第八話・その慟哭は白紙に残らず
ガリガリと音を立てて、少女は地面に天使を描いた。翼のあるヒトの姿。
不意に、彼女は思った。
「これ」はどのように使われるのかと。
天使という概念知っている。両親から聞いた話では、カインとアベルのお産には、それに近い「使い」が来たという。
「使い」は光の粒であるという以外は、少女の知る天使そのものだった。
今描いているこれも、その一部に加わるのだろうか。
もし、長い時間を過ごすのであれば、どれだけの命を見送るのだろう。
そもそも「断罪」がどういうことかも知らされていない。
「……」
ルフトゥは、そのヒトの目に横線を引いた。
(君は、『罪』を見なくて良い。いずれは等しく終わるものだから)
彼女は自然とそれに名前をつけていた。
かつて故郷に実在した、一神教の天使の名。
「——ミカエル」
一方、アダムは告げられた地点へと歩き始めていた。
脳内に示された場所は、大陸の端、楽園が見える海岸線だ。
一定の歩幅で淡々と進む。
時折水筒の口を噛み、干し肉を飲み下した。
生まれてしまった疑念を追い出そうとしても、それは濃さを増すばかりであった。それは創造主へのわずかな反感だ。
彼は、アダムは土と「主の息吹」から生まれた生命である。
楽園から追放された時、最初の神託があった。
——この大地に仕えよ、と。
その言葉の通り、アダムと家族は地の恵みを受ける代わりに、肥料作りや消毒、定期的な居住区の移動、そしてその知識の共有や革新に従事した。
与えられた役割に疑問は無かった。やりがいさえ感じていた。
勝手にではあるが、大地は自分の母のような存在だとも思っていたのだ。
けれど、突然告げられた「破棄」という単語が、うまく飲み込めないままでいる。
自分は役割を間違えたのか?
それとも、初めから次の世界が想定されていたのだろうか。
ぐるりぐるりと思考は巡り、冷たい風に顔を上げれば、すっかり夜が更けていた。
アダムは思う。
己にできることはきっと何もない。
創造主の宣言通り、この世界は消えるのだろう。
(それでも)
己は忘れてはいけない。
自分は今から、残された家族も失うのだ。また、失うのだ。
否——終わりを知りながら、無力さ故に見捨てるのだと。
暗い夜空の下、男はナイフを握りしめる。
(たとえ、僕そのものが消えた後でも、忘れちゃダメだ)
肉体に、魂に、刻みつけ共にいけ。
忘れるな。自分が失う者を。
一人、一人、赤い線で名前を書いていった。
痛む両腕に包帯を巻きつけて、彼は嗚咽をこぼした。
「ごめんよ、ごめん……ご、めん」
アダムの愛情深さは、そのまま喪失の悲哀になる。
重たいその感情に溺れながら、膝を抱えて男は震えていた。
絶対の神託を前に、できることならここから進みたくないと、そんなことを思ってしまった。
数日かけて海外線にたどり着くと、奇妙な箱舟が目に飛び込んできた。
「……これは?」
思わずアダムが近寄って、指先を伸ばした時、聞き慣れた地響きがした。
「まだ、作り途中だ」
顔を上げた先には、木材を運ぶ巨人が立っていた。
ふっと下手くそに微笑んで、
「酷い顔だぞ、我が友」
ノアはその手を差し伸べた。
こみ上げる涙を押し込めて、彼は親友に首を振る。
「ちょっと、この近くに用があって、それだけなんだ」
「そうか」
「そうだよ」
「……この舟、何のためかわかるか」
突然の問いかけに、アダムは目を見開いた。
巨大な文字通り「箱」の舟が砂浜に鎮座している。
「引っ越すのかい?」
「ほぼ、正解だ」
「ほぼかぁ……」
そう言って、男はくせっ毛をいじった。
彼の手に巻かれた包帯には血が滲んでいた。
「次の世界」
ぽつりとノアがこぼした言葉に、アダムの肩が跳ねる。
「今、なんて」
「この舟に乗せた生き物が、行く先だ」
動揺する男に巨人は続ける。
「そこに、ヒトは含まれない」
勿論、俺もだと大きな躯体は笑った。
神託は随分前に来ていたらしい。
全文を他者に共有することはできないが、その口ぶりから、ノアが破棄のことを知っているのは明らかだった。
少なくとも一人、自分と同じ結末を知っている。
そのことに一瞬安堵のため息をつき、直後に眉根を寄せた。
(何を安心しているんだ……)
厳しい表情のアダムに、巨人はそっと声をかけた。
「俺の名は入れたか」
指差した先には、血塗れの包帯。
ローブに隠すもすでに遅い。
彼は気まずそうに口を開いた。
「な、んのこと」
「入れてないようだな」
「……」
「大方、腕が埋まったから、足に入れるつもりだったか」
「…………」
重たい沈黙は肯定であった。
ノアは静かに青い目を細めた。
「友よ。俺のことは背負わないでくれ。できれば俺の妻も」
穏やかで有無を言わさぬ声音。
そろりと硬質な手でアダムを包む。
「良いんだ。俺たちは互いに背負うと決めている。野暮なことはやめておけ」
「使い」とヒトの間の子である、巨人の一人は微笑んだ。
「……お」
御幸せにと言おうとして、それは今言う台詞かと踏みとどまる。
それでも、幸せになって欲しかった。
親友に、失楽園の直後に助けてくれた恩人に、報いる方法が考えても見当たらない。
なにせもうすぐ、終わりが訪れる。
簡素な別れを告げて、海岸線をたどって行く。
海を隔てた向こう側には、懐かしい楽園の地が見えた。
所定の位置に着くまで、そう時間はかからなかった。
杭はアダムが用意した。指定通り、少しずつ木を削って作った物だ。
唇を噛み締めながら、原初の人類は、地面に杭を打ち付けた。
一瞬、世界の時間が止まった。
杭を中心として、ずるりと何かが持ち上がる。
その整った形の宝石は、少しずつ組み替えるように姿を変えた。
呆気にとられる男の眼前で、断罪の天使が顕現した。
白い甲冑に反して、上半身の防御が心もとない。
しかしその素肌に指一本触れることも叶わないだろう。
そんな殺意を感じながら、アダムは思わずへたり込んだ。
興味がないのか気づいてないのか、彼を無視したまま、天使は三対の翼を広げる。
(あ……あれは、目が無い、のか?)
窪んだ瞼を空に向けて、それは強く歯ぎしりをした。
刹那、地を這うような慟哭が溢れる。
翼をいびつに伸ばして、あちこちに突き刺していく。
その衝撃が次第に収まると、それは下手くそに頰を掻いた。
ふと、アダムは気がついた。
組み立てが上手くいかなかったのか、白い二の腕がひび割れている。
ほぼ無自覚に近い行動だった。
度重なった家族の死をきっかけに、彼は少し壊れてしまっていたのかもしれない。
自分のローブを破り、それの二の腕に巻きつける。
ピタリと、天使は動きを止めた。
警戒とは違う、観察するような視線を向けられる。
「はい、できた」
縛られた布の匂いをふんふんと嗅いで、それは一言も発さず、かといって男に攻撃もせずに、天へと昇って行った。
(あれが、天使? だとするならば……始まるのか)
不意に彼は、疲労を訴える足を強引に動かした。
ふらふらと進みながら、アダムの理性は思った。
きっと、破棄の瞬間に側にいても、自分は何もできやしないと。
それでも、それでも彼は地面を踏みしめる。
ただ家族の元に帰りたい。それだけだった。
上空で、天使・ミカエルはある者と出会った。
ゆったりとした服装の自分以外の天使。
杭の突き刺さった先、世界の反対側で生まれた、己の半身。
最初からそうあるのが自然であったように、二人は隣に並んで飛び始めた。
その後ろを、羽から生まれた天使達が続いた。
白い軍勢の中、他の天使とは明らかに違う者がいた。
空の大半を覆っていた、彼の大きな翼が収束する。
彼は瑠璃色の眼球を転がして、まっすぐに降下し——その拳を大地に打ち付ける。
『断罪、執行』
そんな低い声が、全員の頭に響き渡った。
華奢で美しい指先に、続々と武器が握られる。
彼らは断罪の天使。
主から罪ありきとされた存在を打ち砕く者。
この世界の生命は、その八割が「罪人」として認定された。
「う、ぐぅぅっ!」
突然の地震に、アダムの足はもつれて倒れこむ。
視界の向こうで、逃げていた鹿が、何かに切り伏せられた。
戸惑いつつも辺りを見渡すと、先ほど見た天使と似た存在が、動植物を淡々と殺していた。
涼やかな無表情で、義務的に動作を進めていく。
家から走ってきたのか、老いたヒトが貫かれ、赤黒い血がアダムに降り注いだ。
死はこの世界でひどく身近だ。
だとしてもその光景は異様だった。
興奮も抵抗も悲哀も無く、天使は命を奪っていく。
慈悲さえ感じられる表情で、彼らは純粋に仕事をこなしていた。
(……急がなくては)
痺れる腕で体を引きずって、少しでも前へ進む。
自分には守れないと知っていても、守りたかった。
不意に、体の下に亀裂が入る。
それは徐々にずれていき、簡単に彼の体は投げ出された。
息を飲み、浮遊感を覚えた瞬間、彼の首元を何かが掴み上げる。
「うぁっ、ぶっ」
投げ出された先で目を開けば、ローブの切れ端を与えた天使が立っていた。
どうでも良さそうにその場から離れて行く。
単純に進行方向にあって邪魔だったのかもしれない。
しかし、偶然にも投げられたところには、まだ柔らかな草が茂っていた。
「今日は風が変な感じだね」
「何も無いと良いけど」
「去年は虫がひどかったな!!」
兄弟姉妹がその日の仕事を終え、家の中で奇妙な静けさに耐えていると、ふと窓を眺めていた次女が声を上げた。
「父さん!」
「え、本当?」
父に気づいた子供達が、玄関扉を開け、ほっとしたような笑顔で手を振る。
アダムは大きく口を開けた。
急いで呼びかけなくてはいけない。そんな気がした。
しかし、なんと声をかければ良かったのか。
伸ばした手は、望む者には届かない。
頭上から降り注いだ白い光は、瞬きの内に家族を飲み込んだ。
その日、一つの世界が幕を下ろした。
「……っあ、れ?」
白い靄が立ち込める、羽を敷き詰めたような地面に、アダムは立っていた。
そっと歩みを進めると、背後でぼろぼろと大地が崩れる。
どうやら強度はあまりなく、踏みしめた端から消えてしまうようだ。
暗い闇に飲み込まれた欠片の行く末はわからない。
(奇妙な場所だな)
破棄・漂白で死んだのだろうと彼は結論づける。
であればここは死後の世界かと、辺りを見渡した瞬間、両腕に鋭い痛みが走る。
よく見てみれば、アダムの姿形は全く変わっていない。
辺りには靄が広がっている。
じわりと、嫌な予感が背中を伝った。
残念なことに、それは当たることとなる。
創造主は、忠実で謙虚で誠実な従僕に報酬を残した。
家も、大切な家族も、大元なる土も、慣れ親しんだ空気さえも無い。
おそらくは善意に近い何かで、主は男に——長い、永い孤独を与えたのだ。
世界の残りカスに膝をついて、アダムはなけなしの涙をこぼしていた。
叫び声すら、あげられなかった。




