第十話・その種は空へと至る
砂浜に一人分の足跡が続いている。
温かな砂を踏みしめながら、巨人の妻・エムザラは微笑んだ。
彼女の視線の先では、夫が最後の強度確認をしている。
もうすぐ、箱舟が出航する。
海の向こうには、ノア以上の巨体が覗いていた。
普段なら楽園の底で眠っている怪物が、その体の一部に晒しているのだ。
終末の予兆を横目に、男は舟に手を添えた。
「いよいよね」
夫の肩に座って、エムザラは囁いた。ノアは無言のまま船を押し出していく。
砂浜に跡を残しながら、箱舟は海面へと滑り出した。
潮風に混ざる血の匂いが、怪物達のおたけびが、日常の終わりを肌に知らしめる。
ふと、ノアは足を止めた。
小首を傾げる妻に向けて、彼は重々しく口を開いた。
「……船底の様子を見てきてくれないか」
「え? わ、わかったわ」
鉱物のような腕を橋渡しに、彼女は甲板へと降り立った。夕焼け色の長髪が、男の指先を名残惜しそうに滑り落ちる。
その途端、箱舟は動き出す。
突然の揺れに戸惑いながら、エムザラは顔を跳ね上げた。
「ノア!? ちょっと! なんで進めてるの!」
彼は何も応えない。舟は荒波の中を這うように進む。
女の瞳が不安そうに震えたその時、男は小さな懺悔を告げた。
「一つ、嘘をついた」
「嘘……?」
「『一頭まで』なら、ヒトを乗せても良いと、神託で許しを得ていた」
彼女は息を飲んだ。つい数刻前に見送った、夫の親友が頭をよぎる。
彼は友を、その家族を、自分自身をも見捨てて、エムザラが生きる道を選ぼうとしている。
あいつなら薄々気付いているかもしれないと、ノアは笑った。
「どうして、今から全てが終わるなら、私は、私はあなたと一緒に!」
「君しかいないんだ!!」
羊毛のような前髪の奥で、男の目が何かを堪えるように歪んだ。
「神託に抗えた君にしか、きっと新世界は歩めない」
その言葉に妻は黙り込む。
エムザラは本来、ノアと結ばれるはずでは無かった。彼女は同じ村の男性と結婚し子供を産むように神託が下っていた。
しかしある日、森で木の実を集めていた際に、小鳥達に餌をやる巨人と出会って、一目惚れをしたのだ。
沈黙を続ける妻に、夫は何やら小さな袋を差し出した。
「これは?」
「持っていってやって欲しい。俺の代わりに」
「……代わりなんていないわ」
袋を優しく摘み上げて、エムザラはそっと抱き寄せた。ノアは穏やかな微笑みを浮かべる。
「愛している」
「知ってるわ」
箱舟は突き進み、男の巨体は海に飲まれて見えなくなる。
彼女は唇に触れた塩気が、波しぶきなのか、頬を伝う涙なのかもわからなかった。
大きな揺れの後、女は舟の中に向かった。
後ろを振り返ることはなかった。
不意に、全身が散り散りになるような、弄ばれるような体感に襲われる。
吐き気が耐えきれなくなった頃、舟はゆったりと動きを止めた。
ごぽりと口から気泡が溢れる。
強烈な痛みが目の粘膜に突き刺さる。心臓の高鳴りが命の危険を知らせた。
全身を覆う浮遊感に、エムザラはこの状況を理解した。
――箱舟は海底に沈んでいた。
彼女は反射的に小袋を握りしめる。頭の片隅で本能が叫んだ。
(死んでたまるか)
こんなところで終わってなるものかと、エムザラは扉のノブへと手を伸ばす。
しかし、それを掴みかけた瞬間、手は空を切り、視界は遠ざかっていった。
ここに一つの惑星がある。
海しか無かったそこに大陸ができ、微細な生命が形を持ち始めていた。
淡い陽光の差し込む水底で、舟の残骸は珊瑚で覆われている。
地上で猿人が石器を手にした日、がらくたの中心部に、赤々とした炎が灯った。
じわりじわりと残骸は高度を上げる。
途中ぶつかった大地をえぐり取って、箱舟は雲の上へと昇った。
ぱちり、ぱちり。
浮島の表面で火花が弾ける。
華奢な腕を伸ばして、それは咲くように姿を見せた。
甲高い歌声を響かせながら、燃えるような赤髪を散らして、一人の女性が瞼を開く。
その隙間から溢れた液体に、彼女は怪訝そうに眉根を寄せた。
痛いくらいに優しい火の粉。それだけが胸にこびりついていた。
しばらくすると、彼女は周囲に浮かぶ何かに気づいた。
姿の見えない囁き声のようなそれらは、少しずつ女の姿をーーヒトの形を真似始めた。
彼女はそれらとたわむれ、自分の元に運ばれる情報からこの世界のことを知った。
『三界二獄』と刻まれた扉のこと、次元の断絶、低次元を覗く方法を。
「精霊」と名付けた彼らは、次第に彼女のことを「精霊王」と祀るようになった。彼女は親愛を持ってそれを享受した。
ある日、彼女はある報告を受けた。
精霊達は別次元に対し、直接的には接触できない。
しかし、北島の淵に生えた大木は、向こう側の存在であるのに触れられるという。
案内されるままに歩いていくと、一本の木が目に飛び込んできた。
枝の先にはふっくらとした実がつき、その中身が脈動しているように思えた。
その時――精霊王は思い出した。
旧世界であった全てのことを。
震える指先で、大木の幹を撫でる。どこか覚えのある固い感触に、彼女はくしゃりと顔を歪めた。
王はすがるように額を寄せた。
「どうして……一時でもあなたを忘れるなんて」
確かに伝わるぬくもりで、彼の託した袋の中身が、彼女の遺骸に根をはったのだとわかった。
喜びの涙を流しながら、彼女は目の前で育つ命を祝福する。
「ゆっくり、ゆっくり生まれておいで。大きく、強く、育つように」
木の実の中で、巨人の赤子達が微笑みを浮かべていた。




