幕間・報われない攻防戦
まだ古き世界が健在だった頃の話だ。
原初の人類が片割れ、イヴはその日とある夢を見た。
濃霧の中を歩く、ただそれだけの夢。
どちらが前か後ろかわかったものではない。
彼女は漠然と足の進む方を目指した。
不意に、黒い霧がイヴのことを覆った。
驚く彼女に暗闇から何かが語りかける。
『なぜ』
声というよりは、直接こちらを揺さぶるような思念。
『なぜ、お前なの』
「……あなた」
『あのヒトを最初に見たのは、触れたのは、包んだのは私なのにッ』
彼女は何かの正体に気がついた。
誰も暮らしていない土地で夜を管理する者。
「そう、あなたが夜なのね」
イヴはきつく拳を握り締め、すぅと息を吸い込んだ。
「あなたの言うことは事実だわ――でもね」
夜の魔女が言うのが原初の人類を、アダムを指すことは直感でわかった。
「彼が最初に自らの意思で見たのは、触れたのは、選んだのはわたし。あなたじゃないのよ」
瞬間、硬い刃のようになった霧が、イヴの頬を肩を太ももを切りつける。
夢とは思えぬ痛みにも構わず、彼女は言葉を重ねた。
「そんなに欲しいなら、あのヒトに直接言いなさい。一つ、予言してあげる。彼じゃなくてわたしに言ってる時点で、彼があなたを選ぶことはない」
『黙って聞いていれば……好き勝手に言ってくれるじゃないの』
黒い霧はイヴの、女性の形を真似て、彼女と目を合わせた。
夜の管理者に対して。原初の母は手を伸ばす。
「寂しいの?」
『は、はぁ?』
戸惑う顔に体温のある手を触れて、イブは優しい瞳に魔女を写した。
深い、深い緑色に歪んだ顔が反射する。
『……やめろ』
「夜は静かですものね」
『やめろっ!』
悲痛な叫びと共に、両者の姿は霧で消え失せる。
『他ならぬお前が私のことを憐れむな!! 夜は、夜は、均一に平等に覆う全てを愛しているのだ!! なのに、どうして……お前がこんなにも…………――憎くて憎くて堪らない』
か細くなる思念に口を開いた途端、短い夢は終わった。
そしてあの運命の日。
一匹の蛇が地面を這っていた。
それは禁断の「実」をイヴに勧めた――神罰で裁かれた蛇のつがい。
この世界に疑問を覚えた生き物。
蛇に行くところも、行きたいところも無かった。
獣の直感でか、もうすぐ自分が死ぬのは理解していた。
強いて後悔を挙げるなら、今空腹だということと、子孫を残せなかったことだ。
そんな蛇に語りかける者があった。
冷たい声でそれは言うたのだ――手を組まないか、と。
蛇はとある墓まで訪れた。
指示されたとおりに、こっそりと潜り込み、依然として形がある遺体に触れる。
ボコリと土が盛り上がり、イヴの右手が地上に現れた。
墓穴から抜け出たそれは数回発声してから、顔に合わない笑みを浮かべた。
「――私の例外は、あのヒトだけで良いの」
イヴの左腕には黒い蛇の刻印が刻まれている。
どうやらそちらは主導権が違うらしい。
一瞬、それは顔をしかめた。
しかしすぐにくつくつと笑って、服装を夜の色に変えていく。
魔女は楽しげにこう呟いた。
「私が貴女になったら、彼はどちらを選んだことになるのかしらね?」
色を失った方の目から、なぜか一筋の涙がこぼれる。
それがイヴのものか、それとも魔女・リリスのものか、誰も知ることはないだろう。
華奢な手からは、あの夜知った温度が失われていた。




