第十二話・ビップルームの傍観者
小さな館の中で、赤毛の少女が笑っている。
彼女は廊下に転がった猫を撫でていた。
艶やかな毛並みからも、適切に世話をされていることがわかる。
「ふ、ふ、ふは、は」
楽しそうな笑い声。
彼女が猫を可愛がっているというより、猫が少女と遊んであげているようだ。
不意に、彼女は窓を見上げた。
ほんのわずかだが、ガラスが曇っている。
外中どちらの汚れかと、赤い巻き毛を揺らして立ち上がった。
ガラス窓の向こうの海岸線が目に写る。
その境目の部分に、何やら大きな塊が浮かんでいる。
楕円形のそれは波に揉まれながらも、動き始める様子は無い。
小首を傾げる彼女に、通りかかった侍女仲間が声をかけた。
『どうしたの?』
『あそこ、何か浮かんでいるよ』
小さな手が示す先を見て、女性は頷きながら微笑んだ。
手のひらの下から、もう片方の拳を出す仕草をする。
『亀さんね』
『かめ?』
『そう、海亀』
興味深そうに少女が見つめていると、亀は少しずつ波に揉まれ、海の中へと消えて行った。
同種と比べても大きな体を、器用に流れに乗せて泳ぐ。
海亀はどこか一点を目指して進んでいた。
突然、それの顔が崩れたかと思うと、ぼんやり光る泡へと変幻した。
しかしその泡は水面に昇ることも、水流に押されて散ることも無い。
巨体は進むほどに肉を失い、泡は意志を持って密集していた。
やがて異変は海亀以外にも訪れた。
岩肌のカニ・小さな魚・なわばり争いをしていたタコまでもが、泡の集合体を仰ぎ見る。
その一瞬、この星の海は呼吸を止めた。
気泡がその密度を高め、極限に達した刹那ーー水の柱が吹き上がった。
柱は雲を超えると速度を増し、徐々に次元を超え始める。
地上からは見えなくなった頃、海中はいつもの調子に戻った。
この日、老齢な漁師が不可解な水柱を見たと言うが、それを信じる者は少なかった。
密集していた泡は、とある天体に達した瞬間また姿を変えた。
人間の若い女性によく似た容姿。
「う、うーん。最近引きこもってたからなぁ。節々が固いや」
長いサイドテールを払って、彼女は乳白色の地面に立つ。
「さて、マナグワチちゃんのご機嫌はいかがかな?」
月神の名前を口にして女性は眼前を見上げる。
そこには白で統一された社が鎮座していた。
大峡谷で漁業民に信仰されていたーー海洋神・ヤムは不敵な笑みを浮かべる。
彼女に付き従うように、魚型の海水が宙を泳いでいた。
「やっほ、マナグワチちゃんいるー?」
「ヤム様!? え、えぇ、いらっしゃいますよ」
困惑しながらも従者は海洋神に微笑む。
社内にいるのは人に近い者、獣に近い者、その中間などが入り混じっている。
(また銀髪か……趣味わかりやすー)
案内されるままに進むと、大きな宴会場にたどり着いた。
白銀の空間で、ひどく目立つ黒点がある。
一つ目の黒狼、月神・マナグワチは美男美女に囲まれながら客を迎えた。
「随分と久しい顔だこと」
「まー、僕がここに来るのは手間がかかるからね」
「酒はいるかえ?」
「お、じゃあ一杯だけ」
親しげに言葉を交わしつつ、ヤムは差し出された杯を受け取った。
ここは神界。
七次元に存在する、この銀河そのものの管理を行う場所である。
彼女達の姿は、地球の生命と接触して与えられたイメージ――その中で特に気に入ったものを反映しているに過ぎない。
現在の天使や悪魔とは違い、神界の住民は「自我を構築した機構」なのだ。
「それで何の用?」
「んー、意見交換ってやつをしようと思って」
「ふぅん?」
くっと狼の目が細まる。
杯の縁を指でなぞりながら、海洋神は口角を上げた。
「『彼女』の扱いについてだよ」
ただの代名詞だったが、マナグワチには伝わったようだ。
「……まずあなたの意見を聞かせておくれ」
「彼女は僕の地球での別荘、海に手を出すつもりだ。あまり良い気持ちはしないね。罠くらいは仕込ませてもらうよ」
「否定的なわけか」
「そうなるかな」
肩をすくめる彼女に、狼が続けた。
「妾は何もせん。地球という一惑星は、生命多様性では重要だが、管理面では一にすぎんからの。過干渉はよろしくない」
「まー、たしかに」
「それにのぉ」
狼の口元が楽しげに歪む。
その場の温度が冷たさを増した。
「我が愛い子がどう選択するか、どう切り抜けるか……終わるか歩むか。あぁ、考えるだけでたまらん! 妾の全身が奮い立つ! 取り戻した涙をたんと見せとくれ……」
(あー、こういう子だった)
大峡谷の事件の際、自らを慕う者達の苦しみに、ヤムは顔を顰めていた。
しかしその隣で、マナグワチは瞳を潤ませながら叫んでいた。
『愛いぃ! 愚かで未熟で醜悪で純朴であまりにも愛い〜〜!! 死に様さえもこうも可愛いとは……あと三百回見よ……』
(これでも悲しみの知覚はしてるんだよなー。同僚だけど難しー……)
その言動に引きはしても、違和感を持たない時点で、彼らは結局のところ同類なのだろう。
行き過ぎた愛が薄情に写るというのは、話に出た『彼女』に似てるかもしれないとヤムは思った。
「創造主は何もしないかな」
「しないと思うぞ。むしろあやつのことさえ計算の内ならば、止める必要がない」
「だよねぇ」
海洋神はからりと笑う。
月神は微笑みながら囁いた。
「妾達は傍観者に過ぎん。それともなんだ。また共に見守るか?」
「あー、僕その時用事があってね。マナグワチちゃんが『彼女』に否定的なら、嫌がらせ手伝ってもらおうかなーって思ってました」
「む? なんじゃ、また円盤銀河の火球近くの惑星に行くのか?」
「今回のイベントは合同誌出すからさ〜、締切を破るわけには……」
ヤムの瞳にわずかな疲労と興奮が滲んでいる。
「楽しいなら良いが、ちゃんと妾の夫に許可を取って行ってくれよ? ついでにこの恋文を渡してきとくれ」
「絶対後者が本題だよね?」
突如として落ちて来たずっしりと詰まった封筒を手に取り、海洋神は呆れたように肩をすくめた。




