第六話 ふたりぼっちカーニバル
「……やけに静かだな」
季節は夏に移りつつあるというのに、家の中はどこか寒々しい。
シオンが古めかしいカーペットに足を乗せたその時。
——ぐぷり、と嫌な音が聞こえた。
「へ?」
見れば彼の足がカーペットに飲み込まれている。
慌てて床についた手のひらも、じわじわと沈んでいった。
「シオン!」
「ダメだ来るな!」
彼の叫びも虚しく、少女達の足元へ泥沼のようなカーペットが伸びた。
数秒後、少年の体は完全に飲み込まれた。
重苦しい沼から逃れるために、シオンは両手で周囲を掻く。
ふと指先が薄い膜に触れる。
慎重に爪を立てても、つるつると滑るばかりだ。
少年は黒曜石のナイフを抜いて、強引に膜を引き裂いた。
隙間から体を引き抜くと、少年は波打つ地面へと落下した。
「うわっ」
慌てて頭を両腕で庇うも、地面は形状を変えて彼を包み込んだ。
数回軽く弾んでから、ようやくシオンは口を開いた。
「……沈んだから上に行こうとしたんだけどな」
天から落ちることになるとは予想外であった。
黒と赤の市松模様の地面がたぷたぷと揺れている。
ゆっくりと立ち上がってみれば、遠くまで続く白い道だけがあった。
「行くしかねぇか?」
少年はどこか嬉しそうに呟いた。
前に見た暴食の悪魔の精神世界に似てはいるが、こちらはかなり明確な実体があるようだ。
そう分析しながら彼は足を進めていく。
白い道は次第に広くなっていった。
「おん?」
少し先から明るい音楽が聞こえてくる。
そちらの方へ足早に近づいて、少年は思わず目を見開いた。
『ああ、最後の一人のご到着だ!』
そこでは——小さなカーニバルが行われていた。
仮面をつけ正装をした人々が、パートナーを次々と変えながら踊り続けている。
料理を乗せた手押し車が縦横無尽に動き回り、時折互いにぶつかっていた。
とうに形の崩れたケーキを、濁ったワインで喉に流し込みながら、彼らの足は止まらない。
シオンの頭上で一羽の鴉が旋回した。
しきりにしゃがれた声で『ようこそ!』と騒いでいる。
「……なんだこれ」
不意に、少年は人混みの奥にある木に気がついた。
種類はわからないが幹が太い立派な木だ。
「っ!!」
そこには根っこで拘束されたアニタとヴィー、そして爪先立ちで首に縄をかけられたスタンがいた。
その木はじわじわと成長しており、枝から伸びた縄は少しずつ男の首を吊ろうとしている。
「おい! ちょ、ちょっと待て!」
人々を押しやりながら走り出したシオンの肩に手が置かれる。
振り向いた先で、金髪の少女が首を傾げていた。
彼女の持つ銀の盆には、クラッカーのカナッペが乗っていた。
クリームリーズとアボガド、水切りヨーグルトと果物のジャム、ナッツとブル―チーズ。
主催者の趣味なのか甘めの物が目立つ。
泣き顔の仮面をつけながら、少女はその盆をシオンに差し出している。
「あ、すいません。俺はいらな……」
断ろうとしたその時、不快な音が響いた。
蛙が踏みつけられたようなそれは、踊り狂う人間達の腹から漏れていた。
陽気な音楽と混ざり合い、一層不気味さを増したそれは、美しく着飾った人々が刹那にして膨れ上がることでやんだ。
風船というには重たすぎる肉塊が、柔らかい地面の上で呻きながらぶつかり合う。
驚きながら一歩下がった少年の隣で、少女が指を鳴らした。
その瞬間、元人間がチョコレートのように溶け合って、歪な生命が形を成す。
溶解されてもなお、表面に浮き出た臓器は脈動し、血管はその責務を果たそうとしている。
不協和音の産声を歌う怪物に向けて、
「あらぁ、気色悪ぅい」
女性は持っていた盆を投げやった。
先ほどまで確かに存在したカナッペは火種へと変わり、周囲の酸素を奪いながら発火する。
彼女から一足飛びに離れ、シオンは木の方に視線を送った。
アニタもヴィーも気絶しており、この光景は見ていないようだ。
少年は安堵の息を吐いた。
「肥え太った欲望はよく燃えるわねぇ?」
『全くだ』
のんびりした彼女の口調に応えたのは、しゃがれ声の鴉だった。
それは少女の華奢な肩へと着地する。
つぶらな瞳が、警戒している少年を写した。
『これは失敬。自己紹介がまだでしたね』
鴉がそう呟くと、女性は仮面を外した。
その下にあったのは色香のある美しい顔だった。
歳は十代後半といったところだろうか。
スレンダーな体には健康的な色気がある。
しかしシオンの視線はある一点に注がれた。
彼女の額には、縦に割れた三つ目の瞼があった。
燃え盛る炎の前で一人と一羽は楽しそうに笑う。
笑いながら、鴉の体は膨張する。
先ほどの人間達の比ではなく、物理法則を完全に無視して、女性と同じ大きさになったところでそれは破裂した。
飛び散る肉片の奥、濡れ羽色の翼が舞う中心から声がした。
「私は十二の悪魔——嫉妬のトゥルススと申します」
「その娘、偏見のハヴヘストよぉ。楽しみましょぉ」
金髪の少女の手を取って、球状の胴体を持つピエロがそう言った。
燃え尽きたはずの灰が少しずつ盛り上がる。
シオンの周囲に立ち塞がったその壁は、段々と個々の形を取り始めた。
灰からするはずのない粘着質な音を奏でながらそれらは人に戻る。
しかし人というには肉が足らず、完全な骸骨というには、余計な肉がこびりついている。
声を発する代わりに歯をカチカチと鳴らして、骸骨兵は各々自分の武器を持ち上げた。
「それは私とパパが今まで契約したマスタぁの遺体よぉ。魂は縛れないけどぉ、肉体は死んでも私達のものなのぉ」
「嫉妬に身を任せて我々を従わせた者の末路です。道化にしてやっただけ優しいというものでしょう?」
「その通りよパパぁ」
槍が、矢が、剣が、手斧が、一斉に少年へと向けられる。
「さあ、遊びましょう」
「せいぜい頑張ってねお客様ぁ」
お祭騒ぎの幕は上がった。
風切り音が鳴り響く。
「おっっっりゃあっ!」
ナイフで強引に仙骨を砕くと、バランスを崩した骸骨が地面を這いずった。
奮闘する少年の眼前で、二人の悪魔が木のそばに歩み寄る。
「アニタ! ヴィー!」
思わず大声で呼びかけるも、二人から返事は無い。
「ちっ!」
不満の滲む舌打ちを注意する者は今この場にはいない。
気絶しているアニタの双丘を見て、偏見の悪魔はシオンに視線を移し、片方だけ口角を上げた。
「うーん、やっぱり大きい方がいいのぉ?」
わざとらしく肩をすくめ、自身の形の良い胸元に両手を添える。
残念そうに言うわりには笑顔が隠せていない。
「いや勿論慎ましやかなのもそれはそれで素晴らしいでああああああああああぁぁぁぁぁ」
生真面目に答えた少年は、槍兵の追撃を避けながら転がっていった。
「ほんとぉ? やったぁ」
ころころと笑う彼女の頭を、嫉妬の悪魔が優しく撫でる。
ピエロの化粧越しでもわかる、穏やかな慈愛の表情であった。
偏見も彼の手のひらにそっと擦り寄る。
「当然だよ。お前は私の娘なのだから」
「パパの『理想の娘』が、他の人にもそうかはわからないでしょぉ?」
「わかる必要があるのかい?」
「これっぽっちも無いわぁ」
「……父娘仲がよろしいことでっ!」
骸骨兵の肋骨が砕け散る。
嫉妬の悪魔はシオンに向けて微笑んだ。
「羨ましいのなら、君の父の姿になって君をもてなしましょうか?」
「あいにくと母子家庭でな! 父親の顔は知らねぇよ!」
少年は大きくナイフを振りかぶった。
黒い刃にこびりついていた腐肉が地面に叩きつけられる。
小ぶりな刃物では限界があるのか、数の力に若干押されているようだ。
嫉妬は首を横に振った。
「それは残念。ふられてしまった」
「どんまいよパパぁ」
「彼とは魂の相性が良さそうだったんだがね……」
「私はこの銀髪の子が気になるわぁ」
「パパを無視しないでおくれハヴヘスト」
彼女は父の抗議も聞かず、アニタの白い頰を指先でなぞると、そっと口を開いた。
「誰が望むのだろう。善良な魂を。誰が愛すのだろう。愚かな大罪人を。我が名は——偏見の悪魔・ハヴヘスト」
それはどこか幻想的な光景だった。
二人の間に、半透明な円形がいくつも発生し点滅する。
この悪魔が一番得意としている、探索魔術の起動画面である。
それらを移動させ拡大し時には消去を繰り返す。
不意に、偏見は眉をひそめた。
「んん~、この子と相性は良さそうなんだけどぉ、微妙かもぉ」
正確にいうと肉体と魂の相性は、特例召喚が可能なほど良い。
しかしどうも性格がそぐわないらしい。
スタンからアニタに契約を移せたら最高だったのにと、偏見の悪魔は唇を尖らせる。
——次の瞬間。
悪魔達の背後で、骨片が放射状に吹き飛ばされていった。
「…………何それぇ聞いてないわぁ」
二人が振り向いた先では、屍肉から槍を奪ったシオンが、それを軽々と振り回していた。
少年は呼吸音に合わせて足を運び、骸骨兵の間を走り抜けていく。
槍を地面に突き刺し跳躍、そのまま重力を利用して振り下ろし頭蓋をかち割る。
声も表情も感情も無く、少年は淡々と舞っていた。
必要最低限の動きで敵の刃先を避け、確実に一撃で沈めていく。
彼の金色の目だけが、異様に鋭く光っていた。
先ほどまでとは全く異なる、人と獣の中間をいくような静かな戦い方だ。
否、戦いというより——彼による一方的な殲滅である。
最後の一体の背骨を破壊して、少年は槍を投げ捨てた。
「よっしゃ! 終わったー!」
一転して普段の調子に戻り、彼は大仰にぷらぷらと手を揺らした。
「あー痛ぇ、重たい武器は扱いづらいから使いたくねぇのに……」
ぶつくさと呟くシオンに、高らかな拍手が贈られた。
「お見事ですお客様。相当鍛錬を積んでらっしゃる」
「ご丁寧にどーも、トゥルスス。うちの仲間二人とそこの家主解放してくんない?」
「家主という名の一般廃棄物以外でしたらすぐにでも」
「……手前のマスターに厳しくない?」
「いやぁそんなことはありませんとも?」
嫉妬の悪魔は陽気に笑っている。
しかし誰の目から見ても、それが本心で無いことは明らかだ。
ヴィーとアニタの方がはるかに重要ではあるが、ここで彼を見捨てるのはシオンの良心が痛む。
何より悪魔がここまでマスターに反抗していることには興味がある。
木の様子を伺いつつ、少年は悪魔との会話を試みた。
「なんでそんなに怒ってんの?」
「……なぜ、ですか」
「確かに勝手に入ったのは俺達だけど、ここまで巻き込まれたわけだし、それぐらいは教えてくれたってよくねぇ?」
まっすぐに自分を見つめる少年に、嫉妬は笑みを深めた。
「とても単純なことですよ?」
歪んだ笑顔の隙間から低い声が告げる。
「このマスターは、自分で召喚しておきながら……私の愛娘を『化け物』と呼んだ」
嫉妬の悪魔は自分の感情をなだめるためか、自分の丸い腹をゆっくりとさすっている。
「私自身はどうでもいい。ただ、ハヴヘストを侮辱する者には我慢がならない。単純で、明快な、譲れない私の基準です」
「なるほどなー」
「私もムカついたからぁ、パパと一緒にマスタぁで遊ぶことにしたのぉ」
いつの間にか背後に来ていた偏見が、気怠げにシオンに笑いかける。
よく見ると、服の構造上覗く両脇腹、第十二肋骨に沿って大きな目がついていた。
シオンの目線に気がついたのか、彼女は手を交差させてそれを隠した。
「……エッチ」
顔をほんのり赤く染めて呟く。
少年は慌てて両手を振った。
「え、や、違うぞ! やましい気持ちはねぇ!」
「ほんとぉ?」
「本当!」
「これっぽっちもぉ?」
「…………………………………………ちょっとだけあります……ごめんなさい」
目については好奇心だったが、張りのある滑らかな肌に対し、そういった感情が湧かなかったと言えば嘘になる。
シオンが耳まで赤くなっているのを見て、偏見の悪魔はケタケタと笑った。
「やだぁ、この子可愛いぃ〜」
「あ、遊ばれた……」
気を取り直してシオンは木を見上げる。
「この木はどういう理屈で成長してるんだ?」
「気分次第ですよ。これ自体に意思があります。そこまで確固たるものでは無いですが。快不快に大きく左右されますね」
「——それを聞いて安心したわ」
突如乱入した声と同時に、太い根が怯えるようにヴィーから離れた。
彼女の手には火の点いた数本のマッチがあった。
根が完全に離れてから、少女はマッチを手のひらで握り潰す。
火が消えた棒を地面に落として、固くなってしまった腰を回した。
「あいたたた」
「ヴィー!」
キラキラと顔を輝かせるシオンに、ヴィーは片手をあげる。
案の定、手のひらをうっすら火傷してしまっていた。
「無茶するなぁ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「おん?」
「いやぁ、これまたお見事」
心からの拍手を送る嫉妬の悪魔を、ヴィーは横目で見る。
一方、偏見は現状を一切気にせず、アニタのふわふわの髪を三つ編みにして遊んでいた。
「随分とアニタが気に入ってるんだな?」
「この子に染み付いてる偏見ったら美味しそうなんだものぉ。どっしりしててぇ、ちょっと酸っぱい……うーんとぉ」
例えを探しているのだろうか。
片目をつむった悪魔の頭上に、ラズベリー入りのチーズケーキと、生クリームを添えたザッハトルテが浮かび上がった。
「ハヴヘスト、出てしまっているよ」
「あらぁ、もったいない。食べちゃってちょうだいお客様ぁ」
「さっき遠慮無くカナッペ燃やしてなかったっけ? いただきまーす!」
「ちょっとは迷いなさいよ」
「こにょけぇきふまい!」
「詰め込むな詰め込むな」
結局シオンは一分と経たぬ内にチーズケーキを完食した。
呆れて頭を抱えながら、少女は嫉妬に声をかける。
「ねぇ、いい加減アニタから根っこ避けてちょうだい。あとあの男もね。実力行使はしたくないわ」
「やれやれ、せっかちな方ですね」
嫉妬がぱんっと柏手を打つと、銀髪の少女を拘束していた茶色の根が緩んだ。
そのついでと言わんばかりに、スタンの首の縄が切れ地面に落とされる。
対応の差が顕著である。
「……ん」
小さな吐息と共に、アニタが目を開ける。
ぱちぱちと瞬きするそのサファイアには、見慣れた二人と見知らぬ二人が写っている。
「え? えと、あれ?」
混乱する彼女の元にシオンが駆け寄った。
「大丈夫だ。この二人に敵意は無いから」
「お客様には大変楽しませて頂きましたからな」
嫉妬の胡散臭い笑みを無視して、少年はアニタに手を差し出した。
恥じらっているのか、はにかみながら彼女はその手を握る。
「ありがとう」
白く細い手は、幼い頃よりも柔らかかった。
「お、おう」
気恥ずかしさから逃げるように、彼はスタンの様子を見に行く。
白目を向いて気絶している彼の背中に手を置くと、ぐじゅりと不快な音が鳴った。
その正体は、シオンの指先がスタンの肉に食い込んでいる音だった。
つとめて冷静に指を引き抜き、手のひらを開閉してみても、特別違和感は無い。
「ああ、その一般廃……マスターの肉体は貴方達と同じように現実世界にあります。ここにあるのは、そうですね、精神体とでも言いましょうか」
「実体が曖昧なのか?」
「ええ、逆に言えば、外部からの干渉が容易だということです」
ぱっと顔を上げれば、優しい表情をした嫉妬の悪魔と目が合った。
「……気になるなら存分にご覧になったらいかがでしょう。まあそんな男の記録など、面白くもない駄作未満ですが」
その言葉に少年の目が光る。
アニタとヴィーは顔を見合わせ苦笑した。
いつもの手帳と万年筆を取り出して、彼は満面の笑みで二人に叫んだ。
「ちょっと行ってくるな!」
「はいはい行ってらっしゃい」
「気をつけてね、シオン」
シオンの腕がずぷずぷと肉に埋まっていく。
慎重に探っていると、視界にスタンの記憶が流れ出した。
(アクルトの時より不鮮明だな……人間の記憶だからか?)
どうやら玄関を入った直後の広間で、悪魔召喚が行われていたようだ。
この男は没落貴族で、召喚に必要な触媒や召喚詩については、人伝てで知ったらしい。
しかし触媒は用意できず揃っていなかった。
おそらく良くも悪くも相性は良かったのだろう。
魔術陣が発光し悪魔達が姿を見せた。
「十二の悪魔が一人——嫉妬のトゥルスス、ここに」
「同じく十二の悪魔が一人——偏見のハヴヘスト、ここにぃ」
呆然としていた男は偏見の悪魔を見ると、その顔を歪めた。
「んだよ……偏見の悪魔は女って聞いたのに、ただの化け物じゃねぇか!」
どうやら自分の力を過信し、二名同時召喚に踏み切ったものの、予想と違っていたらしい。
(民間伝承のサキュバスなんかと混同してんなこりゃ……まあ、あれも色々あるけど)
「大人しく色欲の召喚方法探すべきだったか? まあいい、穴はあんだろ。俺がお前達のマスターだ! せいぜい役に立てよ!」
「これはこれは。よろしくお願いしますマスター」
彼らを見下している男は気がつかなかった。
無言で追従し頭を下げる二人の目に、明白な殺意が宿っていることを。
(うーん、これ以降は記憶がぶれてよくわかんねぇ、二人に直接聞いた方が早いな)
そう判断し、男の精神体から腕を引き抜くと、シオンはすぐに肩の力を抜いた。
すぐ隣にザッハトルテを味わっているアニタがいたからだ。
彼女はとろけた表情で甘味を咀嚼している。
「あらシオン、早いわね」
「にぅ!?」
まさかこんなに早く戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
少女はごまかすように口の周りを覆った。
照れているのか、頰が朱色に染まっている。
こみ上げる愛おしさに口角を上げて少年は尋ねる。
「それ美味いか?」
「…………うん」
「そっか、よかったな。おん?」
おずおずと銀のフォークで、最後の一口が差し出された。
素直に礼を言ってから口で受け取る。
チョコレートのどっしりした甘さが、優しい歯ざわりと共に広がる。
「ん、美味いなこれ」
ほっと胸をなでおろすアニタの口元には、生地の欠片がついている。
ヴィーは無言でそれを拭いてやった。
「——つまり、シオン様のお力を借りればこのゴミとオサラバできると?」
「ゴミって呼んでるのね……」
「俺の力じゃねぇけどな。代わりに俺らと家主の精神体を、無事現実に戻してくれ」
「そういうことでしたら喜んで」
嫉妬の悪魔はピエロの帽子を外して頭を下げた。
その隣で娘の方は、名残惜しそうにアニタに頬ずりしている。
「えーん、この子をマスタぁにしたかったわぁ」
「あ、ありがとうございます?」
「あなた華玉でしょぉ? 綺麗なお目目ぇ」
さらりと前髪を掻き分けて、偏見はうっとりとした表情で話しかける。
「ねぇ、人間に対して何か思うことは無いのぉ?」
「人間にですか」
少女は真剣な顔で悩んでから呟いた。
「特には、何も無いですね」
「え?」
ぽかんと口を開ける悪魔に、アニタは慌てて言葉を続ける。
「だ、だって……わたしが人間をどれだけ恨んで嫌っても、お母さんはやみんなは生き返らないじゃないですか。復讐は何も産まないでしょう?」
「それは」
偏見の悪魔は冷や汗をかいた。
冷や汗など、彼女には初めての経験だった。
「それは、責められたくない加害者側の言い訳よぉ……」
少なくとも彼女の口から出てくるべき言葉ではない。
出てくること自体が異質さを感じさせる。
幼馴染の少年は無言で目を逸らした。
これが、抑圧されそのように教育された結果、反抗心が失われた結果であればまだ良かった。
「えっと、私……何か変なこと言いました?」
彼女は優しいだけなのだ。
優しいからこそ、ただ困った顔で微笑んでいるのだ。
それがどれほど尊くて、そしてどれだけ悲しいことか、彼女自身は知る由もない。
(同じ立場だったとしたら、俺は、きっと許せない)
険しくなった目つきにアニタが気づかないよう、彼はバンダナを引き下げた。
現実世界への帰還は、嫉妬の悪魔の腹から成された。
正確には悪魔の胴体が裂け、そこから寝台に放り出された。
どうやら肉体は事前にこの場所へ移されていたらしい。
女性二人は比較的優しく、シオンは容赦無く吐き出されて変な声をあげた。
「おかえりなさいませお客様」
朗らかに笑うピエロの胴は元に戻り、カーテンのように服を閉じている。
家主は床で気を失っている。
その顔面は涙や涎が垂れ流しになっていた。
「……どうやってここまで追い詰めたんだ?」
「うふふぅ、結構頑張ったのよぉ?」
三人と同じシーツに横たわり、偏見の悪魔は足をぱたぱたと動かした。
その様子を嫉妬の悪魔がどこか誇らしげに見つめている。
「私は嫉妬で」
「私は偏見でしょぉ?」
「私達はマスターの中にあるそれらの感情を、無理やり高めたのです」
「コップから溢れちゃうぐらいに、ねぇ」
自分の成果を静かに、しかし楽しげに悪魔達は語った。
恍惚とした表情で、彼らが作り上げた破滅を歌い上げる。
「最初は近しい人が信用できなくなって、親と妻子との関係が壊れました」
「次は近所の人ぉ、そして周りにいる人間全てぇ。自分よりも劣っている奴らが自分を陥れようとしてると思い込むのぉ」
「どれだけ他者への嫉妬に狂ってしまっても、自分よりも劣っているという偏見が邪魔をして、それを認められない」
『そうやってそれは勝手に壊れた』
彼らはそう呟いて嬉しそうに笑う。
やけに穏やかなその光景は人の恐怖心を煽った。
約束どおりスタンから契約を奪っている時、思わずシオンは口を開いた。
「恐ろしいな」
おもむろに少年の頭を撫でて、嫉妬の悪魔は微笑む。
「嫉妬も偏見も、誰にでもあるからこそ恐ろしいのですよ」
スタンの家からこっそり抜け出し、公園のベンチでシオンの記録が終わるのを待つことになった。
例にも漏れず今回も煉獄に帰す代わりに、これまでのマスターの情報を譲渡してもらったのだ。
悪魔二人分の量となると少なくはなく、少年は満面の笑みで万年筆を走らせる。
「これ……やっぱりあそこの領主か! それでこう繋がって……」
アニタはヴィーから先ほどの状況の説明を受けていた。
夕方になりかけた空の下で歓声が響く。
「よっっっしゃあ! 全員分書けたぞー!」
「お疲れ様!」
「さ、今日の宿に行きましょうか」
「おん!」
急ぎ足で歩き出した一行は、再び先の商店街を通る。
ふとシオンの目の前で、だれかが小袋を落とした。
落ちた瞬間に、金属質な硬い音を耳にした。
(……財布っぽいな)
拾い上げると案の定硬貨の感触が布越しに伝わってきた。
落とし主は細い路地へと入って行く。
「すまん、二人で先に宿行っといてくれ!」
慌てて大柄なその背中を追う。
幸いゆっくり歩いていたらしく、路地に入ってすぐ見つけられた。
「おーい、これ落としましたよ!」
シオンが手を伸ばしたその時、鋭い赤色に射抜かれた。
自分の片手が残さず持って行かれるかのような威圧感。
あまりにも明らかな敵意はすぐに霧散し、人の良い笑顔だけが残される。
「ああ、これは失礼。ありがとうございます」
青年はそう言って笑みを浮かべたまま首を傾けた。
脱色しているらしい灰色の髪の毛が、その動きに合わせて揺れる。
ザクロの色をした瞳には柔和な光さえ見える。
「いえいえ、追いついて良かったです」
「全く気がつかなくて……助かりました」
それでもシオンは先ほどの敵意と、殺意が気になって仕方無かった。
二人のいた路地の壁から、一枚の手配書が剥がれ落ちた。
数年前から指名手配されているらしいその男について、手書きでこう書かれている。
『巨人ノアの子孫・オリバー。
黒い髪に赤い目、そして異様な怪力を持つ男。
見つけたら即下記の連絡先まで』
その文言には、とてもではないが人間には見えない、怪物の絵が添えられていた。




