藍人の手を、
一切の迷いなどなく、しっかりと掴んだのだった