第六話・旧世界
困惑しているのか、黒一色の男はぴくりとも動かない。
無事に着地すると、黒髪の少年は軽く手を上げた。
「よっ。久しぶり」
「……軽くない?」
そう思わず口からこぼれる。
片手で頭を抱えながら、アダムは思考を巡らせた。
煉獄の主人として、少年少女の来訪はすでに感知していた。
無垢なる悪魔の自室で、緊急用の扉が開かれたこともだ。
しかし、その意図が全くわからない。
(私は、隠し事をして、身勝手に消えた側だろう)
それなのに、彼らは怒る様子も見せず、平然と辺りを見渡している。
「埃が全然無いな。こんなに広いのに」
「そもそも煉獄に埃とかあるの?」
「あ、お人形もある……かわいい」
「ちょっとはせいりしたラ?」
口々に喋りながら、三人と一頭は落ちているガラクタを拾う。
(他人の部屋を勝手に漁るな……)
突っ込みたくなる気持ちを抑え、孤独の悪魔はわざとらしく咳払いをした。
ぴくりと少年が視線を向ける。
ボロボロのマントの裾が翻る。
「——何をしに来た」
硬く、冷たい声音だった。
中性的な低い声は、彼らの知る者とは程遠い。
それでもシオンは微笑んだ。
「もう一度、今度は俺から旅へ誘いに。それと」
彼が浮かべた笑みは、いつもの好奇心に満ちたものとは違っていた。
再会の歓喜を押し殺して、涙を堪えた笑顔であった。
「あんたの話を、聞かせて欲しい」
少年は帝国の西端で見た、満月の夜を思い出す。
「もし抱え込んだものを吐き出したいなら、俺は逃げも隠れも見捨てもしないよ」
無自覚の内に伸ばされた手は、アダムの記憶よりも、分厚くなっていた。
シオンの懇願を受け、悪魔は小さくため息を吐いた。
確かな成長と、変わらず真っ直ぐな本質。
思わず目を背けたくなる眩しさは、ちょっとだけマシになったような気がした。
しかし、どう返答したものか。
悩む内に、ふと彼はアニタとオリバーに視線を投げた。
助けを乞う様子に、二人はただ肩をすくめる。
嫌なら断れば、少年は無理強いなどしない。
それをわかっているはずのに断らないのは、真面目で優しい「彼女」らしいと、彼らは嬉しそうに口角を上げた。
深い、深いため息が響く。
「……愚かな懺悔に、付き合わせることになる」
少年少女の視界に、黒い煙が広がった。
マントは少しずつもや状になり、短くなった袖からは血塗れの包帯が覗く。
煙を吸い込んだ彼らは、重たい眠気に飲み込まれていった。
誰が望むのだろう。善良な魂を。
誰が愛すのだろう。愚かな大罪人を。
比翼の鳥は息絶えて、連理の枝は枯れ落ちた。
後戻りできる道はない。
たとえ己を失っても、懐かしい声があなたを縛る。
これはとうの昔に——破棄された世界の話。
×××
はじめに天地が作られた。
昼と夜ができ、天地の間には大空が敷かれた。
神が用意した「楽園」では、様々な生命が育ち始めていた。
しかし、原初の人類・アダムとイヴは、神の決まりに違反し、楽園を追放されることになる。
蛇にそそのかされ、食べてはいけない「実」を食べたのだ。
失楽園の果てで、彼らは——
「アベル兄、パン焼けたよ」
「よし! 運ぼうか」
竃から小麦のパンを取り出す。
平たいそれを重ねて、兄弟は室内へと向かった。
土製の煉瓦でできた家は広く、彼らがいたのは中庭のようだ。
廊下を歩いていると、二階から声をかけられる。
「おーい。そこの二人、パンを置いたら、外で遊んでるのを呼んできてくれ」
バンダナをつけた長男は、幼い弟を抱えていた。
「わかったよー。ドゥジェンどうしたの?」
「俺の工房で寝てた」
「ぷー……ぷー……」
台所に立ち寄ると、母が二人に微笑んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「母さん、お腹に赤ちゃんいるんでしょ? スープなら僕がやったのに」
「まだ大丈夫よ」
彼女——イヴの薄い腹は、昨日より少し膨らんだように見えた。
鍋の中では豆と川魚が煮られている。
青年はパンを並べ、家の外で声を上げた。
「お昼ご飯だよー」
しばらくすると、泥塗れになった子供達がかけてくる。
「見てくれ!! つるつるの団子!!」
「ルワンうるさぁい」
「おにゃちった……」
「ほら、三人とも顔と手を洗って、着替えておいで」
『はーい』
お行儀よく手をあげて、真ん中の三人は走って行った。
年下を先導しながら、アベルは食卓につく。
卓上には、羊の乳と魚のスープが増えていた。食後の干しブドウもある。
不意に玄関が開いた。
「ただいまー」
「父さん!」「おかえり!」
幼い双子の突撃でよろめきながら、父・アダムは声を上げて笑った。
農作業帰りだろう、肌は健康的な色に焼けている。
次々に席に座り、家族は食事を始めた。
お祈りを済ませて、子供達は各自の好物にかぶりつく。
「魚おいしい。ほろほろする」
「ルー、コショウ取って」
「んまー!」
「はい。もう残り少ないね」
その様子を、両親は愛おしそうに眺めていた。
彼らが楽園から出た先では、すでに「ヒト」が暮らしていた。
初期見本として二人が作られた後、陸地ではそれを参考にした種が繁殖し、その生息域を広げていたのだ。
楽園と外の時の流れが違ったのではと、アダムは推測している。
確かめようにも、もう帰ることはできない。
楽園と言われた土地と、今彼らのいる大陸は、広い海に遮られている。
ヒト達と交流しながら、二人は新しい生き方に順応した。
家族の数も増え、今では総勢十名の大所帯となっている。
最も、全員血が繋がっているわけではない。
長女のアイトワラスや、四男のルー・ガルーは、飢饉で捨てられていたところをアダムに拾われた。
次女のルフトゥも、突然の「神託」で告げられた養子だ。
食後、甘い干しブドウを噛み締めてから、彼らはそれぞれの仕事に戻った。
この世界でヒトは皆、「神託」によって職業などを定められている。
それは一生に一度だけあるもので、通常他者に伝えることはできない。
次女の一件で、二度目のそれが起こった際、父親はひどく驚いた。
その肝心のルフトゥを見ながら、アダムはぐっと眉根を寄せる。
「心配?」
いつの間にか、イヴが肩を寄せてきていた。
「少しね、馴染んではきたみたいだけど」
「急な変化には戸惑うものよ」
夫の背中を撫で、彼女はそっと目を伏せた。
最初に「実」に口をつけたのは、楽園に変化をもたらしたのは、他ならぬイヴだ。
とある蛇と目を合わせてからの記憶はなく、気がつけば果実を貪っていた。
それを見つけたアダムは、彼女の共犯になるため、「実」を奪って口にした。
イヴは今でもそれを気に病んでいる。
下手な慰めの言葉しか思いつかず、彼は妻を抱き寄せた。
この世界でも、変わらず夜は来る。
アベルは遊んでいる弟達を追い立てた。
「ほら、早く寝ないと、夜の魔女が出るよー」
ふと、ルフトゥは姉に問いかけた。
「アイ姉さん、魔女っているの?」
「うん?」
寝床を整えながら、彼女は首を傾げる。
「ここよりもずっと北、まだヒトが住んでないところから、夜がやって来るでしょう。その夜を管理してる魔女がいるんだって」
「ふぅん」
「まあ、噂話だけどね。何? 怖いの?」
「ち、違うし!」
ツンと顔を背けて、妹は布団に潜ってしまう。
言い過ぎたかと、長女は苦笑した。
娘達の会話を聞きながら、母親は廊下を歩く。
見上げれば、丸い月が昇っていた。静かで冷たい夜が、大空を埋め尽くしている。
「……わたしは、夜も好きだけど」
懐かしむような表情で、彼女は夫の元へ戻った。
その日、父親はどこか落ち着かない様子だった。
兄弟姉妹は珍しく、青と白が基調の服装に身を包んだ。
しばらくすると、微かな地響きが聞こえた。
一番最初に反応したのはアダムだ。
「ノア!」
玄関を開いた先に、巨体の男性が鎮座している。
そっと口を開き、重々しい低い声をこぼした。
「久しいな。友よ」
巨人・ノアは分厚い手を差し出した。
鉱石と植物の中間の固い肌に、手を重ねると、確かな生き物の温もりがある。
彼の肩から滑るように、赤毛の女性が降りた。
「今日はありがとう。これ、お土産」
「こちらこそだよエムザラ。二人ともおめでとう」
彼女は照れ臭そうに頰をかいた。
ノアとエムザラ。
二人は今日、結婚式を挙げるのだ。
会場は外に準備されていた。
久々に牛肉や鹿肉が食卓に並んだ。
式自体は慎ましやかなものだ。参列者は友人の家族だけ。
子供達は夫婦の周りで輪になって踊る。
蜂蜜とコショウの入ったワインも振舞われ、ほろ酔いのアダムとノアが惚気続け、妻達は呆れながら笑っていた。
夜が更ける前に、客人達は海辺へと発った。
ノアの高い高いが気に入った少年達は、名残惜しそうにしがみついていた。
また会おうと一人一人と握手して、巨人とその妻は去っていく。
その後ろ姿は、夕焼けに溶けて消えていった。
この世界で、少なくとも家族は幸福だった。
皆、穏やかにたくましく生きていた。
しかし、何においても永遠などありはしない。
めでたい式から一ヶ月経った頃だ。
血の海に横たわるアベルと、その脇で首を吊ったカインが見つかったのは。




