第二十八話・少年はナイフを刺した
「い、いてて……」
黒髪の少年はゆっくりと頭を持ち上げた。
慎重に目を開ければ、埃と湿気で満ちた船内が瞳に写る。
どうやら布や網を重ねた上に落ちたらしい。
シオンは甲板に上がる階段へと向かう。
ひょっこりと顔を覗かせると、黒いマントの相棒と視線が交わった。
「おーい! ヴィー!」
「シオンッ、ケガはないのね!?」
焦った様子で叫ぶ背後で、何かが霧を伴って現れる。
「お待たせ」
その女性の顔を見て、例外無く少年も動揺する――しかし即座にナイフを抜き、彼は甲板に躍り出た。
警戒心で細まる金色の目に、魔女・リリスは優しい微笑みを向けた。
甘やかなそれに、なぜかシオンの背筋は冷たさを覚えた。
少年の足元でごぽりと影が泡立つ。
瞬時に樽に手を置き、シオンはその場から跳ねた。
孤独の悪魔に霧の鎌を振り被りながら、魔女は不機嫌そうに首を傾ける。
「あら、良い勘ね。でも……遅かったみたい」
彼の腰を影でできた手が掴む。
呆気に取られた顔は、強い力で船外へと投げ出された。
混乱する頭で、それでもシオンは叫んだ。
「俺のことは気にすんな!! 良いな!?」
赤いバンダナがひらひらと落ちていく。
そちらに手を伸ばした少女のふくらはぎを、黒い霧が刺し貫いていた。
がくんと悪魔は片膝をつく。
(……やはり手加減してたのか)
「――可哀想」
同情と歓喜の混ざった声音が背中を撫でる。
「ここでは全力を出せないのよね、確か」
孤独はぐっと下唇を噛んだ。
その通りだった。
世界全体のバランスを取るためか、召喚された悪魔は弱体化される。
少女の両肩に華奢な手が置かれた。
楽しげにリリスが耳打ちをする。
「また、お友達を助けられなかったわね?」
孤独の悪魔の脳内に、救えなかった親友の顔が浮かんだ。
愛しい子供達と、親友の妻とは直接話をした。
しかし巨人ノアとは、もう会う術など存在しない。
(なんで……)
――彼らは自分のことなどを慮るのか。
(そんな価値は無いと、私が一番知っているのに)
海中に落とされた少年は、冷静に海面を目指して足を動かす。
ふと、何かが迫ってきていることがわかる。
(? 遠くが暗くて良く見えねぇな)
念のためナイフ握りしめる。それはすぐに姿を露わにした。
その巨体は真っ白な骨でできていた。
(鯨?)
悠々と泳いでいた骨鯨は、突如として速度を上げ――シオンの脇腹に突進する。
気泡が少年の口から漏れる。
押し上げられるままに、少年は海上へと突き上げられた。
「この……っ!」
骨の隙間にしがみつくも、巨大な骨は間髪入れず、シオンを上下の顎で挟み込む。
「ぁか、はっ」
潰すのが目的では無いようだが、息継ぎもままならない状態で海に引きずり込まれた。
そのまま骨鯨はゆったりと泳ぎを再開する。
少年は必死でナイフを突き立てた。
ぴきっとわずかに表面が削れていく。
このまま続けても、彼が意識を失う方が早いだろう。
不意に、シオンの脳裏に浮かんだ言葉。
それは煉獄で再会した強欲の悪魔に言われたものだった。
――他にどの手段も見つからない時、そのナイフでお前が『一番変えたいもの』を刺すと良い。
(確実に、追加代償がかかるはずだ……)
だとしても、この状況を脱する必要がある。
少年は『一番変えたいもの』について思考を巡らせた。
そもそもだ。
彼がこの旅を始めたのは、強欲の願いと自分の夢を叶えるためである。
これまで残されなかった歴史を書き尽くして、この世の果てまで届かせるという夢。
それも全て、幼い自分が覚えたあの寂しさを、感じる人が一人でも減るように。
(それができると示してくれた彼女がいたから)
ならばシオンが一番変えたいのは、それを阻む法か、この世界自体か。
――否。
(俺が、この世で一番変えたいものは)
少年は強欲のナイフを、自分の胸に突き刺した。
痛みと熱が広がっていく。
暗い海の中に、一筋の赤い軌跡が描かれた。
(俺は……自分が嫌いだ。かつて、何もできなかった弱い自分が嫌いだッ!)
シオンは鋭い目に涙を溜め、ナイフをさらに埋めていく。
(だから変えたい! 自分を……自分のことが嫌いな俺自身を!!)
その時――薄紫色の鎖が彼を覆った。
包み込まれていく最中、少年は自然と目を閉じていた。
骨鯨は突然の異変に動きを止める。
静寂が支配する海中で、鎖が黒く染まり、その表面にヒビが入った。
「思ったより、早かったな」
そんな声と共に、鎖の破片が辺りに散らばる。
衝撃で標的を逃した巨体は、先ほどとは違う姿に気がついた。
――少年がいた場所に、一頭の鯨がいる。
青黒い体をくねらせ、それは骨鯨に激突した。
化け鯨は衝撃でいくつかの骨を飛ばしながら、逃げるように尾びれを上下させる。
構わず、倍はある体積で鯨は追撃した。
先ほど少年がされたように、骨鯨は空中へと投げ出される。
ふと下へ意識を向ければ、海面に鯨は見えない。
その代わりか、黒い体毛の狼が歯茎をむき出しにしていた。
「ヴゥゥ……バウッッ!」
落下してくる骨の塊に吠えながら、狼は水面を蹴って走る。
一歩先へ進むに連れて、その体は大きく膨張していく。
遠くに見える幽霊船と同じ大きさになった瞬間、黒い狼は骨鯨を噛み砕いた。
辺りに骨片が舞い散る。
徐々に強大な狼の姿は解けていき、獣耳と尻尾を持った少年が現れた。
海面に立ったまま、それは人間の方の耳を落ち着かなそうに触っている。
不意に脳内で声がかけられる。
『暴食?? ありがとうだけど、どうしているんだ?』
「別に、水上戦なら俺の方が適任だ」
『そうじゃなくて、俺は強欲のナイフを使ったのになんでアクルトが?』
「……簡単な理由だ」
はっと暴食の悪魔が笑う。
「あんたとの契約を、俺の意思でまだ解いていない」
頭の中の少年が黙り込む。
マスターとの契約が切れても、自らの意思で地上に残った悪魔は知っているが、彼の言うことはすぐには飲み込めなかった。
『おーん……アクルトって結構俺のこと好いてくれてたり……?』
「それはどうだかな」
シオンに憑依したまま、悪魔は肩をすくめた。
ふと、彼の体は幽霊船の方を向く。
悪魔の視界では、魔女に膝をつき頭を抱える者の姿が見えた。
気がつけば、喉から言葉がこみ上げていた。
しかしそれを吐いたのはシオンでも、おそらくは暴食の悪魔でも無かった。
舌の上を滑ったそれは、どこか懐かしく苦しい響きをしていた。
「――――父さん!!」
赤いバンダナから水滴がこぼれる。
その一滴が海に返るよりも早く、孤独のアダムは剣の柄を握り締めた。
届くはずもない距離であったのに、
「えっ」
魔女の左腕が床に転がり落ちる。
惚けた表情の彼女へと、悪魔は剣を振り下ろした。
迫る剣先と、自分に対して立ち上がるアダムを見て、魔女は心底嬉しそうに笑った。
一方、海面に立っていた少年の足元がぐらつく。
『うぉ』
「時間切れか……」
シオンの右目が白い炎で覆われる。
痛みに歯を食いしばりながら、彼は海中へと沈んで行った。
『早く代わってくれー!』
わかっている、とは思いつつも、暴食は主導権の交代に手こずっている。
自分の精神同期を切れば良いという話ではないのだ。
やっと少年が自分の意思で指先を動かした時には、随分と深くまで沈んでしまっていた。
上に向かって泳ごうともがいていると――一筋の光が差し込んだ。
真っ白なそれはシオンに手を差し伸べる。
(ああ、いつもいつも……救ってもらってばっかりだ)
ふっと微笑んで、少年は銀髪の少女の手を取った。




