幕間・殺人者カイン
彼は大人しい性格だった。
鮮やかな赤毛を持って生まれたが、彼自身はあまりそれを好まず、いつも黒いバンダナを巻いていた。
生まれつきなぜか自信が無かったのだ。
父母はそんな彼に愛情を注いでくれた。双子の弟と、同じように。
やがて少年は神託を受けた。
その内容が、全ての始まりだったと言えるだろう。
『お前は家族の崩壊の原因となる。
命を紡ぎ、時に火に仕え、ただその日を待て』
淡々とした穏やかな声音だった。
まるで、朝の挨拶でもするような、軽やかに告げられた言葉。
朝食の祈りの最中に、赤毛の少年は思わず黙り込んだ。
それからは葛藤の日々であった。
神託は絶対だ。自分は必ず愛する家族を壊すことになる。
しかし逃げるという選択肢は、彼の生真面目な頭には無かった。
暗い夜がやってくる。
その下で、彼は無言で怯えていた。
震える体を満たすのは、神託の日が明日かもしれないという焦りであった。
少年は夜が苦手だった。
それは青年になっても変わらなかった。
鍛冶仕事をするようになってから、何かを作っている間は恐怖が薄れた。
増えた年下達に、玩具を与えることもあった。
喋り相手にはなれない分、何かしてやりたかったのだ。
いずれ傷つける相手が何をと自嘲する。
二階の作業場からは、中庭で笑う双子の弟・アベルの姿が見えた。
父母によく似た顔立ちを見下ろして、青年は眉根を寄せた。
両親は子供達に平等に接している。長子である自分も含めてだ。
それがどれほど難しいか、彼には想像しかできない。
そう、兄弟に差し出された物は同じだった。
ただ、自分の受け取り方が下手くそなのだろう。
穏やかに明るく、誰に対しても優しい弟に対して劣等感が募るのは、自分自身の問題なのだ。
違うのは生まれた順番だけなのに、自分は弟のようにはなれない。
どれだけ父と母が「そのままの」彼を愛してくれているのだとわかっていても、青年は自分が嫌いだった。
見た目も、暗い思考も、それをどうにかしようとしない怠慢も。
今日も己への嫌悪を押し込んで、アベルに声をかける。
いつも通り、信頼を詰められた眩しい笑顔が返ってきた。
ある日の早朝、それはとうとうやってきた。
二人で小屋の整理をしていた時だ。
「兄さん、縄の予備こっちに移したよ」
「わかった」
こちらに背を向けたまま、弟は会話を続けた。
「アクルトが喜んでたね、木彫りの馬」
「そうだな」
「……兄さんは、すごいなぁ」
ぴくりと手が止まる。
「手先が器用で、家族のこともすぐに気がつくし……僕も、兄さんみたいになりたかった」
それ以上はやめろ、やめてくれと唇を噛みしめる。
「——羨ましいよ」
アベルの表情が悲しそうであったことに、兄・カインには気がつけなかった。
目の前が、身勝手な怒りで赤く染まる。
この世界でも当然、ヒトは自然の中で死ぬ。
時には飢えで、時には気候で、時には猛獣によって。
ただ「同族殺し」だけは起きたことが無かった。
しかしこの瞬間、その記録が覆される。
他者の命を奪うのに必要なのは——ほんのわずかな衝動だけであった。
荒い呼吸音が耳に届く。
それが自分のものだとわかった途端、眼前の光景を脳が知覚した。
倒れた弟は、頭から何かを流し、その場に水溜りを作っている。
己の手には折れた木材と、自分の物ではない体液で汚れていた。
一拍置いて、それが血であることを理解する。
「ぁ……アベル?」
沈黙が広がっている。
彼の体は脱力し、微かに動く気配も無かった。
震えた手から木材が落ちた。
顔を両手で覆っても、鼻が鉄臭さを伝えてくる。
動揺と後悔が溢れた頭の中に、「母」の声音が響いた。
『産まなければよかった』
違う、一度もそんなことは言われたことがない。
知らないはずなのに、よく知った声音で繰り返される。その台詞はするりと馴染んだ。
手をどかすと、弟の体の脇に、とぐろを巻いた蛇がいた。
ふと蛇を掴み上げれば、自然と修理中だった椅子が目に入る。
蛇は嘲笑するように鳴いていた。
『こんなことになるのなら、産まなければよかった』
『なぜ、なぜアベルが死んで、あなたが生きているの』
『どうして、彼を殺したの』
(…………わからない)
そう、わからなかった。
衝動はあれど理由はなく、カインは今この瞬間であっても、弟のことを愛していたと言い切れる。
劣等感と自己嫌悪を誘発する象徴ではあったが、同時に大切なヒトだった。唯一無二の、大事な家族だったのだ。
死体を前にして、青年は嗚咽を飲み込む。
良心が叫ぶ。なぜお前が苦しんでいるのかと。
蛇が言う。「責任」を取らなくてはいけないと。
誘われるように、カインは椅子の上に立った。
準備が終わった時には、蛇の姿はただの縄になっていた。
縄で作った輪を首に掛け、彼は目を閉じる。
これは「責任」を取る行為ではない。
それを知った上で、カインは椅子を蹴った。
最後に、頭の中で声は言った。
『ご苦労様、愚かな人類最初の殺人者』
それは母の声を模倣した、全くの別人であった。




