忘れられない日 ②
羽織袴に身を包んだ黒石は、
再び敷辺家本宅の長い廊下を歩いていく
黒石は、時折振り返り
「何をしている?早く行くぞ」や
「恐らく、もう皆集まっているはずだ」
等と、
少し後方を歩く人物を
急かすように呼び掛ける
黒石に声を掛けられた人物は
「わかってますよ……でも…これは…」
と、辿々しく返し
視線を忙しくキョロキョロと泳がせ、
オドオドとしていて、何とも頼りなく
その実、酷く落ち着きがない
その人物の、あまりにも情けない姿に
黒石は溜め息混じりに叱咤の言葉を投げ掛ける
「もう少ししっかりしろよ…
ここまで来たんだ、
今更、引き返せんのだから
そろそろ肚を決めろ」
「………」
黒石の的確な指摘に、返す言葉がなく
その人物は俯き無言で歩き出す
その人物こそ、黒石と同じく
羽織袴を身に纏った藍人だった
この少し前
掌の治療を終え、
窓のない暗い部屋に移動した二人
そこで、
不安げな表情を浮かべる藍人に
黒石が自慢げに見せた物
彼が大事に抱え、持参した包みの中身こそ
今、こうして、
藍人が着用している羽織袴だった
彼は戸惑う藍人の着物を、
一瞬の内に剥ぎ取ると
あれよあれよの間に
藍人に自分が持参した羽織袴を着付けた
その際、彼は、
困惑した表情を浮かべる藍人に
実に慣れた手つきで、袴を着付けながら
「本来ならば、お前のこの姿を
〃彼ら〃が一番、見たかったはずだが…」
と目を細め、
小さく、呟いた
そうして、
無事に着付けが終わり
黒石はゆっくりと立ち上がり
藍人の姿を一通り確認すると
その出来に満足がいったのか
「うん、良い」
と、実に満足げに短く口にした
この時、何より藍人を驚かせたのは
黒石が用意した羽織袴、その寸法である
まるで、
事前に細部まで測って作られたかの様に
袴の丈や、羽織の腕の長さや肩幅、
肌襦袢、長襦袢の寸法に至るまで
藍人の体格に完全に一致していて
それは逆に、
何やら言い知れぬ、
不気味さを、
覚えるほどだった
そして、その後
黒石は巫女姿を模した二人の女性を
部屋に呼び込み
部屋に現れた清廉な佇まいの女性達は
藍人に化粧を施し、
御祓と称して祝詞を唱える
その時、藍人に施された化粧は、
一口に化粧といっても、
髪を整え、湿らせた清潔な布で顔を拭い
血色を抑える為に、薄く白粉を乗せる程度の
ごく簡単な物だった
この間、目の前の慣れない状況に
藍人は狼狽えっぱなしだったものの
黒石は、そんな藍人の内心を的確に察し
藍人を優しく先導し、補佐する事で
女性達が部屋を後にするまで
何とか事なきを得る事が出来た
ちなみに後の黒石の捕捉ではあるが
この三祭に〃公衆相手〃の
神社仏閣の類は存在しないという
すなわち、この女性達も
本職は巫女などではなく、
敷辺主宰の重要な神事の時限定の者
普段は、この屋敷に勤める使用人に過ぎない
そして、使用人の中で、
若く、未婚で穢れのない、無垢な乙女が
代々に渡り、敷辺の命で指名され
兼任しているらしい
敷辺に任命されるという事は
彼女らにとって、
この上なく名誉な事であると同時に
重要な神事に於いて
決して失敗の許されない重圧を負う事を意味する
或る者は重圧に耐えきれず、錯乱の後に自ら命を絶ち
また或る者は、任命された事を鼻にかけ
周りを蔑み、果てに罪を犯す者さえあったという
が、それでも
三祭に生を受けた女性は
誰しもが、必ず一度は憧れを抱く程に
この三祭に於いて、巫女とは
間違いなく羨望の的となる職だった
その女性達が、二人へ
「本日は、誠に、おめでとうございます」
と揃えて口にし
深々と頭を下げ、部屋を後にする
それにしても、と
その姿、佇まいと云い
先程の一切淀みない所作と云い
どれを取って見ても
本職の巫女様と比べても
一切見劣りはしない
それは、
敷辺の徹底した教育の賜物であり
また、彼女達の弛まぬ努力の証だ
彼女達が去り、
部屋には黒石と藍人が残された
黒石はスーっと深く息を吸うと
藍人へ優しく微笑みかけ、
静かに告げる
「行くか…」
と
こうして、
藍人は彼の後ろに付いて廊下を歩く
彼から目的の場所は、
まだ知らされてはいないものの
その場所が、
それほど遠くない事は
今、建物の出入口から離れつつある事や
先程から廊下の左右に総出で整列し
深く頭を下げたままの使用人達の存在が知らせている
二人は長い廊下を渡り、屋敷の母屋を抜ける
普段は誰も出入りしていない奥庭にある渡り廊下を渡り
二人は、本宅最奥の離れにある
一際、異彩を放つ建物に辿り着く
そこは三祭の中でも、特に
人の出入りが厳しく制限された場所
普段ならば、辛く長い禊を終えた者と
代々の領主が認めた者のみ
立ち入りが許された正真正銘の聖地だと
後に黒石は語っていた
幾度か、この本宅を訪れた事がある藍人が
この施設について、その存在を知らないのは
その為だと思われる
現れた建物は一見すると
それほどの大きさはないが
目を惹くのはその景観だ
よく観察すれば経年の古さが見てとれるものの
管理が行き届いているのであろう
見る限り一切の汚れはない
目を惹く特徴的な鋭く反り上がった屋根の四隅には
金物や瓦でなく長い時間を掛けられた
反り木が使われている
宗教的な意味合いを持つ建物である事だけは確かだが
この国の、どの神社仏閣とも一線を画す、この造りは、
恐らく、その教えが土着由来の物だろう事を意味する
その建物の入り口の
観音開きの重厚そうな扉の上部の枠には
鳥居の様な紋様が象られた彫りがあるが
その鳥居の色は不自然なほどに黒く
それが意図的に染められた事を強く印象付けた
そして、扉本体に目をやると
細部に至るまで様々な彫り装飾が施され
金や銀といった派手な造りでないものの
それに勝るとも決して劣らない、荘厳たる佇まいは、
思わず息を呑んでしまう程の存在感を醸し出す
この時、
藍人をとてつもない場違い感が襲っていたが
黒石の言葉通り、
ここまで来ておいて、
今更、もう後戻りは許されない
気付くと、
扉の前には先ほどの巫女の姿の女性達が、
こちらに向かって深々と頭を下げている姿が目に入り
藍人も慌てて応える様に深く頭を下げる
その後、
拝礼から治った女性達の手によって
扉は大きく開かれ
「っ!!」
その先に広がる光景に
藍人は思わず息を飲んだ